2011年07月22日

ハンセン病の医学的知見

『90年目の真実』に収録されている和泉眞藏先生の講演録「医学が解き明かした隔離政策の誤り」に,ハンセン病についての医学的な解説がわかりやすく述べられている。これをもとにハンセン病について医学的にまとめてみようと思う。


ハンセン病の病症については,古来からの俗信も含めて目に見える症状から事実以上に誇張され,差別と偏見から伝聞されてきた。
ハンセン病にかかると(感染すると)このような症状になるのだとまちがった医学的知見が語られてきた。

遺伝病ではない,感染力が極めて弱い,感染しても発病は極めて希である等々,従来のハンセン病の認識が如何に誤っていたかという点については多く論じられてきたが,ハンセン病が如何なる疾病であるかについて正しく認識できているかは疑問である。


<ハンセン病と免疫>

ハンセン病は,らい菌により末梢神経と皮膚が侵される慢性細菌感染症である。

らい菌は毒力が極めて弱く,この菌に対して特異的な病的免疫応答をする個体だけが発症するので,人体側の要因によって発症が大きく左右される特徴がある。

らい菌に対する免疫応答性の個体差は,多彩な「病型」として現れる。

らい菌に対する防御免疫である細胞性免疫能が高く,局所病変にとどまる「類結核型」(T型)
細胞性免疫能が全く働かないため病変が全身化する「らい腫型」(L型)
両者の中間型で多彩な病状を呈するボーダーライン群(B群)
に大別され,T型からB群を経てL型に至る連続した病型の変化を「らいスペクトル」という。
また,いずれにも分類できない初期の状態を「未分化群」(I群)という。

<感染と発症の乖離>

「感染」とは,細菌が宿主の皮膚や粘膜などの体表面のバリア(防御機能)を突破して生体内に侵入した状態のことである。

病原体の感染を受けた個体は,各種の免疫機構を動員して病原体を排除しようとします。しかし,らい菌や結核菌などの「抗酸菌」と呼ばれる一群の菌は特殊な菌で,感染後ヒトの免疫細胞などに取り込まれても,通常の細菌のように簡単に殺菌排除されません。このため,感染した菌はヒトの体内にとどまって生涯生き続けることになりますが,宿主と菌との間には平穏な「共生」関係が成立するため,発病することは多くありません。この平穏な共生関係が何らかの理由で破綻して菌が増殖し始めると,ヒトの免疫系がそれに反応して「闘い」が始まり種々の臨床症状が現れます。これが「発病」であって,「感染」とは区別される生命現象です。

ハンセン病はらい菌の感染を受けた個体のうち,菌との平穏な共生関係が破綻して病的免疫応答がおきた場合にだけ発病する感染症である。つまり,ハンセン病は,金が感染しても発病することの希な疾患であり,感染と発病の間に大きな乖離のある感染症である。

<遺伝的素因と感染力>

ハンセン病はらい菌の感染を受けた者の中から感受性のある者だけが発病する疾患である。
それゆえ,感受性を持つ者の比率が高い集団では伝染性が強くなり,逆に少ない集団では伝染性が弱くなる疾患である。社会経済状態が向上するとともに感受性を持つ者の数は少なくなり,流行は終息に向かう。

病気に対する感受性は「遺伝的素因」と生後の生活史の中で獲得した「後天性因子」によって形成される「かかり易さ」という性質によって決まる。

ハンセン病の場合,生活状態が悪化すると後天性因子は発病を促進する方向に働くので,社会経済状態が悪化すると集団の中で感受性を持った人が増え,発病者が増加する。逆に,社会が豊かになると,後天性因子は発病しない方向に働くため,発症する人は減少する。

ハンセン病に対する遺伝的素因は,人種により差があり,日本人はかかりにくい人が多い人種である。

posted by 藤田孝志 at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 概説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月26日

ハンセン病とは

ハンセン病に関しては,多くの書籍やサイト上に解説が掲載されている。私もHP上に簡単にまとめている(再度詳しくまとめなおしたいと思っている)が,大阪府のHPに掲載されている『大阪府ハンセン病実態調査報告書』が詳しく,参考となる。ここでは,その一部を転載し紹介しておく。


1 ハンセン病とは

(1)ハンセン病の特徴

ハンセン病は,らい菌によっておこる慢性の感染症です。 らい菌は,結核菌と同じ抗酸菌の一種で1873年にノルウェーのアルマウェル・ハンセンによって発見されました。
らい菌の第一の特徴は,好んで末梢神経に侵入し,そこで増殖することです。第二の特徴は,他の病原性細菌より温度の低いところを好み,低温で分裂することです。このため手足の先や顔,鼻,耳など体温の低い部位,すなわち人目につきやすいところに病変がおこります。第三の特徴は,細菌の増殖する速度が大変遅いことです。そのためハンセン病は,感染から発病まで潜伏期間が長く,数カ月から数十年と,様々に言われています。
このようにハンセン病は,外見に変化をきたす皮膚病の特徴と身体障害を引き起こす神経病の特徴などに加えて,治療法の確立されていなかった時代には,徐々に重症化するために,「特殊な病気」として取り扱われてきました。そのうえ患者を排除しようという国策によりさまざまな社会的要因が加わり,患者とその家族は偏見と差別に苦しめられることになったのです。

(2)感染と病気

ハンセン病は,らい菌による感染症ですが,菌の感染力は弱く,また感染しても発病することは極めてまれな病気です。
感染経路としては,従来,皮膚の触れあいによる接触感染説が有力視されていましたが,最近では,未治療患者の鼻粘膜・鼻汁に存在する菌が排出され,これを吸い込むことにより気道を経て感染するとの考え方が主流となりつつあります。
らい菌の感染力は結核菌よりも極めて弱く,免疫機能が十分に働いていない乳幼児期,あるいは極度に免疫力が低下した場合(たとえば戦争,飢餓,貧困などの社会経済状況)を除いて,発病することはほとんどありません。これはハンセン病療養所に勤務した職員が一人も発病していないことからも明らかです。

(3)治療

ハンセン病回復者に多く見られる手足の変形などの後遺症は,1940年代まで有効な治療薬がなかったこと,療養所での不十分な治療のほか所内で強制された「患者作業」が大きく影響しています。
現在ハンセン病の治療は,化学療法を中心に行われています。1945〜55(昭和20〜30)年代は主として,スルフォン剤による単独治療が行われ,さらに,1965(昭和40)年代後半になって,結核の治療薬のリファンピシンが,らい菌に対して有効であることが明らかになりました。
その後,1981(昭和56)年には,WHO(世界保健機関)が,リファンピシンを中心に複数の化学療法剤を加えた多剤併用療法を提唱し,わが国においても,多剤併用療法が次第に治療の主流となっていきました。
この治療法は,治療結果だけでなく,再発率の低さ,治療期間の短縮などの点で画期的であり,数日間の服薬でらい菌はその感染力を失ってしまいます。
現在では,ハンセン病は早期発見と早期治療により,後遺症としての身体障害を残すことなく,外来治療によって治癒する病気になっています。また発見がおくれて後遺症を残した場合でも,手術を含む現在のリハビリテーション医学の進歩により,その障害は最小限に食い止めることができるようになりました。


2 嫌われた病気 ─ ハンセン病と隔離政策

(1)ハンセン病に関する最初の法律 ─「癩豫防ニ關スル件」

かつては「癩・らい」と呼ばれたハンセン病は昔から洋の東西を問わず“嫌われる病”でした。治療薬のない時代であり症状が顔,手足などに現れ,隠しようのないことも大きな要素でした。
それに加えて,わが国では,“うつる”(伝染する)と考えていた人もいましたが,一般には“血筋の病”つまり「遺伝病」だと考えられたうえ,一部の宗教の影響で前世の因果,悪業の報いとして「天刑病」,「業病」と言われ,社会から排除されていました。
その一方で,仏の生まれ変わり,あるいは福をもたらすものとして地域によっては,少なくとも忌み嫌われるだけではなかったという言い伝えもあります。また,仏の慈悲にすがり病の全快を願って寺をめぐったお遍路さんに救いの手を差し伸べる人たちもいましたし,神社や寺,観光地の周辺に集まって物乞いをする患者たちは,社会の片隅でひっそりと暮らしていました。嫌われ蔑まれても,それなりの居場所を見つけ出すことができたのです。
その背景には,昔から大流行したこともなく簡単に伝染するような病気ではない,とされていたことがありました。ところが1897(明治30)年,ベルリンで開かれた「第一回万国癩会議」に出席した医師二人によって,「ハンセン病は『らい菌』による感染症であり,会議では患者の隔離が必要と決議された」という情報がもたらされると状況は一変しました。
「天刑病だ」,「遺伝病だ」といった従来の概念に加え“うつる病気”というイメージが積み重なり,“危険な病気”“近づかないのが一番”という疾病観が次第に国民の間に広がっていきました。
それと同時にわが国の議会でもハンセン病に対する関心が急速に高まり,患者隔離の方策を探る動きが現れるなど,議員からハンセン病患者の取り締まり,隔離に関する質問や意見書・法案提出があいつぎました。
政府部内でも議会とは少し違った視点から患者対策への関心が高まっていました。

当時,欧米諸国では,ハンセン病に対して医療衛生・福祉の両面から施策を講じ,この病気の予防・治療と貧しい患者を救済するための療養施設を整え,街中で物乞いをするような患者の姿を,ほとんど見かけなくなっていました。

日本では,この病気に対する衛生医療対策,福祉政策は皆無で,わずかに外国人宣教師による慈善的な療養施設が,貧しい患者の治療を行っているだけでした。
この頃の日本は,日清戦争(1894〜5〈明治27〜8〉年)の勝利で世界の注目を集め日露戦争(1904〜5〈明治37〜8〉年)にも勝利をおさめ,“大国”として一目おかれるようになっていました。
しかし,政治,経済,社会生活,どこから見ても欧米の先進文明国のレベルには,遠く及ばないというのが実状で,明治政府にとっては,何としても国際社会の一等国として欧米諸国と肩を並べたい,というのが当面の重要課題であり,街をうろつく患者の姿は“国の恥”を世界にさらす「国辱」的な存在としか映らなかったのです。

議会では,感染力の程度,「患者野放しは文明国の恥」,といった点に議論が集中しました。政府・内務省は,「ハンセン病は感染症ではあるが感染力は弱く,コレラや赤痢のような伝染病と同様に扱うことはできない」と,答弁はしたものの“国の体面にかかわる……”という点では異論なく,1907(明治40)年第23回帝国議会でハンセン病に関する最初の法律「明治四十年法律第十一号 癩豫防ニ關スル件」(資料108ページ参照)を制定しました。“浮浪らい”と蔑称され,物乞いなどで生計を立てている患者を療養所に隔離し,街中の目ざわりな存在をなくすというのが目的でした。

この法律の第三条は次のように規定しています。

癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官廳ニ於テ命令ノ定ムル所ニ從ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ

このように“養生できる資力がなく経済的に面倒を見てくれる者がいないハンセン病患者は療養所に入れて救済する”というのが,この法律の趣旨だったのです。

先に書いたように「第一回万国癩会議」の決議では,予防の最善の策は隔離であるとしています。その隔離の方法は,「らい菌」の発見者アルマウェル・ハンセンの提唱によるもので,「那威ノルウェーの学者ハンゼン氏は極めて寛大なる意見を有し,癩病会議の際提出せし論文に次の如く云えり」として光田健輔東京市養育院医員(当時)がその内容を次のように紹介しています。

(一)癩病は一般清潔法の普及により其伝染を予防し得可し。
(二)癩病の隔離は故郷におい於て充分に行なわれ得可し。
(三)貧民の癩病に罹りたるものにして自宅の隔離不完全なる時は国立病院に救助隔離せらる可し。
(四)癩病院に入院せしむる事は場合によりては絶対的とすべく(貧民浮浪者等)或は任意的とす可し(富者)

「癩病患者に対する処置に就て」『東京養育院月報』五十九号 明治39年,『光田健輔と日本のらい予防事業』財団法人藤楓協会 収録)

つまり,“ハンセン病は衛生状態の向上で,ある程度,感染を予防できる。家庭内で留意すれば,感染の危険のある病状の者を除き隔離は絶対に必要というものではない。資力が乏しく自宅での隔離ができないときは,救助のため隔離入院させればいい。入院は原則任意とし浮浪者や療養する資力の無い者は,場合によっては絶対的隔離も必要”という緩やかな隔離方法=相対的隔離方式(ノルウェー方式)でした。

この病気はめったにうつらない,そのことは当時から専門家の間では,ある程度知られていましたし,政府も議会答弁で感染力は弱いことを認めていました。それでも政府は敢えて隔離政策を採用します。「隔離は必要」という「第1回万国癩会議」の決議を理由に,病気の蔓延を防ぐというノルウェー方式の本質を尊重することなく,その手段である隔離策に重点を置いたためでした。

熊本判決(「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟,熊本地方裁判所判決)は,このようにして生まれた最初の隔離法について「制定当初から感染から発病にいたるおそれが極めて低い病気であることは知られていた。国辱論に引きずられた結果であり,隔離の必要性はなかった」としています。 この法律「癩癩豫防ニ關スル件」制定の際の責任者であった窪田静太郎内務省衛生局長は後年,法律制定の背景を次のように語っています。

自分の考えでは伝染病に相違ないが,思ふに体質によって感染する差異を生ずるので,伝染力は強烈なものではない,古来遺伝病と考えられたのもその辺に存るのであらうと思うたのである。しかし,伝染の点は右の如しとしても,患者の救済を要すること,また風紀外観上相当の措置を要することは差迫った問題であると思って居たのであるが,救済のことや風紀取締りのことは内務省内では自分以外に主管者があること故,かたがた着手に躊躇して居たのである。

世論も大いに放浪患者の救護の必要を認むるようになったので,衛生局長たる自分としてはらいの伝染の予防を主たる理由とし傍ら患者当人の救護も必要なりとの理由を以て,先づ放浪者を一定の場所に収容して,公費を以て救護を与える方針を定めて着手することにしたのである。

(『創立三十周年誌』財団法人藤楓協会)

このことは,熊本判決にも符合する内容です。 そして,この法律を受けて1909(明治42)年,全国を5地区に分け地区毎 に連合府県立の療養所(資料81ページ参照)が設置されます。こうしてハンセン 病医療政策ははじめて具体的に動き出しました。

(2)救護から絶対隔離政策へ

1925(大正14)年,この法律の性格が一変します。法の改正によってでは なく,“浮浪らい患者”に限っていた療養所への隔離対象者の範囲をできるだけ広 げるよう衛生行政を所管する内務省,つまり国が法律の解釈の変更を決めたのです。
その変更は内務省衛生局長名の通知,衛発第一二〇号通牒「癩患者ノ救護ニ関ス ル件」で,この年8月,各地方長官,つまり道府県知事に伝えられました。

癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官廳ニ於テ命令ノ定ムル所ニ從ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ

先に紹介した「癩予防ニ関スル件」第三条の条文です。〈療養ノ途ヲ有セス〉という文言は,従来の“住居も資力もない”という解釈を改め“療養の設備を持たない”とし,〈救護者〉は単なる扶養義務者をいうのではなく,“扶養能力に加え病気治療が可能な者”と理解するように,と指示しています。
いずれも病院の経営者でもないかぎり不可能なことは明らかで,この解釈変更により,事実上すべての患者が入所対象者とされることになりました。
通知の後半部分では,患者の救護費用(患者収容に要した費用)の弁償のことに触れています。このような解釈の変更には,この問題が深くかかわっていたのです。

1907(明治40)年にできた「法律第十一号施行規則」では,扶養義務者が 見つかれば患者を引き取らせると規定していたので,一旦入所しても扶養義務者の 存在がわかれば,引き取らせたうえ入所期間中の費用まで弁償させました。

第三条の規定に合致する入所資格の判定には,とにかく時間がかかりましたし, 患者収容の費用の処理も大変でした。収容地の府県が立て替え,患者またはその扶 養義務者に弁償を求め,弁償が不可能な場合は府県の負担となりました。扶養義務 者確定の作業から始め,居場所探しも必要です。わかったとしてもスムーズに解決 するとは限りません。いろいろな事務処理がうまく運ばず,都市部では入所できな い患者が大勢出ていました。
衛生局長の通知が出される3か月前にも,内務省から指示が出されています。

大正十四年五月二十九日の全国警察部長会議の席上で,…(中略)…指示が出されている。救護費弁償の規定を緩和し,療養所をもっと活用すべしというのである。

(山本俊一『日本らい史』)

通知に至る背景には,公立療養所の拡充など1921(大正10)年に策定した 増床計画に十分な見通しが立ったこともありましたが,患者隔離に重点を置きなが ら救護の建前を持つ法律を制定,救護の建前にしばられ隔離の成果があがらない, といった状況も影響していました。
通知による法律の解釈変更は,すべての患者を隔離できるようにし,患者隔離に 重点をおきなおすためのものだったのです。
そして1929(昭和4)年には施行規則を改正し,申し出による入所を認めることにしたのに続き,1931(昭和6)年,この法律は「癩予防法」(法律第五八号)(資料110ページ参照)として生まれ変わります。

患者の就業禁止,物件の消毒・破棄などの条項が設けられたほか,最初の国立療養所「長島愛生園」が1930(昭和5)年に設立されるなど大幅に収容能力が拡充されたのを機に,入所費や収容の費用など一切を国または道府県の負担とし,第三条で入所対象者を次のように定め,先に書いた解釈変更に,はじめて法的な裏付けが与えられました。

行政官廳ハ癩豫防上必要卜認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ從ヒ癩患者ニシテ病毒傅播ノ虞おそれアルモノヲ國立癩療養所又ハ第四條ノ規定ニ依り設置スル療養所ニ入所セシムベシ

この規定により,家族に累が及ぶのを恐れて,本籍を隠し,住所不定の偽名の患者であっても入所できるようになり,すべての患者を“浮浪らい”と同じ扱いで療養所に収容することが可能になりました。 すべての「らい」患者を療養所に送り込む「絶対隔離政策」の始まりでした。

(3)特効薬登場,新憲法も無視して隔離継続

1930(昭和5)年,内務省は約10年の策定作業を終え「癩の根絶計画」を発表しました。20年計画,30年計画,50年計画の3案があり,採用された 20年計画では10年間で患者の隔離を終え,残る期間内に根絶の目的を達するというものでした。

この20年計画が1936(昭和11)年から実施され,また,1929(昭和4)年に民間から始まっていた「県から気の毒なハンセン病患者をなくそう」という「無らい県運動」は,1937(昭和12)年,日中戦争が始まると共に戦時体制に組み込まれ,この頃から国によって組織的,体制的に推進されます。

1938(昭和13)年,衛生行政は内務省から新設の厚生省の所管となります。 1941(昭和16)年には,連合府県立の療養所も国立となり,管轄は厚生省に変わります。そして,その年,財団法人癩予防協会が「癩豫防に關する根本對策要綱」を策定,国策として「無らい県運動」の徹底が図られることになりました。

…第二 無癩運動の実施 癩の豫防は,少くとも隔離によりて達成し得るものなる以上患者の収容こそ 最大の急務にして之が爲には上述の如く収容病床の擴充を圖ると共に患者の 収容を勵行せざるべからず而して患者収容の完全を期せんが爲には所謂無癩 運動の徹底を必要なりと認む。…

(「癩の根本対策」 『近現代日本ハンセン病問題資料集成<戦前編>』不二出版 収録)

この要綱により,「家族救護」「十坪住宅運動」などと並んで「患者精密調査の実施」に重点がおかれ,「浮浪らい」患者の取り締まり,在宅患者の隔離収容など,1931(昭和6)年の法改正で明確にした絶対隔離政策が「無らい県運動」のかたちで強力に推し進められることになりました。このような「無らい県運動」は戦後も続いたのです。

1946(昭和21)年,アメリカのハンセン病療養所で画期的な効果をあげた治療薬プロミンの合成に東京大学の石館守三教授が成功,多磨全生園を皮切りに試用が始まり,短期間で目を見張るような効果が確認されました。ハンセン病は治る病気になったのです。またたく間にプロミン獲得運動は全園に広がり,それをきっかけに患者運動は大きく盛り上がっていきました。

このような情勢のなかで1949(昭和24)年6月,全国国立癩療養所長会議が厚生省で開かれました。会議の模様を伝える資料(「全国所長会議」 『近現代日本ハンセン病問題資料集成<戦後編>』不二出版 収録)によると,会議では厚生省の東医務局長が「本年は過去40年を顧みて反省し将来の根本策を計画すべき年である。…必要あらば予防法を変えてもいい」と発言しており,また,厚生省の予防課長は「非常に軽快した者は退所させては如何か」という提案をしています。

しかし,絶対隔離政策を推進してきた長島愛生園の光田園長は,「軽快者だとて出してはいけない」と反対しました。
このほか,この会議では,療養所の収容能力の増強,患者の一斉検診の実施などが話し合われたようです。これは単なる戦前からの政策の継承ではなく,新しい憲法,治療薬プロミンの登場という状況の下で,新たな「無らい県運動」(「第二次無らい県運動」)による新規の絶対隔離政策が国によって展開されたということを意味しています。

このように「無らい県運動」は戦前戦後にわたって展開され,あらゆる機会をとらえ「らいは伝染力が強い恐怖の伝染病だ」という偽りのプロパガンダが繰り返されました。そして患者が収容されたあと家中が真っ白になるまで行われた消毒,「伝染病患者輸送中」の張り紙をした患者輸送専用列車などは“恐怖の病”を印象付ける格好の手段でした。こうしてこの病気に対する恐怖,嫌悪,差別の感情は日本の隅々にまで広がりました。

隣近所に情報を流し,国民の差別感情を利用して患者をいぶり出す心理的強制も収容のテクニックとして当たり前のように行われたことは,原告団や在園者の話からも明らかです。

特に「第二次無らい県運動」では,全国の自治体を巻き込み,組織的・機能的に展開されます。判決では,「このような無らい県運動等のハンセン病政策によって生み出された差別・偏見は,それ以前にあったものとは明らかに性格を異にするもので,ここに,今日まで続くハンセン病回復者に対する差別・偏見の原点があるといっても過言ではない」と断じています。

posted by 藤田孝志 at 05:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 概説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。