2011年07月28日

強制隔離政策と光田健輔

「就実学術成果リポジトリ」に,『日本のハンセン病強制隔離政策と光田健輔』(山川基・小笠原真・牟田泰斗)と題する研究論文が掲載され,ネット上でも公開されている。

興味深いテーマではあるが,内容としては,藤野豊氏などの研究成果,国賠訴訟の裁判記録,検証会議報告書などが明らかにしたハンセン病問題の歴史的背景,特に国家による絶対隔離政策への光田健輔の関与と影響について簡略にまとめているという域を出てはいない。
国家の絶対隔離政策に深く関与したのは光田健輔である。彼の発言力は絶大であり,医学的権威として,常に国家によるハンセン病政策の方向を決定してきた人物であると言える。その意味で,日本のハンセン病政策・絶対隔離政策を解明するキーパーソンとして光田健輔を取り上げ,彼の動向(言動)と国家の政策を対比させながら整理することは重要であるし,私も相関関係は整理しておきたいと考えているが,本論文は表面的な動向を時系列に整理しただけであり,やや物足りなさを感じる。

藤野豊氏の『「いのち」の近代史』『ハンセン病 反省なき国家』などを参考にしながら,絶対隔離政策に及ぼした光田健輔の影響について整理してみたい。


光田健輔の関与について調べるほどに,彼がヒトラーと同質の人間に思えてくる。ヒトラーが自らの思想を実現するためにユダヤ人を抹殺したように,光田健輔はハンセン病患者を抹殺しようとした。

光田にとっての究極の「目的」は,地球上からハンセン病を完全に撲滅することであり,ハンセン病に罹患している患者の治療や救済ではなかった。
そして,その目的を達成するためには如何なる「手段」も正当化されたのである。つまり,患者を絶海の孤島に強制収容し,完全に隔離して,その中で「絶滅」させることも,ハンセン病患者を一人も増やさないために「断種」や「中絶」も,ハンセン病研究のために患者を「解剖」し,その臓器や堕胎した胎児を「標本」にすることも,これらすべてが「目的」のために肯定されたのである。


1876年に山口県で生まれた光田は,私立済生学舎に学び,東京帝国大学医科の病理特科で経験を積んだ後,1898年から東京市養育院に医師として勤務し,行旅病者のなかにハンセン病患者が多いことに注目,ハンセン病の研究に着手した。そこで知己を得た財界の大番頭渋沢栄一の人脈により政界・官界に食い込み,ハンセン病患者の絶対隔離政策の確立に深く関わった。そして,1909年に全生病院の医長に就任,1914年より院長となるやすぐに男性患者への断種を開始,1931年に長島愛生園長となり,戦後に至るまでその信念であった絶対隔離政策を推進,1951年にはハンセン病医療への貢献を評価され文化勲章を受け,1957年に愛生園名誉園長となり,1964年に死去した。

藤野豊『ハンセン病 反省なき国家』より

posted by 藤田孝志 at 15:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 光田健輔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。