2010年07月29日

『日本のアウシュヴィッツ』刊行にあたって

「特別病室」(重監房)に関する貴重な証言である本書は,ぜひとも多くの方々に読んでいただきたい。それが本書を献本してくれた谺雄二さんの願いである。
私は本書をもとに,重監房とは何であったのか,国家におけるハンセン病とは何であったのか,ハンセン病の歴史的背景を明らかにし,教材化したいと考えている。そして,生徒だけでなく我々教師はもちろん,多くの国民に伝えていきたいと思っている。

以下に転載する谺雄二さんの文章は,「特別病室」(重監房)の歴史的背景及びその問題性を的確に,そして簡潔にまとめている。

刊行にあたって

らい予防法人権環害謝罪・国家賠償請求訴訟
草津原告団長谺 雄二

あなたは「特別病室」をご存じですか? それはらい予防法の「患者懲戒検束権」という所長に与えられた警察権に基づき,1938年,群馬県草津町にある国立ハンセン病療養所栗生楽泉園内に建てられた殺人獄舎の名です。

かって「らい」とよばれたハンセン病は,細菌による単なる感染症に過ぎず,その病菌はいまだに培養ができないぐらい弱く,したがってきわめて感染しにくい病気なのです。しかしその症状が目で見てわかる顔や手足に醜く現れ,またこれといった治療薬がなかったため,「不治の病」や天の罰があたった「天刑病」などとよばれ,むかしから嫌われていました。

明治維新後「富国強兵」をめざした日本は,1894年の日清戦争と1904年の日露戦争に勝利し,いよいよ世界の列強に割り込む勢いでした。しかし同時に政府は,国の体面上,それまでまったく放置していたハンセン病対策に乗り出さざるをえなくなったのです。維新後の新条約によって外国人が日本のどこにでも自由に住み,旅行できるようになったことから,そんな外国人の目を通して,神社やお寺で物乞いなどしているハンセン病患者の救済が問題化してきたためです。当時患者は家族を偏見・差別から守るため,自分からすすんで家を出,遠い旅の空のもと路上生活をよぎなくされていました。結局政府は1907年,法律「癩予防二関スル件」を制定して,“患者救済”とは反対の「患者取締り」に着手したのです。いわば政府にとってハンセン病は「国辱」でしかなかったのです。
したがってその患者収容施設は,表向き「療養所」の看板をかかげていても,内実は最初から刑務所以上だったのです。警察官らに追い立てられて強制收容された患者を待つていたのは,まず強制労働でした。患者に患者を看護させ,死ねばその火葬まで患者にやらせる。看護ばかりではありません。施設運営に必要な仕事はすべて患者の労働でまかない,そのうえ子孫を根絶やしにする断種や中絶を強要するなど無法のかぎりをつくして,ごくごく安上がりに患者の隔離撲滅をはかったのです。
そして当然起こる患者の不満をおさえつける必要から,1916年に先に述べた所長の「患者懲戒検東権」を導入,所内に「監房」を設けて威嚇もしたのです。

日本が中国東北部へ侵略戦争を開始した1931年,この年政府は「癩予防法」を制定,官民一体の本格的な“患者狩り”を強行しました。強制収容・終生隔離の患者撲滅政策は,ますます凶暴をきわめ,収容施設内には人間の尊厳の一かけらも認めようとしない,そのあまりにもむごい仕打ちに患者たちの怒りが常に渦巻いていました。じじつ一1930年代には単発的ではありましたが,各施設でつぎつぎといわゆる「患者暴動」が起こったのです。
つまり「重監房」ともよばれる殺人獄舎「特別病室」は,そのような患者の決起を経験した政府と施設側が,いっそう弾圧を強化し,いっさいの自由をうばう手段として,全国の患者対象に設置したものなのです。

これに比べれば一般刑務所の重屏禁でさえ人間的に思える―そんな「特別病室」について,栗生楽泉園患者五〇年史『風雪の紋』(同園患者自治会)や沢田五郎著『とがなくてしす−私が見た特別病室』(ぶどうぱん通信)などでは,およそ次のように説明しています。

「建坪32・75坪(約108平方メートル),周囲は約4メートルの鉄筋コンクリート塀を巡らし,また内部も同じ高さの鉄筋コンクリート柵によって幾重にも仕切られていた。そして八房にわたる獄舎は,各房(便所を含めて約四畳半)ともくぐり戸式の出入り口は厚さ約15センチの鉄扉で固められ,明かり取り窓といえば縦13センチ,横75センチしかない半暗室で,しかも寒冷地の草津高原にあって厳冬期には零下18度〜20度にも下がる極寒に,暖房はなく,破れ布団が二枚だけ。 さらに食餌の差し入れ口はわざと足もとに設けられ,やっと椀一つが通る程度という厳重さ。このように『特別病室』は,一般監獄でもその例を見ないまでにおぞましい造作がなされていたのである。そのうえ収監者の食餌は,減食の刑も課せられているので日に二回。朝は薄い木製の弁当箱に握り飯一つ分ほどの麦飯と梅干し一個,それに具のない汁が一椀。昼に配られる二食目は,朝のものより五割方大きい弁当箱に麦飯とやはり梅干し一個,あとは白湯一椀だけ」と。

「特別病室」への投獄が開始されたのは,設置の翌年1939年からで,それは敗戦後の1947年まで続きました。この間の収監者数はじつに92人。当然弁護士はつかず,拘留期間もあくまで施設側の意のまま,いわば「無期限」ということです。なぜなら前出『風雪の紋』によると,拘留期間の最も長い記録は533日で,その533日目が即ち本人の獄死した日ということだからです。同時にこの「533日」について,「特別病室」がどんなところか知る者は,だれもが一様にこんな驚きの声をあげます。「あんなところで,よくそんなに長い期間…」と。収監者92人中,獄死者22人。そして釈放後間もなく死んだ人も30人に及ぶと聞いています。では,いったい施設側裁定のどんなr罪」で,この療友たちは投獄されたのでしょうか。ここでいくつかの事例をあげてみますと,それはこうです。

まず拘留533日」で獄死したその人の名前は,「満八十山」(みつるやそやま)。三宅一志著『差別者のボクに捧げる!』(晩聲社)によると,満八十山という人は,1930年代にまだ存在していた浮浪患者集団の親分で,主に四国・大阪方面で病人宿や古物商など営みながら,施設を逃げ出してきた患者の面倒をみたり,重症な浮浪患者の世話をしたりしていたとのこと。また妻の境テイという人はこの病気ではありませんでしたが,施設にも出かけて行って,よく入所患者の頼みを聞いてやっていたそうです。こうした満八十山夫妻のような人は,いわば政策阻害者であり,警察も施設側も手のつけられない「不良患者」としてマークしていたところ,1941年,「盗品の自転車を買った」という容疑で大阪府堺市からはるばる草津の「特別病室」まで送致されてきたのです。健常者の妻も「不良患者のつれあい」という理由で同罪,夫といっしょに投獄されました。ただし彼女の場合,拘留390日で釈放されるのですが,それは衰弱のあまり体が動かなくなってしまったため,もう死んだものとみなされて出されたとのことでした。なおこの境テイさんは,後日患者大会の場で「特別病室」告発の証言をしています。

同じく1941年,東京・多磨全生園から送られてきた山井道太という人の投獄理由もじつに酷いものです。『倶会一処−患者が綴る全生園の七十年』(多磨全生園患者自治会)によれば,それは「患者作業の洗濯場主任である山井が,長靴の支給を要求。長靴がなければ傷や神経痛に悪いから仕事はできないと作業をさぼり,汚れ物の包帯,ガーゼ等をくさらせてしまった」―だから「特別病室」だというのです。洗濯場も施設運営上欠かせない作業の一つです。当時どの患者作業も一日の賃金はやっとタバコ一個分程度。しかも作業にアナをあけると,患者全体に迷惑をかける仕組みになっているため,事実上の強制労働でした。

事件のいきさつをもう少し詳しく記しますと,こうです。「水を使う洗濯作業に必要な長靴の支給がない。以前支給された長靴は破れて役に立たない。作業員の多くは足裏にこの病気特有の傷があって常に包帯が離せない。長靴がなければその包帯も水に濡れて傷ばかりか神経痛にも悪い。山井は主任の立場から作業の責任をはたすためにもぜひ長靴の支給を!と施設に願い出た。しかし施設側は患者作業に支給する長靴はないという。ほとんどの職員が『感染予防』と称し,ピカピカの長靴で歩き回っているのにである。山井が施設側の回答を作業員たちに伝えると,次の日から皆は作業に出て来なくなった。それで再生して使う汚れ物の包帯やガーゼ等がくさってしまった」というわけなのです。施設側は自分のことは棚に上げ,作業員のサボタージュは主任の「煽動」ときめつけて,この山井道太という人を同年6月5日“草津送り”つまり「特別病室」に投獄したのです。これを泣いて抗議した妻に,施設側は「お前も草津へいきたいか」といっしょに連行して投獄。そして拘留44日目の7月18日,夫の方が重態におちいり,妻もともに出獄をゆるされるのですが,結局山井というこの人は楽泉園の病棟で9月1日に亡くなってしまったのです。

「特別病室」のある栗生楽泉園の入所者では,鈴木義夫という少年の事例があります。「特別病室」に投獄された者の多くは施設側に睨まれた結果ですが,この少年の場合は異例で,それは殺人の嫌疑でした。前出沢田五郎著『とがなくてしす』によって,まずはその経過をたどってみましょう。

1942年5月,14歳で楽泉園に収容された鈴木少年は,その年の11月,家恋しさに故郷に逃げ帰っています。そして二年後の1944年5月25日,その故郷の小都市で若い女が路上で刺殺されるという事件が起き,当夜外出していた鈴木少年に嫌疑がかけられたというのです。同年10月23日,警察は少年に嫌疑をかけたまま楽泉園に送り返し,施設側も少年をさっさと「特別病室」に投獄してしまったのでした。以後取り調べなど一切なく,闇地獄,孤独地獄にさいなまれた鈴木少年は,やがて錯乱状態となり,拘留444日目の1946年1月4日,まだ一八歳の若いその命を無残にも奪い取られたのです。

『とがなくてしす』の著者は,捜査の網に偶々かかった鈴木少年がハンセン病に対する偏見から殺人の嫌疑をかけられ,そのうえ殺人罪に仕立て上げられている惧れがあるとして,現在日本共産党瀬古由起子代議士の協力を得,この事件の調査に着手しています。 .

このほか熊本'本妙寺の周辺にあった患者部落が,1940年7月9日早朝,警察官と施設職員220人の急襲をうけ,「検挙」された146人の患者は,全国の各施設に分散収容されるという事件があります。ここ楽泉園にも同月16日,男17人,女10人,そして附属保育所へ児童10人,以上37人が収容され,そのうち男17人は直ちに「特別病室」に投獄されたのです。しかし「特別病室」はすでに記したように,四畳半ほどの狭い獄房が全部で八房ですから,他に投獄する場合のスペースの心配があったのでしょう,17人中8人は二〜三日で拘留が解かれ,患者部落の幹部と見られた9人が9月11日までの57日間にわたって「特別病室」の暗黒と飢餓に苦しめられ続けたのでした。

1945年日本は敗戦し,翌年には平和・民主主義・基本的人権を保障した新しい意法が公布されました。その意法の下,1947年“人権闘争”に起ちあがった栗生楽泉園の患者たちは,不良職員の追放とともに「特別病室」の撤廃をかちとりました。そして1949年には化学治療薬“プロミン予算獲得闘争”をたたかい,ハンセン病を「不治の病」から「治癒する病」に変えました。人道にはもちろん,もはや医学にも反する予防法の全面改正をめざし,1951年各施設の患者は運動促進のために全国組織を結成。ところが政府はその全国組織あげての患者の予防法改正要求を逆手にとり,1953年,明治以来の患者隔離撲滅政策を引き継ぐ「らい予防法」を改めて制定したのです。

化学治療薬プロミン開発以後は, 国際的にも患者の社会復帰を推進する開放外来治療政策が主流になっていたにもかかわらず,政府は頑迷にその考えを変えようとしなかったのです。当然そのような日本の誤ったハンセン病政策に,国内外から批判が集まったのですが,政府はそれを無視し続けました。いうまでもなく,その間も患者の苦難のたたかいは止むことなく,ついに1996年,やっと希代の悪法.「らい予防法」の廃止をかちとったのです。

ところが菅直人厚相(当時)は,患者代表を前に「予防法の見直し(廃止)の遅れ」について謝罪したものの,国のこの誤ったハンセン病政策によって,じつに一世紀にわたり患者とその家族が受けた被害については,一言の謝罪もなく,またいまだに何らの賠償もありません。

人間の尊厳を踏みにじっておきながら,謝罪も賠償もしょうとしない国に目をつぶることは,まさに自らの人権放棄を意味します。人間である以上,このままでは死んでも死に切れない―そんな思いから私たちは国を被告席に引き出す裁判をおこしたのです。この裁判で私たちは,国のハンセン病政策における犯罪の数々を国民の前に明らかするとともに,まずは私たちとその家族に対する国の謝罪を求めずにはいられません。

その重大な国家犯罪の一つが「特別病室」です。すでに書証としては文中で紹介済みの沢田五郎著『とがなくてしす−私が見た特別病室』がありますが,このたび同じく栗生楽泉園の療友高田孝より「特別病室」に関するきわめて貴重な証言が得られましたので,ここに『日本のアウシュヴィッツ』と題し,法廷と国民のみなさんにお届けしたいと存じます。アウシュヴィッツは,ご承知のとおりポーランド南部の一都市のドイツ語名で,第二次大戦中ナチス・ドイツの強制収容所が置かれ,ユダヤ人など多数が虐殺されたことで有名です。証言者は,「特別病室」がそのアウシュヴィッツの強制収容所と同じだというのです。

なお,この高田孝証言『日本のアウシュツヴィッツ』刊行にあたり,1953年の“予防法闘争”時に施設側が証拠隠減をねらって取り壊した「特別病室」の跡地を実測,その平面図ができあがりましたので,紙面のなかで紹介したいと思います。この実測は,私たち国賠訴訟を支援する会の中野泰さん(群馬),小林若子さん(北海道),中川義雄さん(東京)の手によるものであり,作製されたその図面から「特別病室」の各房の隔絶のすさまじさ,投獄された者の底知れぬ絶望感がじかに伝わってくる気がいたします。

題字は国賠訴訟の原告鈴木幸次さんの筆をわずらわしました。
これらの方々に厚くお礼申し上げるしだいです。

1999年5月

posted by 藤田孝志 at 13:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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