2010年07月29日

『日本のアウシュヴィッツ』証言

高田孝さんの証言に耳を傾けていただきたい。栗生楽生園につくられた「特別病室」(重監房)がどのようなものであったか,そこで何が行われたか,証言を通して歴史の事実を知ってほしい。


「特別病室」(重監房)の平面図を載せておく。これは『ハンセン病 重監房の記録』(宮坂道夫)より転載する。

高田さんはハンセン病により明かりを失い,いまはほとんど伏せっています。ベッドのそばで高田さんの証言をききました。(谺雄二)

らい療養所は病人が病人をみとる仕組みで成り立っているところで,患者でありながら,みんな園内の仕事をさせられていた。おれは医局で薬局の手伝いをしてたんだ。
一九歳だったからものごとの見極めは十分できたし,そこで出会ったことはすさまじく,ほかにはないことだからよくおぼえている。
そのころ,小学校高等科を卒業したぐらい,いまで言えば,中学の三年か中学卒業くらいの男の子が看護手の見習いにきてたんだ。歳で言えば,14〜15歳,おれより4〜5歳下だった。医局にいる上の人たち,看護婦,看護手なんかは嫌な仕事はみんな見習いの少年たちに言いつけるんだよ。

特別病室へめしをもって行く者が見つけ,「死んでいる。」と医局に知らせてくる。知らせがあると,9時か10時ごろに遺体を迎えに行くことになる。
「担架をもって行ってつれて来い。」言いつけられた見習いの連中も二人や三人で行くのは嫌だもんだからおれたちに「行ってくれ。」って言うんだ。そうなると,見習いだって医局側なんで,医局が言うわけだからおれたちは逆らえない。おれや門脇金次さんなんか行かされた。

担架をもって坂道を正門の方へのばって行くんだ。死ぬのは主に冬なんだよな。だから雪道をのぼって行くわけだ。いまのようにしっかりしたプラスチックではなく,竹でできているんだ,担架の棒が。竹の棒が二本ズックのキレに金属で固定されている。それをおれたちが担いでのぼって行く。正門のところには門衛所があって,門衛所におねがいする。門衛所のすぐ手前の左側に細い道があって,雪でうずまった林の中へ入って行くんだ。
林を入るとすぐ,右手から小さい山が下っていて,その小山の裾を越えると,少し開けたところがある。だからそこは正門の通りからは見えないんだ。7〜800メートル離れた官舎から正門を出入りして通う職員もそんなところに“なにかある”なんて気づきもしないし,足を入れるなんてこともない。
小山をまわると,コンクリートの場があり,カンヌキのついた入口があって,そこに大きな櫛形錠がかかっていた。カギは門衛がもっているんだが,門衛も嫌がって,塀のカギをあけるところまでしか行かず,帰ってしまう。

塀を入ると,少し隙き間があって,こんどは建物の錠がある。その錠を開け,入ったところが一つの区域になっている。右側にコンクリートたたきがあった。その奧が宿直室で,四畳半か六畳ぐらいの部屋に押入れがある。畳は黴びて,ほこりだらけ。その上にもち物が放り出してあって,荷札に名前がついていた。左側に医務室があって,高い足にのった洗面器があった。昇汞水とクレゾールを入れる洗面器のわけだが,かざってあるだけ。その向こうに診察用のベッドがあるが,使ったことは全然なく,ほこりだらけだった。機械戸棚もあるんだけど,なにも入れちゃあない。<特別病室>という名前だからそういうみてくれになっていたわけなんだ。

その先は仕切りで,南京錠がかかっていた。錠を開けて,バールをおこすと,戸が開く,バールは押しこんで寝かせると,帯び鉄に3ミリと5ミリくらいの切り込みがあって,そこから錠をかける輪が下に出る,という厳重な扉だった。
その先は屋根がなくって,空が見えていた。山のまんまで,冬は雪が積もっていた。両側は壁で,1メートルくらいふみこむと,右と左にさっきと同じようにに錠があり,それをおこして引いて,中へ入ると,一番先の独房があるわけ。その奧もまた壁で,錠がついている。
まん中の通路の先も壁で,そのまん中に扉があって,錠がある。それをバールかテコで開けて行くと,またさっきと同じように右と左に錠がある。その奥もまた壁で,錠がっいている。
要するに全体が田の字になっていて,独房はみんな野天の通路(荒れ地)で切り離されていて,超えも気配もわからないようになっていた。

外のカンヌキを開けて,宿直室,治療室のカギを開けて,バールを引いてカギを開けて,一番奥の独房へ行くには7つのカギを開けないと,ならなかった。
外のカンヌキを開けてから一番奥の独房へ行くには,7つカギを開けなければ,入れないんだよ。扉は外から中へ押すと,開くんだけれど,中から外へ押しても,開かない仕組みになっていた。
宿直室の戸はガラス戸だけど,あとの扉は厚さが10センチくらいあった。いったん入れられたら絶対に出られないよ。

カギは厳重だったけど,建物は粗雑だった。独房に向かってすぐ下にめしを入れる口があり,同じ面の反対側にある扉を開けるとすぐ便所がちょっと切り込んであった。その上の方に3〜40センチの,はめころしの窓があった。中は四畳半くらいの広さで,光ははめころしの窓とめしを入れる口から入るだけ。天井に電気の傘はあったけど,球はとっくに切れたままで,壁が三重だから中は昼間でも真っ暗だった。

死んだのはほとんどが冬のあいだだった。おれは5〜6人出しに行った。

板の間に敷きぶとん一枚にかけぶとんが一枚あるだけ。両手を上げ,干乾しだか凍死だか,干からびた蛙のように凍りついて死んでいる。寒いときは敷きぶとんが下の板に凍りついちやっている。だれもさわりたくないよ。ふとんごともって行こう,と思うんだ。2〜3人が中に入って,1人が敷きぶとんの裾をもち上げ,工事のときに捨ててある板きれをつつこんでこすり,こじってはがすんだけど,光がないところで掻くんだから戸がしまったらよけい暗くなるし,扉が閉まったら,そりゃあ絶望的な気分におそわれる。

「閉めるな!閉めるな!」って叫びながら,やっと氷をはがす。苦しんで死ぬんだから,まっすぐばかりに死んではいない。90センチほどの出口からなかなか出せないこともあった。
4人ぐらいでやっと通路に引っばり出して,担架にのっける。血管に力がないからみんな出血しちゃうんだろうなあ。遺体は紫がかった黒っぼい色だった。まえを1人,うしろを1人で担架をもち,ほかの者は宿直室にころがっている,死者の私物ももって,あの坂を下ってくるんだ。そして解剖室のまえへもって行く。

9時か10時ごろ迎えに行って,つれてくるんだけれど,解剖室の扉が開いていれば,解剖室へ入れる。午後にならなければ,医者は解割しないからたまに手違いで解剖室の扉が開いていないことがある。そのときは庭の土や雪の上に担架ごとおいてふとんをかぶせておいてくるんだよ。
園内で死んだ人はほとんど解剖された。入園するときの書類に「解割していい」という欄があって,名前を書いてハンコを押させられていた。

おれは5〜6回行き,いろんな恰好で死んでいるのを見たよ。ふとんからはいだして死んでる人もいた。戸を開けたら,そこに頭があって,びっくりしてとび上がったこともある。出口の戸に頭をおっつけて死んでいた。出たかったんだろうなあ。

ほかには門脇金次さん,木村誠さん,村田勉さんなんかが行った。

なんの手当ても受けずに,食事もひどいもんだったんだから。五日会(患者会)の人たちが「もうちょっと食事を多くしてやったら。」って言ったら,「よけいにやると,太って体によくない。」って加島が言ったそうだ。ふつうの分だって十分でないのに,小さいにぎりめし一つ分くらいと梅干し一個,それも一日二回きり,飢え死にさせたようなもんだ。
看護手見習いの佐藤君だったか,山田君だったか,どっちかがうしろをもち,前を松野君がもったことがある。坂を下りるとき,担架の竹竿が折れて,死体がころがり落ちてしまった。松野はまっ青になって担架を放り出し,坂の下にあった看護学院の陰でふるえているんだよ。おれたちは手伝わされてはいるけど,遺体の運び出しは看護手の仕事だから見習いでもやらなければ,叱られる。やっとなだめて,別の担架をもってきてもらって,のせてきたことがあった。

特別病室に入れられている人は夏の間は二ヵ月に一度ぐらい出されたかなあ。そのとき,髪の毛を刈ったり,風呂に入れた。冬は全然出さなかった。いまみたいに舗装はしてないし,雪が溶ければ,泥道だし,あんなところにろくに食わせずに入れておいたんじゃあ,下へつれ出しても,歩いて帰れないもの。
春,暖かくなると,門衛の人と分館の人が風呂場までつれ出してくる。患者作業の床屋に髪を刈らせるんたけど,首すじまで髪の毛がのびていたよ。
いま考えてみると, 特別病室は熊本の本妙寺集落を解散させるために急遽つくったんじゃあないかなあ。

(谺雄二=当時,長島事件,大島青松園のラジオ事件などがあちこちでおこった。それで光田健輔ら所長連中が話し合い,各園にある監禁室のほかに特別病室を栗生楽泉園につくった。)

特別病室に入れられた人が栗生楽泉園に残り,いまも健在でいる……名前は言えないけれど。しかしだれがききに行っても,絶対に言わない。

熊本の本妙寺集落にいた中村利登治さんが友愛会という会をつくり,県知事が許可したという書類をもって,いまの韓国のソウルあたりの,大きな会社へ寄付を集めに行った。それを県知事は文書偽造だとかなんとか言った。罪をなすりつけるにはよかったんだろうけど。その親方が利登治さんで,主だった人が特別病室につれてこられた。特別病室が全部いっばいになったのは本妙寺集落の人たちがきたときくらいだ。
あのときは四畳半に2人入れた。1人が死んだんだが,だまっていて,二人分のめしを食っていた,という事実があった。それが印南さんだった。あとで知った印南悦八郎さんはなかなか頭のいい,若い衆だったよ。冬だったから一週間ぐらい死人といっしょにいたんだろうなあ。夏だったら,とてもできない。残酷なもんだよ。守衛が一日に1回はまわって歩く,なんて言ってたけれど,そんなことは絶対になかったんだよ。

本妙寺からきた中に,満八十山(みつる・やそやま)の奥さんで,夫といっしょに投獄され,じつに一年以上,390日間も入れられていた境テイさんという人がいた。

(谺雄二=境テイさんはのちに患者大会で証言し,92名の投獄者中いちばん長期の533日間にわたって拘束された末に獄死した夫のことなどを語った。そのようすはニュース映画のフィルムとしてNHKに残っている。)

境テイさんが医局にきたとき,おデコがまっ黒なんだよ。おれは知らないから「おばさん,どうしたんです,おデコ。」って言ったら,「監禁所で死のうと思って,なんぼ打ったけど,死ねなかったよ。」って言ったよ。テイさんが言った監禁所は特別病室のことだけど。

沢田五郎さんが『とがなくてしす』で言っている首つって死んだ。」というのはないんじゃあないか。「中はトタン張り。」って書いてあるけど,板張りだったよ。壁も板張りだった。五郎さんはまだ子どもだったからきいた話なんだろうけど,納骨堂の脇にあった監禁所ば二部屋トタン張りだったからそれが伝わったんかも知れない。

特別病室の中は暗いからよく見えないけど,ひもをひっかけるところはなにもなかったよ。その板に日付が横棒で刻んであった。一本づつ引いたんだろうねえ。「かあちゃん」「おれはだれだ」「ウラミ」「加島はオニ」などが書いてあった。

(谺雄二=昭和26年にはまだ残っていて,「出たらただじゃあおかねえぞ。」また同じ字で「加島さん,許してください。」って書いてあるのを見てびっくりした。悲惨な,気持ちの変化が書いてあった。)

五郎さんが『とがなくてしす』に書いた鈴木義夫のことはおれは知らないんだ。

監禁室でも一人死んだ人がいるんだよ。
郵便通帳を二人で偽造する事件があって,金を下ろして逃げた者はつかまらず,石川という人がつかまって,監禁所へ入れられた。「タべずいぶんうなっていたぞ。」って妙義舎の一号の連中が言い,朝めしをもって行った人が「返事をしねえ。」って言うんで,医局だの世話人で行って見ると,ブリキで張ってある壁に血がとんで,髪の毛を両手でつかんで死んでいた。どっか悪かったんだろうなあ。それを松本友太郎さんだの,中島省吾さんだの世話人がひきずり出してきたけど,この人は楽泉園に籍があったから葬式をやってもらえたんだよ。楽泉園に籍がなくて「特別病室」で死んだ人は葬式もなく,解剖室で棺桶に入れて,荒縄でしばって棒を通して世話人がかついで行って,焼き場で焼いたんだ。線香一本立ててもらったわけではないよ。人ごとながら,震えたよ。

楽泉園の者は「特別病室」へ入れられても,外にいる者が嘆願してくれるけど,よそからつれて来られた者はだれも知らないし,嘆願してくれる人もない。

湯の沢部落でバクチを打って警察につかまり,3〜4人「特別病室」へ入れられたことがある。朝鮮人だったけどね。傷があるもんだから治療に何回も行って,“頼んでくれ”“出してくれ”って。あの当時,協親会(朝鮮人の親睦会)があったかどうか,知らないけど,藤原さんや顔役が口をきいて,朝鮮人たちは一ヵ月ぐらいで出たんじゃないか。

名前は出せないけど,患者の父子が楽泉園へきて,子どもの方は目が悪かった。その二人が諏訪の原へ行ってジャガイモを掘って盗んだ,って農家の人につかまってしばられて,分館につれてこられた。目の見えない子どもはかまわないが,父親が一週間ぐらい特別病室に入れられた。特別病室へ着くまでなにかしゃべっているんだが,秋田のなまりがひどくて,なにを言いわけしているのか,わかんなかった。おれと門脇金次とふとんをかついでもって行かされた。新しいふとんなんかやらず,再製のふとんだった。死んだ人のふとんを打ちなおしたふとんが解剖室のとなりにおいてあった。

夏なんか特別病室へ行くと,小説に出てくるように南方で戦死した人に姐がさがっている,まったくあのとおりだよ。あんなせまいところからどうして蠅が入ってタマゴを生みつけたんか,包帯をとると,ぼろぼろ姐が出てくる。一週間か二週間に一回,看護婦が包帯を交換するわけなんだけど,嫌がってなかなか行かないんだ。行くときはおれたちがついて行く。

医者は一回だって診察に行ったことはない。

ひどいもんだったよ。においがすごいんだ,足の裏傷から。出口に腰かけさせて,足を出させて,幽霊みたいな人間の治療するんだから看護婦だってたいへんだよ。
入れられている人たちはおれたちに言うんだ。「おらあなにもやってねえ。」「頼んでくれ。」「出してくれ。」「ここへ手紙を書いてくれ。」って。
おれたちは分館に伝えるしかないんだよ,だけど,加島は全然相手にならなかったよ。「金はあとから払うから手紙書いてくれ。」ってずいぶん言ったよ。もう名前は忘れちゃたけど,九州の人が多かったな,九州の方言が多かったから,九州の人だな,ってわかるんだ。本妙寺あたりの。
本妙寺からきた人でも下っぱの人もみんないっしょにいたけど,指導者じゃあない人は入れられなかったんだよ。

五郎さんも「お風呂につれてきたのを見た。」って書いている。おれは薬局で作業をしていて,診察がおわるまでいるから帰りがおそく,いつも12時ごろになっちゃうんだよな。そうするとく藤の湯>のまえにゴザ敷いて髪の毛の伸び出したのが2−3人きていて,床屋作業の左内さんなんかが髪の毛を刈っている。そばに分館の加島だの本館の職員が見張っている。「風呂は勝手に入れ。」って。昼休みに患者はほとんど行かないから。そこで着がえさせて,また職員が二人つき,坂をよろけながら,上がって行くだよ。
だから冬なんか絶対につれてこなかったよ。すわらせて,髪を刈るところがないんだもの。ひと冬おいとくんだから髪の毛が肩まで伸びて,ひげだって垂れるほど伸びて,目だけギョロギョロ,している。

見張りは職員がやった。焼き場の仕事は世話人だったけれど。

楽泉園の分館職員は海軍上がりが多かった,海軍の看護手上がりが。〇〇さん,〇〇さん,みんな海軍なんだ。海軍の衛生兵がここにつとめた,看護手として。
多磨全生園みたいに守衛がお巡り上がりというのはなかった。
守衛は昼間は二人で,夜は一人で,タイムコーダーをもって,朝,昼,夜に一回,園内,各作業場―ミシシ場,印刷場,裁縫場をまわって歩いた
門衛には手錠が二つぶらさがっていた。それはむこうから患者にかけてきた手錠をはずしておいて行ったんじゃあないか。
門衛には二部屋あったから夜は一人で泊まっていたんかなあ。食糧運搬などみんな患者がやっていて,出入りがあったから。馬が二頭いて,冬は馬橇で草津の電鉄駅までネギだのジャガイモだのコメだのとりに行ってたんだ。

堕胎は多く,胎児が標本室に残っている。

多磨全生園で不倫をして子どもができたとか,よその療養所でいっしょになってこっちへ逃げてきた人なんかで,堕胎した人がいた。木村三郎さんと高尾安次さんは異常体質で,局所麻酔の注射を打つと,気違いみたいになっちゃう。木村三郎さんは局所麻酔の注射を打ったら,物干し竿をふりまわしたり,夜とび出しちやって,大さわぎしたことがある。そういう人以外は断種しなけりゃあ,夫婦舎に入れてくれない。十二畳半に五人も六人も雑居しているより四畳半に二人でいられる方がいいから。断種は嫌だ,って言えば,分館へ呼びつけられて,結婚は許可しない,部屋やらない,となる。

ほかの園には通い婚で,夜は大部屋に夫婦が何組も雑居,というのがあった。楽泉園には湯の沢部落が移転してきた事情で自由地区があったり,四畳半があったので夫婦で雑居はなかった。鈴蘭地区に服部ケサ医師がっくった病院を楽泉園に移築してあった。それは六畳だったり,八畳を二つに縦に割ったりして夫婦舍にしていた。

特別病室の問題はこんどの裁判で重大な問題になるだろうが,あんなに厳重にしといて,しかも療養所でありながら,医者が全然行かない,なんてひどいもんだたったよ。矢嶋さんは長らく医務課長だったけど,「特別病室」へ行ったことは一回もない。おれは医局にいたから薬が出れば,カルテがまわってくるのに,「特別病室」の分がきたことは一回もない。「苦しんでいる。」っていうので病棟に担ぎこまれた人は何人かいるけど。
苦しんでるのは飯とりが発見して,各務さんだの佐川君あたりが「おかしい。」って言うと,「じゃあつれてこい。」って医者が言って,病棟へ入れたことがある。

「特別病室」の温度は正確な記録はないけど,マイナス15度になったことはうんとあったろうな。保育所が火事になったとき,消火栓が凍っていて開かなかったことがあり,湯の沢からきた消防団がおこった。水が出ないとはなにごとだ。愛川宏が消防団の親方で,園長に食ってかかったのを見た。消火栓まで凍つちゃってるんだいな。「特別病室」は保育所と山ひとつで,ほとんどちがわない。あそこは日は当たらないし,赤松林の中だから寒かつたろう。ひどいもんだよ。

やせて,汗かいて,病んで,尿や糞をたれ流し,それがふとんにしみ通り,凍ったふとんに寝てる。死んで凍るんじゃあなく,生きているうちに凍っちやうんだもの,むごい話だよ。

看護婦が一週間に一回くらい外科治療に行くんだが,こわがってなあ,「ついてってくれ。」って言うから,しょうがねえついて行くんだ。春先,屋根の上からザザーッと音がしてチョコレートの厚いような,変なものが落ちてくるんだよ。トタン屋根の上にコンクリートがぬってあって,それに水がしみて,冬のあいだに凍ってひび割れて落ちてきたんだ。おどろいたなあ。

建物はずいぶんひどいもんで,だからよけい厳重にしたんだよ。
あの塀は鉄筋じゃあないよ。あんなに早く壊せるわけないもの。板で作って,それにラスを張り,鉄の網の目を張って,コンクリートをぬりつけたもんだ。国会の調査団がきたとき,2〜3日まえに塀をこわしたんだから。ふつうなら,鉄の玉やなにかで叩き壊さなけりゃあ,壊れるわけないんだよ。あの中にはめしを運ぶ人しか入らなかった。守衛はカギを開けてやるだけ。ひどいもんだったよ。死ねば,遣体を解割室へ運ぶ。解剖室が開いてなけりやあ, 解剖室のまえに担架で半日もおいておく。解剖室からは火葬場へ世話人にもって行かせた。線香の一本も上げない,お経の一つも上げてやらない。あとに残った患者としても,恥ずかしいよ。神経が麻痺しちやった,っていうんか。言えば,こんどは自分が「涼しいところへ行くか。」って言われる。

水沢定作さんが故郷(くに)へ行って,帰ってくるとき,軽井沢で草軽電鉄に乗車を拒否され,道を知らないから軽井沢から60キロ線路づたいに歩き,工夫が道具を入れておく小屋に泊まり,二日かけて帰ってきた。足に傷をつくり,くたびれきってやっと楽泉園の天城舎へたどりついた。
加島が天城舎の世話人だった久保田保夫さんとおれを呼び出し,「水沢を特別病室へ入れる」ってきかないんだ。窓のところにあったノコギリで水沢さんをたたこうとしてふりまわしたよ。おれと久保田さんはとにかく謝った。「勘弁してやってくれ,こいつは子どもがいて,心配で心配でしょうがなくって,行ったんだから。」って。
加島は怒って怒って「(汽灌場の)高い煙突に二日三目吊るしておけ。」って。おれたちは平謝りに謝って帰ってきた。加島は「めしなんか食うな。」って言ってたから定作さんにはめしを一週間ぐらいくれなかったんじゃあないかなあ。

嬬恋村の三原からこっちの線路の上に血が点々とついているんで線路工夫が「なんだろう」って不審に思ったそうだ。国の方へ通知されれば,監禁所へ入れられるからとにかく一生懸命帰ろう,と思って帰ったんだろうなあ。
市川さんも同じように歩いた。

(谺雄二=水沢さんと市川さんの話は『風雪の紋』にのっている。)

「特別病室」へ行くのはやだったなあ。行かないわけにはいかないし。

時効だから訴えるわけにはいかないんだろうけど,国の責任者は認めなければならない,と思うよ,こういう事実を。ひどいもんだった。楽泉園の患者はそんなに大勢入っていないから園内ではあまり知らない人が多い。特別病室がいつ建ったのか,知らない人もだいぶいたようだよ。 こっそり建てたんだなあ。
あんなところに窪地がある,なんてわかんないものなあ。ある程度整地したんだろうけどな。

あれは日本のアウシュウビッツだよ。

「特別病室」(重監房)については証言も少なく,何より実際に入れられた人からの証言がない。高田さんや沢田さんのように実際に見聞きした人でも証言する人は少ない。
歳月も流れ,当時を知る職員や看護師で存命している人も数少ないだろう。まして加島正利など直接に重監房に拘わった人たちは,もはや亡くなっていることだろう。


私は若き日にアウシュヴィッツ収容所を訪ねたことがある。
ガス室の前に立ち竦んだこと,薄暗い監禁室の前で背筋に悪寒が走り,この世の地獄を垣間見た記憶は,今も鮮明に残っている。

この残酷な事実,無法地帯の中で行われた人を人と思わない残虐な行為を指示・実行したナチス・ドイツの感覚や意識とは如何なるものであったのか。今まで多くの学者や研究者が多方面からさまざまに研究し解明しようとしている。

私にとって衝撃であり,追究したい課題の一つは,アイヒマン裁判における彼の言葉が,加島正利の言葉と重なったことである。

裁判を通じてアイヒマンはナチス率いるドイツによるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べながらも,自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張した。この公判時にアイヒマンは「一人の死は悲劇だが,集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉も残している。

1947年,自治会が待遇改善に加えて「特別病室」の撤廃を求めて立ち上がった「人権闘争」のとき,厚生省調査団を交えての話し合いの席上で,加島正利は「俺は悪いことはしていない。忠実に服務してきただけだ」と述べたのである。(その後,加島は懲戒免職の処分を受けているが,罪を問われてはいない。)

彼らの証言を無責任と詰ることは容易い。彼らの行為を当時の国家体制や洗脳教育のせいにすることも簡単だ。だが,本質は別のところにあると考えている。
この問題に関しては,しっかりと検証してみたい。

本書を読み終えて,その非人間的行為が平然と行われてきた事実に,やり場のない怒りと無念さを強くする。ただ唯一の救いは,次の言葉だけである。

どのような境遇の下でも人が生きている限り,そこには人生がある。また,その人生が過酷であればあるほど,それに負けずに生き抜く人が輝くのである。
 抑圧の歳月に歪みし身を絞りらい者とて人間なるぞと叫びき

『とがなくてしす−草津重監房の記録』(沢田五郎)

posted by 藤田孝志 at 13:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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