2010年09月26日

ハンセン病関連史

明治以降のハンセン病関連の出来事をまとめてみた。これは,以前にあひる企画がHP用に作成したものである。(そちらはPDFファイルにしておいたので,資料として活用していただければ幸いである)

ハンセン病に関する歴史は多くの方々がまとめておられ,HP及び書籍で公開されている。私も詳しくまとめたいと考えている。特に,政府・国家とハンセン病患者・患者組織,さらにその背景となった関連事項,関連する社会状況などと相関させながら年表にしたいと思っている。

あらためて年表を見るとき,ハンセン病問題の根深さと国家による意図的な隔離政策が浮き彫りになってくる。


 1873(明治6)

ノルウェーのアルマウェル=ハンセンが,ハンセン病患者の病巣部から「らい菌」を発見し,ハンセン病は「らい菌」による感染症であるとの考え方が示された。

 1889(明治22)

キリスト教宣教師テストウィード神父が静岡県御殿場富士岡村に日本で最初のハンセン病療養所である私立神山復生病院を開設する。
(1894年に慰廃園:院長ゲーテ・ヤングマン,1895年に回春病院:院長ハンナ・リデル,1898年に待労院:院長ジョン・メリー・コールが開設される)

 1897(明治30)

第1回国際らい会議(ベルリン)において,ハンセンの唱えた「感染症説」が国際的に承認されるが,「的確な治療法の存在しない現在,感染症であるハンセン病の地域への蔓延を阻止,予防するには患者隔離しか方法はない」と決議された。

 1899(明治32)

東京養育院内にらい患者のための回春病室を開設する。院長渋沢栄一,主任光田健輔。

 1900(明治33)

内務省による第1回らい患者に関する全国一斉調査がおこなわれる。北海道を除き3万359人の結果となったが,主に警官による調査のため不正確であった。

 1907(明治40)

第23回帝国議会に,政府案として「らい予防に関する件」が提出され,可決・成立。同3条では,任意入所の規定を置かず,ハンセン病患者の強制隔離を認めたが,扶養義務者が見つかれば患者を引き取らせると規定していた。このことからも,ハンセン病患者が自由に徘徊することを取り締まるという外観的(風俗上)理由からの法律制定であった。

 1909(明治42)

連合府県立病院として五療養所が設立される。
北部保養院(青森:定員90名)・外島保養院(大阪府:定員300)・九州保養所(熊本県:定員150)・大島療養所(香川県:定員200)・全生病院(東京都:定員350)

内務省第45号「らいに関する消毒その他の予防法」を公布する。らい病をコレラ等急性伝染病と同様の厳しい防疫・消毒の対象とする。

 1910(明治43)

全生病院で礼拝堂を教室として入所者を教師にして授業が開始された。


 1915(大正4)

療養所内では自暴自棄になる患者も多く,混乱が絶えなかったため,東京全生病院(のちの多磨全生園)院長の光田健輔が所内の秩序維持のための意見書を政府に提出した。
この光田健輔の判断で,ハンセン病患者への優生手術(断種・堕胎)が開始された。断種(ワゼクトミー)を前提に結婚を認める。独身の男性も対象にされ,手術を医師ではなく看護長や看護士に実施させることもあり,手術の結果,性交不能になったり腰痛などの後遺症に苦しむ者が多数出た。

 1916(大正5)

「らい予防に関する件」と「らい予防に関する施行規則」の改正により,療養所長に対して患者への『懲戒検束権』が付与された。

各療養所に「悪質患者」を収容するための監房が設置される。

入所者の守るべき規律・規範として「患者心得」が施設ごとに制定され,提示された。

熊本菊池恵楓園で,病菌の伝播を防ぐということを理由に,園内のみで通用する通貨,いわゆる園内通用券を発行し始める。のちに,この園内通貨制度は全国の療養所へ広がる。

 1925(大正14)

内務省は全国警察部長会議で「未収容患者」の収容を促すため,各県の患者救護弁償規定を緩和してでも,患者収容を促進するよう指示した。

内務省がらい一斉調査をおこなう。患者数15351人,入所者数2176人


 1927(昭和2)

国立らい療養所設置に関する建議案が国会で可決される。

 1929(昭和4)

熊本菊池恵楓園にて,創立当時からある逃走予防のために掘られた濠とともに,園の西側と北側は,高さ約2メートルのコンクリート塀及び素堀の濠によって患者の居住地区を囲み始める。

愛知県の方面委員数十名が,愛生園で患者の生活を視察し,帰県してから,「愛知県よりらいを無くそう」という民間運動を始めたことが発端となり,その後岡山県,山口県などでも『無らい県運動』が始まる。

 1930(昭和5)

内務省は,全員隔離・終生隔離による患者の絶滅を目指す『らいの根絶策』を策定する。

日本最初の国立療養所として長島愛生園が設立される。園長光田健輔。

 1931(昭和6)

『らいの根絶策』に基づき,「(旧)らい予防法」が制定される。強制隔離の徹底,患者の職業規制,汚染の疑いのある物品の売買禁止などを明記する。
これにより患者の救護費弁償制を廃止し,本籍・本名を申告せず,財産の有無も関係なく入所ができるようになる。

らい予防協会が愛生園と大島療養所に「未感染児童保育所」を設立する。

 1932(昭和7)

国立療養所粟生楽泉園を群馬県草津に設立する。

 1934(昭和9)

室戸台風により外島保養院が壊滅的な被害を受ける。患者173名,職員3名,職員家族11名が死亡する。生存者416名は復興まで各療養所に分散委託される。

 1935(昭和10)

国立療養所星塚敬愛園が鹿児島県鹿屋に設立される。

 1936(昭和11)

皇紀二六〇〇年を期して,政府は「富豪の国家の浄化に向かって一層の力」を惜しまぬようにと,全ての国民を総動員するかたちで「無らい県運動」を組織化・体制化して,その政策を強力に推進する。

長島愛生園において「長島事件」がおこる。患者らは,日頃の不満と相まって,作業拒否などの行動に出た。たまたま逃走を計画していた患者ら4名が監禁室に収容されるという事件も起き,園側との対立が深まった。そして,患者側の会合を職員が,天井裏から盗聴しているところを発見したため,患者は激高し,警官27名が到着するなか入園者大会を開いて,自治制度の確立を決定した。やがて,患者側がハンガーストライキに突入するなどしていったが,園側が,自治会を「自助会」として認め,患者側も作業ストライキを中止し,一応の解決を見た。

 1938(昭和13)

群馬の栗生楽泉園にて『特別病室』(重監房)が設置される。

外島保養院が長島に邑久光明園として再建される。各療養所に委託されていた患者が光明園に復帰する。

国立療養所国頭愛楽園(現沖縄愛楽園)が沖縄県屋我地に設立される。

 1939(昭和14)

この年までに,全国のハンセン病療養所で断種手術を受けた患者は,1,003人に及んだ。
国立療養所東北新生園が宮城県に設立される。

 1940(昭和15)

厚生省(現・厚生労働省)が各都道府県あてに,「無らい県運動」の徹底を指示する。

厚生省が作成して成立した国民優生法には,断種の対象を遺伝病とみなされた疾病の患者に限定し,ハンセン病患者は除外されることになった。

当時の熊本県警察本部長は,本妙寺らい患者部落住民の一斉検挙を断行する。

大島青松園は,医師数5名,看護婦数11名に対し,在園者638名という状態。医療従事者の少なさから,「患者看護」として患者が病棟の患者の面倒を見るということが強制された。

 1941(昭和16)

青森県を津軽地方と南部地方に分け,大々的な患者収容が行われ,松丘保養園には200名近くが収容された。国立に移管された翌年にも一斉収容は実施され,さらに秋田県まで範囲を広げて,3か月で100名以上が収容された。

鳥取,岡山,福岡,山口,宮城,富山,埼玉が「無らい県」となる。

回春病院が経営難のため解散する。入院患者は九州療養所に収容される。聖バルナバ医院も経営難のため粟生楽泉園に収容される。公立6療養所が国立療養所に移管される。

 1942(昭和17)

目黒慰廃園が経営難のため閉鎖される。入園者は全生園に収容される。

大島青松園の「大島学園」が国民学校令に基づき「庵治第二国民学校養護学級」として認可される。

 1943(昭和18)

アメリカで画期的な治らい薬として「プロミン」が開発される。

国立療養所奄美和光園が鹿児島県に設立される。

 1945(昭和20)

沖縄や宮古島で日本軍により在宅患者の強制収容がおこなわれる。

国立療養所駿河療養所が静岡県に設立される。

 1946(昭和21)

東京大学薬学教室の石館教授によってプロミンが合成される。

衆議院議員補欠選挙で入所患者が初めて選挙権を行使する。

 1947(昭和22)

「第二次無らい県運動」に基づき,療養所の拡張や,「未収容患者」全員の完全収容に務める。戦前の『らいの根絶策』が,厚生省にも引き継がれる。

楽泉園で,初めての患者大会が開催されたが,その中で,在園者の生活改善要求のほか,特別病室に対する不満が噴出した。その後,厚生省の調査団が調査に入るも,厚生省が園側を擁護する立場を崩さないために運動はさらに広がり,やがては「特別病室」に対し国会調査団が派遣され,その様子が朝日新聞やNHKニュースで報道されるなど社会問題化する(「特別病室」事件)。

第20回日本癩学会総会において,石館教授によるプロミンの治験効果の研究が3例報告される。

各療養所に中学校が設置され,教育委員会から教師が派遣される。

 1948(昭和23)

断種と人工中絶の対象にハンセン病患者を明記した「優生保護法」が成立する。

多磨全生園で患者自治会が「プロミン獲得促進委員会」を結成し,請願書を提出するなど積極的に政府への働きかけを行った。

 1949(昭和24)

全国ハンセン病療養所所長会議が厚生省で開催される。
尾村療養所課長は,「根絶を常に頭におけ。運営の重点は収容を徹底するにあり,次は治療」と発言し,根絶策を批判した東局長の国会答弁を全面否定した。
これを受けて小川予防課長が「無らい運動を展開しよう」と提案し,その運動による新患者の収容の方法として,「非常に軽快したものは退所させたら如何か,神経型の古い者など出して代わって重いのを入れたら如何か」と発言した。
この小川発言に愛生園の光田健輔園長が激しく反対し,「それは生兵法大けがのもとだ。軽い神経型で皮膚反応+の者の神経に新しい菌をみた例あり,軽快者だとて出してはいけない。遺言しておく」と発言した。

当年度の予算折衝にてプロミンの予算が大蔵省(現・財務省)により大幅に削られたことから,多磨全生園は全国の園自治会に電報で事態を伝えるとともに,ハンストを行うなどの運動を行い,さらに時の大蔵大臣・池田勇人に面談するなどして,要求通りに増額させた予算を国会において通過させた。プロミン予算5000万円が組まれる。

 1950(昭和25)

らい根絶を目指して全国一斉に「未収容らい患者」の実態調査が実施された。その結果,「未収容らい患者」の総数が2526名と把握され,都道府県別の数も明らかにされるに至った。
これを受けて厚生省は,各都道府県に対し,「未収容らい患者」の一掃を指示,その収容状況を毎年報告するよう義務付けた。

 1951(昭和26)

第12回国会参議院厚生委員会が開催され,当時のハンセン病の国立療養所所長であった光田健輔(岡山・長島愛生園),林芳信(多磨全生園),宮崎松記(菊地恵楓園)の三園長が,患者の意思に反しても収容できる法律の必要性,断種の必要性,逃走罪などの罰則の必要性などを証言した。

全国国立らい療養所患者協議会(全らい患協)が結成される。

 1952(昭和27)

全らい患協は,「らい」の名称を排する立場から,組織名も「全国国立ハンセン氏病療養所患者協議会(全患協)」と改めるとともに,「らい予防法」の改正試案を決議した。これを長谷川保議員らによる議員立法として国会に提出することも決定した。

(1)らい予防法は保護法的性格をもったものとする。 
(2)強制収容の条項は削除する。
(3)全快者または治療効果があり病毒伝播のおそれのないものの退園を法定する。この場合,必要とする者に対してはアフターケアー的施設及び就業斡旋を考慮する。
(4)病毒伝播のおそれのない者の一時帰省を決定する。

この動きに対して,厚生省は,当初予防法改正に消極的だった態度を変え,別の予防法改正案を作成し始めるとともに,長谷川議員らに圧力をかけ,議員立法としての法案提出を見送るように説得した。そして同議員がこれを受け入れたため,画期的な「全患協草案」はついに日の目を見ることはなかった。

これに答えて,当時の吉田首相は,(旧)らい予防法は,日本国憲法に抵触しないと明言し,当面法改正を考えていないことを明らかにした。

いわゆる「藤本事件」が発生する。ハンセン病患者であった藤本松夫は,村のある者から患者であることを当局に密告されたとして,同人を惨殺した疑いで逮捕され,熊本地裁出張裁判で死刑判決を受けた。しかし「ハンセン病偏見によるえん罪ではないか」として全国療養所在園者を中心に救援運動が起こったが,それも空しく,患者藤本松夫は異例のスピード裁判で,57年に最高裁で死刑が確定,再審申立を却下する前に1962年,早々と死刑を執行された。

多磨全生園にて,全入園者の総意による決定によって,園内通貨制度が廃止される。

 1953(昭和28)

(新)らい予防法が制定される。このとき「近き将来,本法の改正を期する」との付帯決議がなされている。
法改正の基本理念として厚生省は,国会において,「らいを社会の蔓延から予防し,公共の福祉をはかるためには,患者を施設に隔離することが唯一の方法であると考えている」と述べている。患者らは療養所での作業放棄などの手法で,法制定に激しく抵抗した。

全国唯一のハンセン病患者専用の刑務所として,定員を75名とする菊池医療刑務支所が,熊本・菊池恵楓園に隣接して設立された。

 1954(昭和29)

厚生省は,療養所での「患者看護」を廃止し,病棟の完全看護切替を指示する。しかし,職員の増員自体が極めて不十分であったため,大半の施設において部分的な切替に終わらざるを得なかった。

長島愛生園に入所するために大阪駅からある患者が出発した後,見送りに来た娘に駅員が消毒薬を浴びせかけ,患者の立っていたところすべてを消毒するという事件が起こる。

熊本の菊池恵楓園附属竜田寮児童が,かねて要望していた近くの黒髪小学校への通学が教育委員会に認められ,通学しようとしたところ,PTA会長ら一部父兄によって激しい反対運動が展開された(竜田寮児童通学拒否事件)。彼らは『らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬよう,しばらくがっこうをやすみましょう』等のポスターを多数貼って,児童らに「同盟休校」を呼びかけた。

 1955(昭和30)

長島愛生園内に邑久高校新良田分室が開校。全国の療養所からの生徒の移動は,普通列車に連結した特別貸切車にて行われた(いわゆる「お召し列車」)。この「お召し列車」は1963年まで存続する。

プロミン等スルフォン剤投与の効果によって,国立療養所におけるらい菌陰性者の割合が約74%にまで急増する(1948年には約26%)。

 1956(昭和31)

カトリック・マルタ騎士協会主催「らい患者救済及び社会復帰に関する国際会議」が51カ国の代表によって開催され,日本からも林全生園長,野島青松園長,浜野藤楓協会理事の3名が参加した。この会議は,「らいに感染した患者には,どのような特別法規をも設けず,結核などの他の伝染病の患者と同様に取り扱われるべきである。従って,すべての差別的な法規は廃止されるべきである」として,すべての差別法の撤廃を勧告した。差別・偏見への対処として,啓蒙手段を注意深く講ずべきことも決議された。

 1957(昭和32)

厚生省は,療養所「収容」患者の「軽快退所決定暫定準則」についてまとめる。
しかし,同準則は患者らには「厳秘」にされ,厚生省が同準則に基づいて各療養所に指示することもなく,しかも準則には「積極的に患者の退所を行わせる意図を含むものではない」とも注記されていた。

大島青松園において,24畳の大部屋を12畳の2部屋に分ける作業が行われた。

 1958(昭和33)

厚生省による退所患者の社会復帰支援策として,生業資金・支度資金・技能修得資金について更生資金貸付が始められた。

熊本県で,療養所当局と警察・検察庁による「脱走患者一斉検束」が行われ,農繁期のために一時帰省していた入園者に対して,「らい予防法」第28条の罰則規定(過料500円)を適用するという事件が発生。

菊池恵楓園にて,隔離の壁の外を巡回し,患者の逃走を見張っていた巡視が行われなくなる。

この頃のハンセン病患者数は,推定15,000名であり,このうち施設に収容されている患者数は10,834名であった。未収容の登録患者数は1,098名であり,未登録患者は約3,100名と推定されていた。

 1960(昭和35)

大島青松園にて,「患者看護」が廃止され,全病棟における看護職員への切替が終了した。

沖縄の読谷高校で,愛楽園を退園して地元中学に復学していた元患者が,高校入試に合格していながら,面接で愛楽園退園者とわかり合格を取り消されたことが判明。同校では前年にも同様の取り消しを行っていた。

国民年金が支給される。第1次該当者(生涯福祉年金3670人,老齢福祉年金157人)

 1961(昭和36)

沖縄で,「ハンセン氏病予防法」(病名変更)が公布施行され,これにより退所規定及び在宅治療制度が導入された。

全患協各支部代表が厚生省交渉を実施した。その際,厚生省は,「(療養所からの)外出自体が違法」であると主張し,各支部代表との面会を拒もうとした。

国鉄鹿児島本線の列車に無賃乗車していた浮浪者風の男を駅員がハンセン病患者と誤信し,当該車両の乗客を他の車両に移して大々的な消毒を行うという事件が起こる。

 1963(昭和38)

全患協は,「らい予防法改正要請書」を厚生大臣に提出し,強制隔離政策の撤廃と退所者の保障,在宅医療の充実等,国の政策の全面転換を求める。
これに対し,当時の厚生省結核予防課長は,「この要求は殆ど予防法の改正を前提としているようだが,将来のことは別として厚生省としては現行法に則って運営していかなければならない。どのような施策も法律の根拠が必要である。」としながらも「1964年度にらい予防制度調査会をつくるべく予算要求をしている」,「厚生省としても早く改正したいと思う」と発言して積極姿勢を見せていた。

 1964(昭和39)

厚生省結核予防課が「らいの現状に対する考え方」を取りまとめる。
そこには,「医学の進歩に即応したらい予防制度の再検討を行う必要がある」とし,その方向として「患者の社会復帰に関する対策」,「医療体制の問題」,「現行法についての再検討」の三つを挙げていた。

熊本菊池恵楓園の患者が朝日新聞支局主催のアマチュア囲碁十傑戦に応募したところ,主催者側から「患者さんが会場に来られると,社会人とのトラブルが懸念される」として出場を断られた。患者自治会の抗議によりいったんは出場が認められたが,数日後に本社からの指示として再び出場拒絶を通告してきた。なお,翌年からは患者の出場が認められるようになった。
愛生園で鳥取県出身者の里帰りが実現する。以後,郷土訪問が各都道府県で実施される。

 1966(昭和41)

長島愛生園において不自由独身患者の個室化(一人あたり3.75畳)がなされる。

長島愛生園に授産施設畳工場ができる。

 1968(昭和43)

長島愛生園において軽症患者の個室化が着手される。

全生園付属高等看護学院が設立される。

 1969(昭和44年)

大島青松園にて,患者部屋の個室化が完了する。

敬愛園に回春者授産の大島紬工場が開設される。

 1970(昭和45)

全患者のうち94%の人々が隔離される。

 1971(昭和46)

厚生省は,国立療養所における収容患者がいつ全員死亡するのかについて,調査を行う。

このころ沖縄愛楽園では,病棟でさえ壁には大きな亀裂が入り,雨漏りで病床が水浸しになるほどであった。当時の犀川園長は,「私もかつて台湾,フィリピン,ベトナム,インドの療養所を訪ねたが,こんな惨めな病棟は珍しかった。」と述べている。

 1972(昭和47)

大島青松園では新造船「せいしょう」を造船することになった。ところが,この船の設計において,従来通り職員席と患者席を区別する設計であることが判明した。患者自治会が強く反対したが,結局,区別が維持されたまま造船され,進水した。

全患協は厚生省当局に対して,療養所作業を患者から職員へ返還すべきこと(作業返還)を求めた。この全患協の最終通告に対して,厚生省は,「作業返還を1年間延期してもらいたい」と申し入れた。

長島愛生園の患者団体が県庁を訪問するために,バス会社に配車を依頼したところ,いったん承諾したにもかかわらず3日前になって断られた。前に患者を乗せた際に同乗職員だけ消毒して,運転手には何の手当もしなかったことが組合の問題となったとのことであった。愛生園自治会の抗議の結果,バス会社は全面的に陳謝した。

 1973(昭和48)

厚生省療養所課の課長補佐が,作業返還について長島愛生園を来訪したが,「本省としては作業返還に対応する措置は全くない。」と発言する。

 1975(昭和50)

全患協は全国の支部代表らを集めて,「将来の療養所のあり方研究会」を開催し,予防法改正を基本的にふまえながら,隔離主義による条項(従業の禁止,消毒,質問及び調査,外出制限など)の削除,在宅治療の促進,退所者及び家族に対する援護措置等の具体的法制化を改正要求として取りまとめる。

 1976(昭和61)

台風17号による集中豪雨で,長島愛生園・光明園が潰滅的な被害を受ける。

愛生園新良田教室の生徒が開校以来初めて本校(岡山県立邑久高校)の授業に参加する。

 1977(昭和52)

松丘保養園にて,老朽化した施設が豪雪により倒壊する。

奄美和光園では,2室制の夫婦舎が建てられた。4畳半に2間だけだったものが,2室になったものである。

 1978(昭和53)

厚生省は,国立療養所における収容患者がいつ全員死亡するのかについて,再調査を行う。

 1979(昭和54)

全生園中学校の卒業式が行われる。2名が邑久高校に進学し,全国で最後の閉校となる。

 1980(昭和55)

長島架橋実現に向けて愛生園・光明園から43人が上京し,厚生大臣への陳情と国会誓願を行う。園田厚生大臣が初めて「長島大橋を次年度予算で実現する」と明言する。

 1981(昭和56)

秋田で,軽い皮膚病(シラクモ)をハンセン病と思いこみ,母親が二児を絞殺し,自分も自殺を図り未遂に終わるという事件が報道される。この問題にふれて松丘保養園長は,「従来の国家的偏見を断ち切って本来の医学的理解に基づく新秩序に,軌道修正する法改正が,どうしても必要である」とらい予防法の撤廃を訴えた。

 1982(昭和57)

琉球大学附属病院において外来治療が開始される。しかし,治療の規模もごく小規模で,年間の初診人数は1986年の25人をピークに,以後,年間数人程度に止まった。

 1983(昭和58)

香川県で,自分も娘もハンセン病にかかっていると思いこんだ36歳の母親が小学3年生の娘の布団の中にガスを引き込んで死なせ,自分も意識を失ったが夫に見つかり一命をとりとめるという事件が起きる。

 1985(昭和60)

菊池恵楓園で,「患者作業」が完全に療養所職員に返還される。

長島大橋架橋第一期工事の起工式が行われる。

 1987(昭和62)

療養所所長連盟が,「らい予防法」の改正に関する請願書を厚生大臣に提出する。

邑久高校新良田教室で1人だけの卒業式と閉校式を行う。32年間,卒業生307人。

 1988(昭和63)

「邑久・長島大橋」の開通式が行われる。テープカットが行われ,参列者全員が渡り初めをする。「悲願17年,隔離を必要としない証,人間回復の橋として,この橋は1ヶ月前に開通した瀬戸大橋より意義は大きい。」と山口鶴男議懇事務局長があいさつを行う。


 1989(平成元)

長島〜西大寺間を結ぶ路線バスが運行を開始する。開園以来の園船が廃止となる。

身延深敬園が閉鎖される。光明園に2名,全生園に11名が転入園する。

 1995(平成7)

日本らい学会が,隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して,らいの恐怖心をあおるのを先行させてしまったのは,まさに取り返しのつかない重大な誤りであったと認める見解を示す。

 1996(平成8)

当時の菅直人厚生大臣の決定により,「らい予防法」が廃止される。同時に,廃止措置の遅れを謝罪する。

優生保護法を「母体保護法」と名称変更するとともに「らい条項(断種と人工中絶の対象にハンセン病患者を明記)」を削除する。

 1998(平成10)

元患者13名が,国を相手に「らい予防法」意見国家賠償請求訴訟を熊本地方裁判所に提訴する。のちに,この原告団の構成人数は127名に達する。

 2001年(平成13)5月11日午前10時

熊本地方裁判所においてハンセン病訴訟に原告側の完全勝訴の判決がおりる。国は控訴を断念する。

posted by 藤田孝志 at 06:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 年表 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。