2012年05月06日

金泰九さんの生き方に学ぶ−自らの「ハン(恨)」から解放されるために−

金さんは,僚友への追悼文に「ハン(恨)」を「自らの不運を嘆く」という意味で書いたと記している。日本による植民地支配の中で「韓国人」として生まれ育ち,戦後は「ハンセン病」患者として生きねばならなかった金さんの半生は,自らの「ハン」からの解放の旅であった。しかし,それは肩に力を入れた生き方ではなく,「自らの不運」をあるがままに受け入れながらも,「自分にできること」を自然体で求め,人生を前向きに生き続けた姿である。


金泰九さんは,1926年,日本の植民地支配下にあった韓国の慶尚南道で,農家の長男として生まれる。日本人に対する「恐怖」を周囲の大人から聞かされて育つが,小学校の日本人校長の姿に感銘を受け,日本人に対する恐怖心や反日感情が少し和らいだ。12歳の時,日本に定住していた父親を頼って日本に渡り,大阪で暮らすようになる。旧制中学校時代,級友から「半島人」と云われ差別を受け,初めて朝鮮人である自分を自覚した。しかし,当時は同胞である朝鮮人の姿に劣等感さえ抱き,強くなるしかないと柔道部に入って練習に励んだ。朝鮮人としての劣等感を克服するために,尊敬され信頼される人になりたいと考えたからである。級友の多くが予科練に進む状況の中,皇国史観の影響もあり,軍人を志す。陸軍兵器学校にて終戦,同胞の先輩に「軍人の道はまちがいではなかったか」と言われ,返す言葉がなかった。

復学して大阪市立商科大学(現・大阪市立大学)に入学後は,学生結婚をしたこともあって,勉学よりも商売に精を出した。1949年に「ハンセン病」を発病する。残り少ない人生を妻のために生きる決心をして生活するが,1952年に長島愛生園に強制収容された。以後,社会復帰をしていた5年間を除き,現在まで長島愛生園で暮らしている。


自分が幸せなときは他人を恨むことはないと思います。また豊かな心を持つ人はそうでない人より偏見・差別もしないようです。世の中みんなが幸福で心豊かに生きるための文化度を高めていきたいと思っています。自分が幸せだと思う「センス」を文化だと思います。

これは,金さんが難聴の少女に送った手紙の一節である。過酷な運命を生きる金さんが,なぜ常にこれほどまでに柔和で穏やかな笑みを浮かべ。身体の弱った自分よりも周りを気遣う限りない優しさを持っているのか。決して自らの逆境を嘆くこともせず,自信と誇りに満ちて生きているのか。これは金さんと出会った誰もが実感することである。

病に苦しみ,人生に失望し,生命を絶った多くの僚友を見送りながら,また厳しい隔離政策と排除の中で,自ら人生を捨てた生き方を選ぼうとする僚友を見つめながら,しかし彼は決して希望を失うことはなかった。なぜなら,自らを苦界に追い込んだ「ハンセン病」について勉強しながら,施設や待遇の改善要求,17年間という長きにわたっての本土への架橋要求や,「らい予防法」撤廃要求,国家賠償訴訟など数々の運動の先頭を歩み,彼自身が常に自分に対して「自らの変革」を実践してきたからである。彼はこう書いている。

まず入所者の我々自らを病気であったための萎縮と劣等感から解放させることである。

「差別はねぇ,社会全体の不幸なんだよ」と語る金さんの目は,今,より広い世界に向けられている。かれは,自らの生活体験を通して「ハンセン病」に対する偏見や差別を克服するためだけでなく,在日韓国・朝鮮人に対する差別や部落差別などあらゆる差別と闘うために「語り部」として社会啓発に全力を注いでいる。これが彼の生きざまである。

差別観念や優越感は,決して人間が生まれながらにして持っているものではなく,差別的な社会の仕組みの中で,形成され作用されるものだと言う。さらに重要なことは偏見差別は,差別される側だけの不幸でなく,社会一般すべての不幸につながることである。このことを大衆が学び知ることにより,日本における偏見差別は間違いなく減少するはずである。

この金さんの訴えを通して,今自分に問われている生き方について考えたい。

posted by 藤田孝志 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 入所者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月29日

沈寿官と金泰九

第十四代沈寿官氏から金泰九さんに渡すよう託かった品を持って,勤務校からの帰りに愛生園の金さん宅を訪ねた。いつもの金さんがいつものように温かく迎えてくれた。
先週末に本校三年生がお世話になった現地研修のお礼を述べ,その翌日に金さんから預かった品を携えて「薩摩焼窯元 沈寿官」を訪問したこと,運良く第十四代沈寿官氏に会うことができたことなどを一息に話した。少しでも早く金さんに渡したかったし,沈寿官氏との出会いを報告したかったからだ。


鹿児島には学年団の解散旅行で行くことにはしていたが,その目的は『知覧特攻平和会館』であって,沈寿官氏を訪ねることは当初の予定にはなかった。
本校三年生に金さんが講演した中に,自殺を思いとどまらせてくれた一冊の本との出会いについての話があった。その本が,司馬遼太郎著『故郷忘じがたく候』であり,その主人公である第十四代沈寿官氏との出会いであった。恥ずかしながら,私は『故郷忘じがたく候』をまだ読んでいなかったので,早々に買い求め,一晩で二度読み返した。

秀吉の朝鮮出兵の折り,強制的に拉致され,途中で放逐された朝鮮陶工たちが,漂着した鹿児島で窯を築き,薩摩藩の厚遇を得て薩摩焼を大成したことに,表面的な歴史事象としてしか知らなかった自分の浅学を恥じた。
拉致された朝鮮陶工が二度と故郷に戻れぬと覚悟しながら生きぬいた姿に,同じ朝鮮人として,またハンセン病のため強制隔離されたことを同じ境遇と共鳴し,勇気づけられた金さんの思いが心に伝わってきた。この本に救われたと語る理由がはっきりとわかった。
また,この本の後半に描かれている第十四代の生き様に心引かれ,御前黒と言われる黒薩摩を再興した沈寿官氏に是非にも会いたいと思うようになり,急遽旅程を変更し,沈寿官氏を訪ねることを決め,その旨を金さんに伝えた。
金さんの講演を聞いた本校三年生を連れて現地研修に訪れたとき,金さんは「沈寿官氏は多忙な方だから会えないかもしれないが,もし会えたら渡して欲しい」と,金さんから紙袋を手渡された。


美山ICを降りて数分,沈寿官氏の窯場はあった。駐車場に車をとめ,雑木林に続く坂道を歩くと,右手に中国や韓国の庭園で見かける円形の見晴台があった。その先に,木立の中に佇む和風の工房があった。ひっそりと静まり人の気配はない。家に沿って小道を歩き,右に続く坂道の先に,作品展示場と販売所の案内表示があった。中に入ると,美しい作品が整然と並べられていた。その奥,ひげを蓄えた柔和な顔が迎えてくれた。瞬時に,第十四代沈寿官氏その人であることがわかった。ゆっくりと,まるでその柔和な顔に引き寄せられるように近づき,自己紹介と訪ねた理由を述べ,金さんのことを話し,託かった品を手渡した。沈寿官氏は,しばしその品を捧げ持ち,やがて深く一礼した。その所作は,まるで眼前の金さんに対するようであった。

立ったままだった私たちに椅子を勧め,小一時間ほど,私の話を静かに頷きながら聞いては,一言一言をかみ締めるように語ってくれた。時折雑える冗談もその場を和やかにしてくれた。私は沈寿官氏に魅せられてしまった。飛行機の時間が刻々と近づいているのも忘れ,もっともっと話しを聞きたかった。

金さんのことを尋ねられ,その過酷な半生を伝えたとき,沈寿官氏は目を閉じ,大きく頷かれた後,店にいた女性に一冊の本を持ってくるように伝え,徐にその豪華な本の表紙裏に筆を走らせた。見事な達筆であり,人柄が滲み出るようなやさしい文字であった。『薩摩焼 沈家歴代作品図録』に書かれた文字は,次のものであった。

金泰九学兄
       咲く命一つなり  萩も朝顔も
                        陶工十四代 沈寿官

金さんへの心のこもったメッセージであった。金さんとは一歳違いの83歳,お互いの人生を讃え合う言葉である。私はすぐにでも金さんに,,この沈寿官氏の思いを伝えたいと思った。二人の人生が交差した瞬間に立ち会えたことに,心がふるえ,魂が共鳴した。もはや言葉にはできない感動に包まれ,時空を越えて金さんの運命と沈寿官氏の祖先からつながる歴史が私の脳裏を駆け巡った。過ぎゆく時間をこれほどに惜しんだことは久方ぶりだった。私はこの出会いを残すべく一対の黒薩摩のコーヒーセットを買い求めた。別れの時,手の不自由な金さんのために取っ手の付いたカップを奥より出して渡してくれるよう頼まれた。


金さんの自伝『在日朝鮮人ハンセン病回復者として生きた わが八十歳に乾杯』より,沈寿官氏との出会いについて記されたページを抜粋・転載しておく。

1976年1月。50歳。
ある日,日出治療分室にフラッと入って行き,H医師に「先生,右腕がちょっと神経痛がするんですが」と言って,相談をもちかけたのが「運の尽き」であった。H医師はカルテを見ながら,「その神経痛は本病(ハンセン病のこと)の瘢痕だから,どうしようもないよ。長く治療をしてないな,DDSでも飲んでみるかい」と。
私はすぐ「飲んでみます」と答え,一日一錠ずつ服用した。これまで菌陰性だったので,長く無治療だった。だから,治療薬DDSを飲んでみる気にもなったのであった。
DDSは「治らい薬」の一つで,スルホン剤プロミンの錠剤で治療薬の主流でもあった。
   …(中略)…
そこで初めて手が下がったことに気が付いた。下がったというのは足首,または手首が垂れ下がり上に上がらない状態のことだ。一晩のうちに手と足が下垂したのだった。
   …(中略)…
私は,DDS錠剤さえ服用していなければ,こんな副作用(反応)は起こらなかったのに,と悔やんだ。泣き寝入りするしかすべはなかった。
   …(中略)…
退室して部屋に帰ったものの,変わり果てた我が身を人目にさらすのがなんとなく恥ずかしくて部屋にこもった。一瞬にして身体障害者になった自分を,気持ちの方がそれを受け入れなかった。現実の自分を受け入れることが出来なかったのである。「なぜ?どうしてこうなった?」繰り返しそう思わずにはおれなかった。
そして毎晩,寝床に入っては,自殺を考えるのであった。自殺の方法をあれこれ考えながら,堂堂巡りの末寝入るのであった。
昼間はなぜだか,自殺は考えなかった。そのくせ一度も自殺を試みることはしなかった。正真正銘のノイローゼであった。
そんな時一冊の本に出会った。司馬遼太郎著『故郷忘じがたく候』であった。
   …(中略)…
この本を読んだ後,私は何とかして,鹿児島県の沈寿官家第十四代に会ってみたい,そしてお話を伺いたい,という衝動にかられ,一途に苗代川行きを思い始めたのであった。そして,友人,安さんにも相談した。
結局一度葉書で頼んでみようということになり,「お訪ねして,お話をお聞きしたい。長島愛生園入所者 金泰九」と出したら,なんと「どうぞおいでください」という返事が来たのである。感激この上もなかった。

1979年4月,安さんと二人で沈寿官第十四代当主を訪ねる旅に出た。
安さんは私に劣らず視力も弱く,手,足の後遺症も重かった。二人三脚で列車に揺られタクシーに乗り換えたりして,ついに沈寿官窯場に到着。道中での苦労も吹っ飛び,約二時間も十四代沈寿官先生のお話を聞くことが出来たのである。本当に夢のようであった。
   …(中略)…
思うに,1979年春,列車や車を乗り継ぎ,やっと沈寿官窯場を訪ねた私の行動は,毎晩自死を考えた私を積極的に生きさせるきっかけになったことは間違いない。
列車に乗り,車に乗りして,探しあぐねた目的地にたどり着き,念願を果たした満足感は,自死の願望を遙かに凌駕するものであったからだろう。

沈寿官氏から贈られた『薩摩焼 沈家歴代作品図録』を開き,沈寿官氏のメッセージを幾度も口にする金さんは「不思議だね。人の出会いは不思議だよ。奇遇だね,俺と藤田さんが出会い,藤田さんと十四代が出会う。数十年の時間を超えて縁がつながる。」と沁み沁みと私に語った。同じことを私も感じていた。長き歳月を経て熟成され芳醇な味わいを醸し出した逸品の酒を口にしたようであった。魂の出会いである。

私は今回の旅で,沈寿官氏と出会い,一つの大きな人生訓を教えられたように思う。
それは,辛酸も悲哀もすべては人生の糧であるということだ。悩み苦しむことなど人の一生の中では数えきれぬほどあり,それらにこだわり,人を憎み,自分の境遇を恨んでも,それらは実にちっぽけなことでしかない。小さなことに一喜一憂し,わずかなことで人より優れた自分を見いだしても,それが人生の何になるのだろう。もっと大きなことに目を向けて生きることを教えられた気がする。

posted by 藤田孝志 at 13:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 入所者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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