2012年05月06日

「ハンセン病」問題−人権の視点から−

ハンセン病訴訟の原告完全勝利,心から嬉しい。歓喜の思いを久しぶりに味わった。しかし,マスコミの報道が過熱していく一方で,不安が広がっていく。かつてのエイズと同様の「流行」が本質とは離れたところで「宣伝」されていくことに危惧を感じている。
例えば,ハンセン病そのものに多くの説明がなされていない。感染しない,遺伝しないというハンセン病問題の核心が報道されていない。彼らが訴える「隔離」の意味,なぜ彼らが「これでようやく人間として生きることができる」と言っているのか,彼らの言う「差別」「偏見」をどのように捉えているのか,等々について,「長い間,差別や偏見に苦しみ,人権を疎外されてきた患者」という認識に終始した報道になっている。これらは従来の部落問題に関して使われてきた表現と同じである。誰が彼らをそうしたのかという責任を「政府」(隔離政策は政府の責任ではあるが)だけの責任にしてしまう点でも,従来の部落解放運動と同じである。

ハンセン病に対する差別や偏見は,政府による隔離政策によって始まったのではない。部落差別と同じ長さの歴史的経緯をもつことを忘れても誤魔化してもいけない。まず遠い昔よりハンセン病に対する差別や偏見の実態があって,次に「感染」「治療法がない」ということから政府が「隔離政策」を実施したのである。誰が彼らをそのように見てきたのかが,この問題の本質であり,彼らがくり返し訴えている「我々を同じ人間として認めて扱ってほしい」ということの意味である。


差別の原因を「病気」に求めてはいけない。病気を差別の原因としてこの問題を考える以上,たまたま病気になった「気の毒な人,かわいそうな人」という「他人事」の意識は消えない。彼らを差別し排除し,偏見のまなざしで眺め続けてきた我々の意識こそを変革すべきであり,この差別と偏見の歴史こそを報道すべきである。小泉首相の「断念」よりも,彼が患者と握手していることを評価したい。長島愛生園のある地元に住み,ハンセン病問題とかかわってきた者として,彼らを忌み嫌い避けている現実を多く見てきた者として,小泉首相の握手を評価したい。

部落問題との違いに目を向けるのではなく,共通の本質を考えていくべきだと思う。ハンセン病を知ると同時に,ハンセン病患者を同じ人間と見なしていない側の差別意識を問うていく視点が重要である。エイズ患者の苦悩をわかろうという意図でのみ作られた教材,エイズ患者とどのように関わっていくべきかばかりを書いた啓発パンフレットと同様に,ハンセン病問題が取り上げられていくことが不安である。人権教育・同和教育に取り組む我々自身が,いかなる立場に立ってこの問題に向き合っていくべきかをまずは考えなければならないと思う。


先日,NHKの特集番組を見た。題名とはかけ離れた内容にマスコミの意識の低さと立場のズレを感じた。翌日,長島愛生園の金さんと話したとき,自身も取材を受けて画面に登場していたが,私と同様の思いを語られていた。この裁判を通して国民の関心が向かうことを喜ぶとともに,一方で問題がすり替えられていくことへの危惧である。同対審答申が政府の責任を問うことを明らかにしながらも,「国民の課題」が部落への知識理解と表面的な差別禁止(差別はいけないこと)の教育を生みだしたことに近い結果が見えてしまう。政府を悪者にして,責任を追求することで正義を表明し,自らの裡にある認識を問うことはない。犠牲者である「かわいそうな人たち」を憐れむことはあっても,彼らとの「隔離の溝」を埋める必要性を感じる者は少ない。

今回の特集で,「隔離政策」の推進者であった故光田愛生園元園長に,責任を転嫁しているように感じたのは私だけだろうか。権力や権威(発言力)をもった人物の間違った認識や判断によって多くの人々が苦しむ結果となったり,歴史自体が大きな変動をおこしたことは数多い。しかし,光田氏に責任を求めるよりも,ハンセン病問題の本質である「ハンセン病に対する差別や偏見」自体が,いかなる経緯と思想によって国民の中に形成されたのか,それを受けとめてきた我々の人権意識の問題性はどこにあるのか,この問題をどのように教育や啓発に生かしていくか,等々の課題こそを問うべきである。光田氏の責任問題は,エイズ問題での安部氏に重なって見えるのは私だけであろうか。「誰かのせい」で問題を片付けようとする体質こそが恐ろしい。

患者の願いや思いをどのように受けとめているか,まず我々が自らに問うことからハンセン病問題を考えていくべきではないだろうか。今回の訴訟を通して,マスコミが取材し報道している患者の声を,その苦渋の背景から考えてほしい。「隔離」「強制労働」「堕胎強要」等々に「ひどい扱いを受けてきた」「辛かったであろう」の同情だけで終わってほしくない。なぜ「隔離」であったかを「遺伝と感染」から考えるのではなく,「差別と偏見」による「排除」として受けとめ,誰が彼らをそのように見てきたのか,そのように扱って当然としてしてきたのか,そのような事実を黙認できた我々の意識はいかなるものか,「遺伝と感染」が間違いであると知っていたらこの悲劇はなかったであろうか,など考えるべき視点は多い。「解放令」以前と以後の被差別民(部落)への対応と重なる部分が多いことが,ハンセン病問題の本質が「差別問題」であり「人権問題」であることを示している。

マスコミ報道の誤謬を見抜き,何がすり替えられようとしているか,エイズ問題と同じ轍を踏まないために,我々はしっかりとこの問題と対峙していくべきである。

posted by 藤田孝志 at 14:06| Comment(0) | TrackBack(0) | ハンセン病問題学習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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