2012年05月06日

「ハンセン病」問題−人権の視点から−

ハンセン病訴訟の原告完全勝利,心から嬉しい。歓喜の思いを久しぶりに味わった。しかし,マスコミの報道が過熱していく一方で,不安が広がっていく。かつてのエイズと同様の「流行」が本質とは離れたところで「宣伝」されていくことに危惧を感じている。
例えば,ハンセン病そのものに多くの説明がなされていない。感染しない,遺伝しないというハンセン病問題の核心が報道されていない。彼らが訴える「隔離」の意味,なぜ彼らが「これでようやく人間として生きることができる」と言っているのか,彼らの言う「差別」「偏見」をどのように捉えているのか,等々について,「長い間,差別や偏見に苦しみ,人権を疎外されてきた患者」という認識に終始した報道になっている。これらは従来の部落問題に関して使われてきた表現と同じである。誰が彼らをそうしたのかという責任を「政府」(隔離政策は政府の責任ではあるが)だけの責任にしてしまう点でも,従来の部落解放運動と同じである。

ハンセン病に対する差別や偏見は,政府による隔離政策によって始まったのではない。部落差別と同じ長さの歴史的経緯をもつことを忘れても誤魔化してもいけない。まず遠い昔よりハンセン病に対する差別や偏見の実態があって,次に「感染」「治療法がない」ということから政府が「隔離政策」を実施したのである。誰が彼らをそのように見てきたのかが,この問題の本質であり,彼らがくり返し訴えている「我々を同じ人間として認めて扱ってほしい」ということの意味である。


差別の原因を「病気」に求めてはいけない。病気を差別の原因としてこの問題を考える以上,たまたま病気になった「気の毒な人,かわいそうな人」という「他人事」の意識は消えない。彼らを差別し排除し,偏見のまなざしで眺め続けてきた我々の意識こそを変革すべきであり,この差別と偏見の歴史こそを報道すべきである。小泉首相の「断念」よりも,彼が患者と握手していることを評価したい。長島愛生園のある地元に住み,ハンセン病問題とかかわってきた者として,彼らを忌み嫌い避けている現実を多く見てきた者として,小泉首相の握手を評価したい。

部落問題との違いに目を向けるのではなく,共通の本質を考えていくべきだと思う。ハンセン病を知ると同時に,ハンセン病患者を同じ人間と見なしていない側の差別意識を問うていく視点が重要である。エイズ患者の苦悩をわかろうという意図でのみ作られた教材,エイズ患者とどのように関わっていくべきかばかりを書いた啓発パンフレットと同様に,ハンセン病問題が取り上げられていくことが不安である。人権教育・同和教育に取り組む我々自身が,いかなる立場に立ってこの問題に向き合っていくべきかをまずは考えなければならないと思う。


先日,NHKの特集番組を見た。題名とはかけ離れた内容にマスコミの意識の低さと立場のズレを感じた。翌日,長島愛生園の金さんと話したとき,自身も取材を受けて画面に登場していたが,私と同様の思いを語られていた。この裁判を通して国民の関心が向かうことを喜ぶとともに,一方で問題がすり替えられていくことへの危惧である。同対審答申が政府の責任を問うことを明らかにしながらも,「国民の課題」が部落への知識理解と表面的な差別禁止(差別はいけないこと)の教育を生みだしたことに近い結果が見えてしまう。政府を悪者にして,責任を追求することで正義を表明し,自らの裡にある認識を問うことはない。犠牲者である「かわいそうな人たち」を憐れむことはあっても,彼らとの「隔離の溝」を埋める必要性を感じる者は少ない。

今回の特集で,「隔離政策」の推進者であった故光田愛生園元園長に,責任を転嫁しているように感じたのは私だけだろうか。権力や権威(発言力)をもった人物の間違った認識や判断によって多くの人々が苦しむ結果となったり,歴史自体が大きな変動をおこしたことは数多い。しかし,光田氏に責任を求めるよりも,ハンセン病問題の本質である「ハンセン病に対する差別や偏見」自体が,いかなる経緯と思想によって国民の中に形成されたのか,それを受けとめてきた我々の人権意識の問題性はどこにあるのか,この問題をどのように教育や啓発に生かしていくか,等々の課題こそを問うべきである。光田氏の責任問題は,エイズ問題での安部氏に重なって見えるのは私だけであろうか。「誰かのせい」で問題を片付けようとする体質こそが恐ろしい。

患者の願いや思いをどのように受けとめているか,まず我々が自らに問うことからハンセン病問題を考えていくべきではないだろうか。今回の訴訟を通して,マスコミが取材し報道している患者の声を,その苦渋の背景から考えてほしい。「隔離」「強制労働」「堕胎強要」等々に「ひどい扱いを受けてきた」「辛かったであろう」の同情だけで終わってほしくない。なぜ「隔離」であったかを「遺伝と感染」から考えるのではなく,「差別と偏見」による「排除」として受けとめ,誰が彼らをそのように見てきたのか,そのように扱って当然としてしてきたのか,そのような事実を黙認できた我々の意識はいかなるものか,「遺伝と感染」が間違いであると知っていたらこの悲劇はなかったであろうか,など考えるべき視点は多い。「解放令」以前と以後の被差別民(部落)への対応と重なる部分が多いことが,ハンセン病問題の本質が「差別問題」であり「人権問題」であることを示している。

マスコミ報道の誤謬を見抜き,何がすり替えられようとしているか,エイズ問題と同じ轍を踏まないために,我々はしっかりとこの問題と対峙していくべきである。

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「ハンセン病」問題学習の視点

1. 授業における「問い」と「視点」…何を考えていくか

@ ハンセン病問題において,どういうことが「差別」であったのだろうか。
  →「隔離」「排除」→同じ「人間として」扱われなかった。

A なぜ我々はハンセン病患者を(そのように)差別してきたのだろうか。
  →自分と「同じ人間」とは思わなかったから

B ハンセン病問題を「差別問題・人権問題」として考えたとき,我々は「ハンセン病問題」を通して何を学び,何を自分の生き方・あり方として受けとめなければならないのだろうか。


2. 上記の視点についての補足説明

・ 「隔離」「排除」が「差別」であることに気づかせるだけでなく,容易に「隔離」「排除」していく考え方やあり方を問うことが重要である。
・ 病気」「伝染病」という理由での「強制隔離」政策が肯定された背景に「排他的な考え方」がある。「自分さえよければいい」という考えがある。
・ 「病気」を「差別を肯定する理由」にしている。「ハンセン病だから」という考え方のまちがいに気づくことが重要である。これは,「自分とはちがうから」という考え方に通じる。部落差別と共通する差別観である。この考え方を正当化させる理由(根拠)として「遺伝」「伝染病」が広まっていった。差別に根拠はない。
・ 「うつる」危険を回避するために「うつる」前に「排除」し「隔離」する考えは,ケガレを忌避する考えと共通である。これも「遺伝」ということで結婚を認めない。「伝染」ということで排除し隔離する。ケガレがうつるのも,病気がうつるのも同じである。自分がそう(ケガレる・ハンセン病になる)なりたくないから,排除・隔離するのである。
・ 「病気」を「悪」「不全」「下」「外」とし,「健康」を「善」「完全」「上」「内」とする考えである。自分はどちらの側の人間でいたいか,という思いにとらわれたとき,人間は差別者になる。これが「差別意識」である。差別意識は「〜より優越でいたい」という思いから生まれる。「どちらの側に〜」という発想自体が「区別ではなく差別」である。
・ 一つの価値観を価値基準として,すべてに当てはめていくとき,区別が差別へと転換される。
・ ハンセン病が「遺伝病ではない」「うつりにくい(感染しにくい)」とわかり,治療薬が発明されても隔離政策(らい予防法)が破棄されなかった背景には,2つの理由がある。
1つは,人々や社会に広まっていたハンセン病に対する偏見が強かったことである。もう1つは,ハンセン病患者やハンセン病問題に対する関心が低かったことである。つまり,排除してきたことや隔離してきたことで人々の意識には強い偏見だけが残り,ハンセン病患者を「同じ人間」と思う人権意識がなく,ハンセン病患者の人権を問題とする世論そのものが皆無であった。
・ 強制隔離を肯定するためにも,偏見や差別意識は必要であり,社会啓発は邪魔であった。
・ ハンセン病は,人々の意識に偏見と差別意識を残しながら,一方で隔離政策を続行し,他方で忘却されていくことを故意に願っていたから政府や社会に黙殺されてきた。
・ 我々が必要とすべき「人権意識」とは「差別である」と気づくことができる「感受性」であり「感性」である。

※ 差別の克服過程

初め、少数者が、あることに苦痛を感じ、差別だと気づいて、時に迫害に耐えながらも根気強く社会に「それが差別である」と訴えていく。

社会の大多数者がその訴えに耳を傾けるようになり、その訴えをもっともだと思う人が出てくる。

次第に「差別だ」と思う人が大多数となり、「その差別」をしてはならないという意見が主流となり、やがて「制度」に取り込まれて、「その差別があれば、社会が是正する」というようになっていく。
社会のどこかで差別に苦しんでいる人がいれば、その訴えに耳を傾け、その差別の解決に取り組む人間を育てるこが人権教育・同和教育の目的(使命)である。


3. ポイント(我々に問われている生き方とは)

● 「正しい知識」をもつことは,偏見やこだわりにとらわれず,正しい判断をするために必要である。
● 自分の中にある「差別意識」を克服することは,正しい知識を得たときに,素直に,誠実に自分の誤りを認め,直すこと,改めることである。
● 知ったことに対して無関心にならないことである。無関心は自分の心を「物化」させることである。語らないこと,行動しないことは無責任である。
● 「正しいことを知るため」「正しく行動するため」には「誠実に生きる」ことが大切である。


4. 「金泰九さんの生き方が問いかけるものは何か」の視点

金さんは「何を語ろうとして」「なぜ語ろうとして」いるのだろうか,をメインの問いとするべきである。
→「差別を許すことは社会全体の不幸である」という金さんの言葉の意味を考える。

…「長い間人間らしく扱われなかった。だから,もう『予防法』もなくなったから『これからはもっと人間らしく生きたい』」こういうことなんですね。僕たちの場合は。でね,僕は常々,人を貶めることはしたくない。また人を侮蔑したり,だしぬいたりしたくないなぁと思っているんですね。それは結局自分を貶めることになるんだと思われるんですね。

…差別する人っていうのは,いつかは差別される側にまわるかもしれない。また,それを翻って考えると,差別する社会っていうのは全体の不幸だ。こういうことにみんなが気づいたらね,差別・偏見についての考え方がいくらか変わるんじゃなかろうか。何かがきっかけになって,そう思えるっていうのは大事だなぁと思うんですよ。ただ知識で,差別はいけない,偏見はいけないっていうことじゃなくてね。じゃあ,なんでそれがいけないんだっていうことを突き詰めていったら,差別・偏見は社会全体の不幸になるんだってことに少しでも気づいた場合,考え方はそこで変わってくるんじゃなぁと思うようになりました。

posted by 藤田孝志 at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | ハンセン病問題学習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

金泰九さんの生き方に学ぶ−自らの「ハン(恨)」から解放されるために−

金さんは,僚友への追悼文に「ハン(恨)」を「自らの不運を嘆く」という意味で書いたと記している。日本による植民地支配の中で「韓国人」として生まれ育ち,戦後は「ハンセン病」患者として生きねばならなかった金さんの半生は,自らの「ハン」からの解放の旅であった。しかし,それは肩に力を入れた生き方ではなく,「自らの不運」をあるがままに受け入れながらも,「自分にできること」を自然体で求め,人生を前向きに生き続けた姿である。


金泰九さんは,1926年,日本の植民地支配下にあった韓国の慶尚南道で,農家の長男として生まれる。日本人に対する「恐怖」を周囲の大人から聞かされて育つが,小学校の日本人校長の姿に感銘を受け,日本人に対する恐怖心や反日感情が少し和らいだ。12歳の時,日本に定住していた父親を頼って日本に渡り,大阪で暮らすようになる。旧制中学校時代,級友から「半島人」と云われ差別を受け,初めて朝鮮人である自分を自覚した。しかし,当時は同胞である朝鮮人の姿に劣等感さえ抱き,強くなるしかないと柔道部に入って練習に励んだ。朝鮮人としての劣等感を克服するために,尊敬され信頼される人になりたいと考えたからである。級友の多くが予科練に進む状況の中,皇国史観の影響もあり,軍人を志す。陸軍兵器学校にて終戦,同胞の先輩に「軍人の道はまちがいではなかったか」と言われ,返す言葉がなかった。

復学して大阪市立商科大学(現・大阪市立大学)に入学後は,学生結婚をしたこともあって,勉学よりも商売に精を出した。1949年に「ハンセン病」を発病する。残り少ない人生を妻のために生きる決心をして生活するが,1952年に長島愛生園に強制収容された。以後,社会復帰をしていた5年間を除き,現在まで長島愛生園で暮らしている。


自分が幸せなときは他人を恨むことはないと思います。また豊かな心を持つ人はそうでない人より偏見・差別もしないようです。世の中みんなが幸福で心豊かに生きるための文化度を高めていきたいと思っています。自分が幸せだと思う「センス」を文化だと思います。

これは,金さんが難聴の少女に送った手紙の一節である。過酷な運命を生きる金さんが,なぜ常にこれほどまでに柔和で穏やかな笑みを浮かべ。身体の弱った自分よりも周りを気遣う限りない優しさを持っているのか。決して自らの逆境を嘆くこともせず,自信と誇りに満ちて生きているのか。これは金さんと出会った誰もが実感することである。

病に苦しみ,人生に失望し,生命を絶った多くの僚友を見送りながら,また厳しい隔離政策と排除の中で,自ら人生を捨てた生き方を選ぼうとする僚友を見つめながら,しかし彼は決して希望を失うことはなかった。なぜなら,自らを苦界に追い込んだ「ハンセン病」について勉強しながら,施設や待遇の改善要求,17年間という長きにわたっての本土への架橋要求や,「らい予防法」撤廃要求,国家賠償訴訟など数々の運動の先頭を歩み,彼自身が常に自分に対して「自らの変革」を実践してきたからである。彼はこう書いている。

まず入所者の我々自らを病気であったための萎縮と劣等感から解放させることである。

「差別はねぇ,社会全体の不幸なんだよ」と語る金さんの目は,今,より広い世界に向けられている。かれは,自らの生活体験を通して「ハンセン病」に対する偏見や差別を克服するためだけでなく,在日韓国・朝鮮人に対する差別や部落差別などあらゆる差別と闘うために「語り部」として社会啓発に全力を注いでいる。これが彼の生きざまである。

差別観念や優越感は,決して人間が生まれながらにして持っているものではなく,差別的な社会の仕組みの中で,形成され作用されるものだと言う。さらに重要なことは偏見差別は,差別される側だけの不幸でなく,社会一般すべての不幸につながることである。このことを大衆が学び知ることにより,日本における偏見差別は間違いなく減少するはずである。

この金さんの訴えを通して,今自分に問われている生き方について考えたい。

posted by 藤田孝志 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 入所者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ハンセン病」問題を問う

ハンセン病患者の置かれてきた社会的立場や周囲の彼らに対する偏見・差別の様態と対応を見るとき,彼らは「人間」とは見なされていなかった事実を我々は認識すべきである。「同じ人間」としての差別ではなく,「人間と同じではない」という差別を受けてきたのである。だからこそ,彼らが訴訟で訴え,勝訴の後のインタビューで「これで人間として生きられる」と語った意味が理解できるであろう。長島大橋が,なぜ「人間回復の橋」なのかを理解できるであろう。
被差別民も,被差別部落民も同じである。彼らを「人間」と見なさなかった我々の対応や意識こそが「差別と偏見」を生みだしてきたのである。「らい予防法」の廃止が「解放令」であるならば,今回の裁判と勝訴は「解放令」以後の解放運動と「同和対策審議会答申」に重なるように思える。このどちらにも共通するのは,「解放令」も「らい予防法廃止」も政府の責任であり,政府の対応であったという我々の「他人事」の意識が大きな課題として残っていることである。

しかし決定的な違いは,約130年の歳月が,確実に「人権を拡大してきた」という歴史的事実である。もし「解放令」以後に,多くに人々の解放への努力と運動と思想がなければ,あるいは他の人権問題の解決への歩みがなければ,どうなっていただろうか。同和教育の確かな歩みがなければ,どうなっていただろうか。我々の歩みは確実に未来を切り開いていると確信する。生徒に語るべき展望は差別の悲惨な実態である「負の遺産」を語るのではなく,わずかな歩みであったとしても確実に前進してきた「人権拡大の歴史」である。


長島愛生園に高校があったことは,現地研修に参加された方以外にはあまり知られていない。まして,どのような教育現場としての日々であったかは語る者がいないため,闇の中に消えてしまいつつある。

教科書やプリントは熱湯消毒ができないため,スチーム蒸気を1時間程かけてから手に取ったこと,教諭は白い予防服と帽子を着用し,生徒は職員室の立ち入りを一切禁止され,1日の教務が終わった教諭は風呂に入り身体を洗浄して帰路についたこと,等々の差別と人権侵害の凄まじい実態があった。無知が生み出す偏見と差別,ハンセン病のこと(遺伝ではないことも,感染力が弱いことも)を知っていても一抹の不安と恐怖心,それらがいつしか差別を肯定し,差別とさえ思わなくなってしまったという話に,人間の恐ろしさを思い知らされた。
職員室の前にはモールス信号のような個々の教師別に「合図の音」が出る装置があり,教師に用事のある生徒は「合図の音」で教師を呼んでいたそうだ。それをやめてほしいという生徒の要望に心ある教師が応え,要求運動を起こし,廃止させた話を聞いた。

差別との闘いは日常の思いと願いから生まれる。おかしいと気づき,それを声に出し,動きとすることで,人権はつくられ広がっていった。ここにも,ただ差別を受け入れて生きていたのではない姿があった。

真か虚かを見分ける眼をもつことも大切でしょう。そのために学ぶことも大切でしょう。しかし,知ったことに対する責任を果たすことが何よりも大切と思う。高橋和己は「知ったことに対する無関心は罪ではなく,人間の物化である」と言った。何のために知るのか,知ることだけで満足することは何も変わりはしない。


中世においてハンセン病者は「カタヒ」と呼ばれ,「えた」「ひにん」と同じく賤民として賤視を受けていたことは,部落史研究において明らかであるが,断片的な研究が多く,歴史的な全体像は今後の課題と思う。横井清氏は「病者は諸国の『非人宿』に身をおいた」と『光あるうちに』で述べているし,上杉氏は北陸地方でハンセン病者が「物吉」とよばれ賤民として処遇されていたと述べ,また「非人」の中にハンセン病者が「非人」の中に含まれていたとも述べている。

『もやい』(ながさき部落解放研究紀要)の43号に,幕末の日本にオランダ商館医として来日したドイツ人オットー・モーニケが書いた『日本の「エタ」あるいは「エトリ」』の解説と翻訳が載っていた。彼は日本のことに詳しい日本人から聞いたことだと自分の根拠を明示しながら,部落の起源をハンセン病との関わりに求めている。彼の学説は学問的には実証できないが,この論文を見聞録として読むと,江戸時代の「エタ」やハンセン病者がどのような生活状態であり,周囲(世間)や社会からどのような処遇を受けていたのかがよくわかる。彼は,「エタ」(「非人」と私は思いますが)の集落で一緒に生活していたハンセン病者を見て,ヨーロッパにおいてハンセン病者が隔絶されていたことと関連させて,彼は起源をハンセン病に求めたのではないかと思う。彼の見聞録は外国人から見た部落問題の実態として貴重な史料と考える。

人権意識とは「感性」であり「感受性」だと思っている。昨年の夏,療養所に入所されている方が古里を訪問するNHKのドキュメンタリー番組があった。温かく迎える古里の人々に感動を覚え,時代の流れと社会啓発の大切さを感じながら見ていた。しかし最後の場面で,思わずはっとした。古里の人たちが別れに際して発した言葉は「いつでも何度でも来てください」であった。「帰ってきてください」ではなかった。何十年の歳月が意識を変えたのであろうか。

たかが言葉かもしれないが,私は「帰って」ではなく「来て」と言った人間の認識を考えてしまった。ハンセン病に対する人々の認識は大きく変わりつつあるけれど,未だ根底には社会的な偏見と,偏見が生み出す差別が現実に存在していることを垣間見た思いがした。ハンセン病者を出した家や家族が周囲から受けた偏見と差別は想像を絶するものであることは,療養所の方々からの聞き取りで知っていたが,その痕跡は今も人々の認識に残っているのだと改めて知った。


1900(明治33)年,内務省による第1回のハンセン病調査が行われ,約3万人のハンセン病者がいると報告されている。第2回は1906年で約2万3千人,第3回は1919年で約1万6千人とされている。1940年まで続けられた不定期な調査ですが,それでも1万5千人以上は報告されてはいません。しかし,絶対的隔離主義を積極的に提唱し,政府の隔離政策の中核的役割を果たしてきた光田健輔氏が「癩隔離所設立の必要に就いて」と題する論文を発表したのは1902年でした。彼は,この中でハンセン病は感染症であり,隔離の必要性があると力説している。この論文を読むとき,医学的研究が不十分な時点での判断であったとしても,あまりにも差別的な状況分析と見方であると思う。しかも,「…病勢次第に旺盛となり其数実に十万を下らざるべし…」と書き,「社会に病毒を蔓延せしむること多大なるは論を埃たざる」として,早急なる隔離政策を実行すべきであると提言している。内務省の調査を彼が知らないはずはないのだが…。

光田氏のハンセン病対策のもう一つの柱は「断種手術(ワゼクトミー)」である。彼が違法を承知で最初に手術を実行したのは,1915年であった。感染病であると断言している光田氏がなぜ断種手術を提唱し,実施していったのだろうか。明らかに矛盾しているにもかかわらず…。
彼が断種手術を実行した時点で,内務省内では意見は賛否分かれていた。内務省内の衛生技師であった氏原佐蔵氏はドイツの優性思想の影響を強く受けた断種推進論者であり,光田氏は彼の意見に左右されたと考えられる。光田氏は感染しやすい体質は遺伝すると考えていた。しかも胎内感染の可能性が高いとも考えていた。一方で優性思想の影響を強く受け,他方で感染病であると言いながらも遺伝を否定し切れていない光田氏の認識が,今日的な悲劇を生み出していったのだ。彼の考えは,やがてハンセン病者に対する中絶を合法化する「優生保護法」へとつながっていった。


「排除」「社会外の存在」「隔絶」「隔離」をキーワードとして考えるとき,ハンセン病問題と部落問題が共通の概念に括られて,歴史的に同様に扱いを受けてきたことが見えてくる。差別してきた側の論理もまた共通であったことも見えてくる。それは「同じ人間と見なさない」「人間そのものの対象外としてとらえる」論理であり,その論理を支える理論も各時代によって共通であったと思う。まさに「人権を剥奪された存在者」であったのだ。だからこそ我々は,すべての人々が人間としての幸福な生活を確立するために「人権を拡大していく」ことが大切なのだと考える。

長島愛生園には全国で初めて,そして唯一つくられた高等学校があった。私の手元に,その高校を巣立っていった生徒たちが,過酷さの中で懸命に明日を探そうとする思いが綴られている卒業文集がある。その一つ紹介したい。

…今年の夏休み,私は母につきそって与論の中心部である茶花へと出かけた。観光シーズンであるため,町中は観光客でごったがえしている。車の往来もはげしい。そんな中を私は、母にぴったりくっついて歩いた。それは視力がうすく,足がさがり,パッタンパッタン歩く母をカバーするためである。しかし,私達に目を向けない人は,だれ一人いません。時には後ろをふり返る人さえいました。私にできることといったら,母をみつめている人が顔をそむけるまで,にらみ返してやることだけでした。

しばらく行くと、あるはき物の店が目についた。「ごめん下さい。」店にはいると,「いらっしゃいませ。」中年のおじさんがニコニコしながら顔を出した。ところが,母の姿を見るなりその人は急に変な顔つきになった。私はそんなことなどかまわずに,ずらっと並べられているはき物の中から,母の好みにあわせて,いくつかを足もとに置いた。「母ちゃん,はいてみたら。」母がぞうりをはこうとしたとたん,その人は,母に向かってこう言ったのです。「どうぞ,そのきたない足ではかないで下さい。」と,私は,その人の顔をみつめながら,「あなたはそれでも人間ですか。」そう言って,その店から出て行きました。言いたいこと,思っていることが言葉になって出てこないのです。その一言が精一杯でした。

「私のおかげで,つらい思いばかりして許してね,春美。」そう言って,家路に向かう母。何かにおびえながら,肩をふるわせ,悲しそうな母のうしろ姿を,私はどんな思いで見つめたことだろう。「母ちゃん。」何回も心の中で叫びながら,帰る道すがら,私の顔は,涙でぐしゃぐしゃでした。

どうして,同じ人間なのに,ライであるというだけで,これほど差別するのでしょうか。悲しい。自分と同じ人間を差別し,冷たい目で見つめる。そんな人にはらが立つのと,また,差別を受けながら,それをどうすることもできない自分自身が,情けなく,くやしくてなりません。私は,今日一日のできごとを忘れることはないと思います。それと,母ちゃんのあの後ろ姿と。

ライを理解することが叫ばれている今日でも,このような差別があるのです。ライへの理解は,まだある一部の人にしか理解されていないのです。私は,この世から差別が消え去るまで戦うつもりです。

(第22期卒業文集 昭和55年)


金泰九さんは「ライ予防法が廃止されたことはうれしいが,廃止されたことによる恩恵は実際にはほとんどない。なぜなら,私たちは黙って耐えていたのではなく,運動し闘って,「ライ予防法」をほとんど骨抜きの「ザル法」状態にしていたからだ」と言う。昭和45年頃には,もはや「ライ予防法」の「強制隔離」や「外出禁止」などの条項は形骸化された状態であったそうだ。ハンセン病患者は,マスコミが書くように,厳しい隔離の中で人権を無視された悲惨な生活をしていたのではない。園内の環境改善,待遇改善を「隔離政策」当初,開園された直後から要求してきたのである。

自治会を組織し,全国にネットワークを広げ,時に理不尽な懲罰を受けながらも地道な闘いをしてきたのである。権利を勝ち取ってきたのである。今回の訴訟も,その延長上にある。決して,今になって立ち上がり闘ったのではない。

先の少女の決意は,彼らすべての思いであり,だからこそ彼らは自らの人権を求め,人間としての当然のあるべき生き方を求めてきたのである。人権教育とは,人権総合学習とは,我々の先駆者が「人権拡大の歴史」を築き上げてきた姿を学び,その志を受け継ぐ者としていかに生きるかを学ぶ学習である。過去の悲惨な実態を知ることが学習ではない。過去の過ちを反省するだけでは展望は見えてはこない。我々は,ハンセン病問題を通して,差別を克服し,人権を切り開いていくことを学ぶべきである。

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