2010年09月25日

癩者の装い

『歴史のなかの「癩者」』第一章に次の一文がある。

『源平盛衰記』巻44に次のようにある。

鳥羽里の北,造道の南の末に,溝を隔て白帯にて頭をからげ,柿のきものに中ゆひて,桛杖など突いて,十余人別に並居たり。乞食の癩人の法師共也。

癩者の衣装に関する初見史料である。『石山寺縁起』では,癩病の女子が着た「かきのかたびら」を老僧が剥ぎ取ると全快した。柿衣は癩病を象徴している。一休は,『自戒集』の「養叟カ癩病ノ記」において,癩病になった法敵である兄弟子の養叟を法罰だといい,黄衣を脱いで柿帷に換えていると罵倒している。柿衣は癩者の衣服であった。また,火葬したことに対し,「癩ヲヤクコト無法ナリ」と述べて,死までを差別している。
癩者は柿衣以外に青衣系統の衣も着ており,衣装についても,この世ならぬ冥界の亡者や神秘的な聖者の服装とされたり,差別の徴だとされたりもする。覆面についても,穢れを隠すためであり,穢れの象徴とされる一方,癩人法師すなわち非人の出家姿であるとされたりする。両義的である。ただし,信徳丸が弱法師との異名をつけられたように,法師は必ずしも出家法師を意味するとは限らない。

…五条橋から木戸をくぐると清水坂の登り口に小屋があり,頭巾姿の癩者がいる。小屋の後に北山十八間戸に似た「長棟堂」がある。この癩者を管理したのは,同じ服装をして死を管理した犬神人であろうか。癩者の服装が亡者の服装の側面もあったが,それで葬送地鳥辺野の入り口に集められて犬神人に管理されたのであろうか。癩者を亡者とみなす説から生まれた理解であるが,神仏の化身ならばどのように解釈できるであろうか。

小林茂文「古代・中世の『癩者』と宗教」

中世の絵巻では,犬神人の服装は白覆面で柿衣を着た姿で描かれている。

こうした中世被差別民の衣服(装い)が「渋染一揆」の衣服問題と関係づけられて論じられてきた。これについては今後,考察したいと思っている。

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2010年09月11日

聖と賤の両義性

別冊歴史読本『歴史の中の聖地・悪所・被差別民』に所載されている「善光寺と差別」(笹本正治)に「病者と聖性」と題された一文があり,癩病に纏わる伝説がいくつか紹介されている。

光明皇后伝説

皇后は悲願のため,奈良法華寺において1000人の俗人の垢を洗い流すことを決めた。最後の1000人目にあらわれたのは,全身に血膿をもつ悪疾の患者だった。しかし,皇后は厭うことなく,背中を流し,さらに患者に乞われるままに膿まで吸い出してやった。その瞬間,浴室に紫雲がたなびき,患者は立ち上がって黄金の光を放ち,「我は阿閦仏なり」と言葉を残して消え去った。

説経節「をぐり」

毒酒を飲まされて死んだ小栗判官が,病み崩れた癩の身となってこの世に戻され,餓鬼阿弥といわれながらも妻照手姫の引く土車に乗せられ,熊野湯の峰に浴したところ,神々の功徳のおかげで,元の偉丈夫に戻ったという奇跡譚である。

説経節「しんとく丸」

継母に呪いをかけられて癩病になったしんとく丸が熊野の湯に向かう。その後,乙姫が清水寺に連れて行き,観音の力によって元の姿に平癒した。

八幡浜市白石の姫塚

癩病にかかった京都の公家のお姫様がうつぼ船に乗せられ,流れ着いた。姫は白石で暮らしていたものの,漁村で賑やかなため,静かな山村を望み,三瓶町鴫山に移住したという。鴫山では,姫のために小屋を建て,食べ物をかわりがわる差し上げた。姫はこの地に癩病がおきないよう,法華経を石に書写しながら,ついには亡くなったとされる。

松虫皇女(摩尼珠山医王院松虫寺)

聖武天皇の第三皇女の松虫姫が癩病になって,千葉県印旛郡印旛村に捨てられたが,薬師如来の力で平癒した。その後,彼女は都で死んだが,お骨をここに納めたと伝えられる。

笹本氏は,これらの伝説を紹介して「癩病(者)そのものが聖と賤の両義性を持っている」が故に,中世における寺社の聖性は被差別民に支えられてきたが,時代とともに神仏への恐れが消え,彼らの聖性は忘れ去られたと述べている。


こうしてみると,差別された人々は元来神と人の中間に位置する聖なる者と意識されていたといえよう。それ故に,社会的風潮として神仏との接点となる祭礼や市において,彼らが必要とされていたのである。一方,善光寺としても聖性を示すのに彼らの存在は大きかった。聖なる者に対する畏怖が,聖と反対の賤にもつながった。ところが,そうした聖性が忘れられると,彼らの役割は置き去りにされ,賤の部分が強調され,生計のための手段としてのみ市役が周囲から意識された。実態として,善光寺のような大きなお寺で,経済力があり,人が多く集まる場だからこそ,施しという形でも生きていくことができるという,病者に対する経済的側面も存在した。

つまり,現在における差別意識は時代の中における人々の社会的役割の変化を前提とする結果である。近世・近代に住んだ人々は,中世の人々が着目していたあの世とこの世といった世界観,神仏を絶対的なものとする世界観から離れたために,差別された人々の持っていた両義性のうち,聖の部分が忘れ去られ,賤なる部分だけが増大したものだといえよう。そしてこれは,人々の神仏に対する考え方の変化,神仏への恐れの減退と軌を一にするものなのである。


この「聖と賤の両義性」という考えは従来より述べられてきた。たとえば,「敬われながらも畏れられた人々」という表現で,「キヨメ」という神秘的な異能の力と「ケガレ」という忌み嫌われ排除される要因を言い表してきた。

笹本氏は,この両義性が崩れた要因を「時代の中における人々の社会的役割の変化」によって「聖性が忘れられた」ことに求めているが,私はそれだけではなく,職業の専門化・社会的分業の細分化・生活圏の拡大と交流・社会集団の形成と固定化,等々の要因が背景にあると考えている。

聖性が忘れ去られた要因は何か。聖性そのものは寺社と僧侶・神主に残り,賤だけが被差別民に残った。つまり聖と賤との分化・分業化がおこなわれたのではないだろうか。中世から近世にかけて,賤民もまた彼らが担った社会的役割や職業が分化・分業化される中で,社会や人々による「賤」であるかどうかの再認識が繰り返され,脱賤化した賤民もいれば,さらに強く賤視されていった賤民もいたと考える。

賤民の担っていた社会的役割と賤民の呼称が各地域によって様々であることは,地域の独自性と時代性に関係している。中世における中心は京都であり,朝廷・公家であり,寺社であり,これらのネットワークを通じて「賤民による社会的役割」が各地域に伝わっていくとともに,各地域の実情に対応した形になっていったと考えられる。特に寺社においては,本寺−末寺の関係などから寺社に属している賤民の担った社会的役割は各地域においても同様に扱われたと考えていいだろう。

近世,江戸時代における中心は,江戸であり,幕府・武士であり,寺社である。幕藩体制では各藩はそれぞれの実態に応じた支配体制を構築していったが,それらは幕府の政治体制に範を求めながらである。特に,参勤交代制の確立以後は江戸在住の留守居役が見聞したり,幕閣や他藩重臣から聞いたことなどが各藩に伝えられての政治改革や制度改革につながっていると考える。被差別民の社会的役割が制度化・固定化されていく背景もこれに要因があると思う。

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2010年08月20日

『特殊部落調附癩村調』

1916年,ハンセン病療養所全生病院は,北海道庁および各府県に対して,市郡単位で「私宅療養癩患者調」ならびに「特殊部落調附癩村調」の調査を依頼・実施している。

藤野豊氏の論文『ハンセン病問題と部落問題の接点―「特殊部落調附癩村調」の意味するもの―』をもとに,まとめておきたい。 この調査が意味するもの,実施された時期,その歴史的背景をみていくとき,国家による「民族浄化」が国策として実施されていく過程がわかる。

「癩予防ニ関スル件」(1907年)が制定された背景として,1899年に外国人の「内地雑居」を認めたことが大きい。藤野氏も「註」として紹介しているが,小熊英二氏が『<日本人>の境界』で述べているように,「北海道旧土人保護法」(1899年制定)も同じ背景(理由)であり,監獄法や精神病者監護法の整備も同じである。つまり,「欧米人の視線から<野蛮>ないし<汚濁>とみなされかねない存在を隔離し被いかくす対策」であった。この延長線上に本調査もあったと考えられる。
このようなに見てくると,光田にとり,1916年に全生病院でおこなった「癩村調」では,「癩決闘部落」としての「癩村」についてのデータが不十分であり,そのため,保健衛生調査会四部で,あらためて「癩部落,癩集合地等ノ状況調査」をおこなわせ,より詳しいデータを得る必要があったとみなすことができる。すなわち,光田は,1915年に内務省に提出した意見書を具体化させるため,1916年にまず全生病院として「癩村調」をおこない,さらに1919年には保健衛生調査会として再度,調査をおこない,より正確な実態を把握しようとしたのである。 …将来の絶対隔離に向けて全国の患者数と分布を確認するため,そして,「癩村調」については,絶対隔離のための候補地を確認するためであり,いずれも絶対隔離を実施するうえでの準備となる調査であったと結論付けることができる。
本調査が実施された当時の全生病院長は光田健輔である以上,光田の意向により調査がおこなわれたのは自明のことである。 当初の光田は,島への絶対隔離を即座に実施することは無理と考え,全国にある癩村・癩部落を「癩病療養区域」に設定して周囲と厳重に隔離しようと考えていた。
従来癩患者ノ集合シ若クハ多数ノ癩病ノ発生スル区域ニ於テ健康人トノ区画ヲ厳重ニシ,予防設備ニ注意シ。茲ニ移住土着スル癩患者ニシテ各種ノ職業ヲ営ム者ニ対シ国税及地方税ヲ免除シ。此レ迄附属シタル市町村ヨリ独立シテ一箇ノ自治制ヲ許シ。医療機関ヲ,特設(する)
光田は,これらの調査の項目に「癩部落,癩集合地」だけでなく「現在癩患者ナキモ口碑伝説等ニ存スル癩部落,集合地等」も報告するように求めている。

しかし,患者の絶対隔離の場所は「島」が選ばれる。光田は保健衛生調査会委員として島の調査をおこない,沖縄県西表島を最適と報告している。 なぜ「島」(離島)が選ばれたのか。それは患者の逃走を防ぐのに有効であったからである。


当時,被差別部落には近親結婚・血族結婚により「天刑病」(ハンセン病)が多いという俗説が流布していた。本論文で,藤野氏が引用している資料を転載しておく。
往日封建ノ世ニハ士農工商穢多非人各階級ヲタテテ容易ニ相婚スルヲ許サズ穢多非人ニ至リテハ之ト火ヲ一ニセズ況ンヤ結婚ノ沙汰に於テヲヤ階級ノ区別斯ク厳重ナルニ…(中略)…今日ニテハ旧時ノ穢多非人モ既ニ平民ニ列シテ人間並ノ交際ヲ為スニ至リタレバ此輩ノ血糖モ亦社会ニ広マル可キナリ 下流ノ人民中ニハ癩病遺伝ノ家少ナカラズ

高橋義雄『日本人種改良論』(1884年)

明治四年穢多非人の称を廃し,平民に列せられて,常人と雑居するに至れりと雖も,祖先以来不潔なる生活に甘ぜし彼等の習慣は,清癖なる日本人種の擯斥する所となる,且や彼等は一村内近親結婚をなせし結果として,又丐社会の不潔なる食物を食ふ結果として,穢多乞丐間には往々癩病の血統あり

森貞三郎「穢多と戦敗者」(1905年)

癩病患者の生するは其源因確ならざれども近時専門家の唱ふる所によれば同族最近の血族結婚又は早婚或は花柳病患者の子孫等に多しと云ふ

徳島県内務部編『特殊部落改善資料』(1910年)

被差別部落には血族結婚によってハンセン病患者が多いということは,ハンセン病を「遺伝病」とみなしていることになり,恐ろしい感染症であるから絶対隔離が必要であるとする光田の考えと矛盾するように思える。藤野氏はこの疑問について,「体質遺伝」の考えが光田にあったとする。つまり,光田はハンセン病に罹りやすい体質が遺伝すると考え,それを理由の一つとして「断種」手術の必要性を述べている。

このような俗説が世間にある中で,被差別部落を「癩病発生の病竈地」とする全生病院教誨師であった真宗大谷派僧侶本多慧孝の報告は,絶対隔離を目指す光田に大きな影響をあたえた。だから,彼は本調査をおこなったのである。 この結果,ハンセン病と被差別部落を結びつける偏見はより強く人々に広まり,被差別部落との婚姻忌避は助長され,ハンセン病患者の絶対隔離が正当化されていったのである。


『部落解放研究』に掲載された宮前千雅子氏の論文「前近代における癩者の存在形態について」は,前近代におけるハンセン病者の実態を概観しながら,近代のハンセン病隔離政策を支えた「差別意識」の歴史的背景を明らかにしている。特に,古代から近世までのハンセン病者がどのような存在として社会の中で位置づけられていたか,近世の身分制においては「穢多」「非人」身分との関わりはどのようなものであり,身分としてどのように社会的に位置づけられていたかを考察している。 光田健輔が「特殊部落調附癩村調」を実施した背景について,宮前氏は次のように述べている。
おそらく癩者を見つめる人々の眼差しは,…癩者と接点のあった「穢多」身分や「非人」身分に向けられたものと同質のものであったのではないだろうか。その眼差しが近代以降の部落差別につながっていったのと同様に,その眼差しがあったからこそ,そしてその眼差しが厳しかったからこそ,近代に入ってからのハンセン病者の徹底的な隔離政策も可能であったのではないか。 …「偏見と誤解」を生んだ背景に,近世における癩者と「穢多」身分,「非人」身分の接点があったとしたらどうであろうか。「穢多村」を調査すれば,かつてその支配下にあった「癩村」の実態がつかめる―そのような調査者側の認識が存在したのではないか。
支配者・支配構造・政治形態などは時代の変遷によって変わっていくだろうが,人々の認識や意識はなかなか変わるものではない。それが偏見や先入観であれば尚更だろう。差別意識が払拭されにくい理由の一つもそこにある。 光田がハンセン病患者を救済したい,ハンセン病を撲滅したいと決意・実行したことは称賛すべきことである。だが,その方法論に大きなまちがいがあった。その方法論の背景には彼のハンセン病に対する認識の中に差別意識がなかったとは言えないだろう。
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2010年08月08日

ハンセン病呼称問題

Googleのアラート「ハンセン病」に,Blog【ぶんやさんち】の「聖書におけるハンセン病についての表現」 という興味深い一文が紹介されていたので,転載させていただく。

筆者は,キリスト教に関係されている方のようで,聖書の訳語が「らい病」を「重い皮膚病」と改められたことについて簡潔にまとめておられ,私見も述べられている。

聖書から「らい病」という言葉を無くそうという要望が1996年4月に日本カトリック司教協議会から日本聖書協会に寄せられ、続いて同年5月に日本聖公会総会の決議により、同じく7月には日本基督教団宣教委員会等からも訳語の変更要望が提出されました。それらの要望に応えるという形で、1997年4月以後日本聖書協会から発行される聖書について、「らい病」という言葉は「重い皮膚病」に改められた。

「らい病」という表現が暗い歴史を背負っているということは事実である。その場合に、「らい病」という病気に対する間違った認識が、多くの人々に不条理な人生を強制してし、そのことによって「らい病」と呼ばれた人々も、あるいはその家族や、さらには全ての人々にも不快な思い出になっていることも事実である。その意味では「らい病」という言葉は不快語であり、その病気を正しい認識に基づいて新しい表現が要求された。「ハンセン病」というのが、その新しい表現である。

宗教とはあまり縁のない私なので,聖書の訳語が改められたことは知っていたが,その経緯について詳しくは知らない。この改称の経過をみると,ずいぶんと早い決断と対応であったことに驚く。その理由は2つある。

1つは,我が国においてもハンセン病との関わりが古く,そして深いキリスト教会にあって,なぜ「1996年」なのかという疑問からである。明治以降,ハンナ・リデル女史やイギリス人宣教師コンウォール・リーなど熱心なキリスト教宣教師や信者によって「救癩活動」がなされ,その流れの中で日本人のキリスト教関係者も,個人や組織として深く広く関わってきたと聞いている。ハンセン病患者の精神的な救済に大きく貢献したのは宗教である。それはまぎれもなく事実である。ハンセン病患者でキリスト教の信者となっている方は多い。そのような深い関わりがあれば,患者が「癩病」「らい病」の改称を願っていることは知っていただろう。にもかかわらず,何の行動も起こさなかったのだろうか。(寡聞にしてよく知らないので,勝手なことを言っているかもしれない)

もう1つは,要望から1ヶ月ほどで「決議」し,約1年間で改称されたという,その早さから論議は十分になされたのだろうかという疑問からである。キリスト教会の世界では議決権は誰にあるのか知らないが,最も重要な聖書の訳語を改めることはそれほど簡単なことなのだろうか。もちろん,改称すべきことに異議を唱えるものではない。

つまり,ハンセン病患者からの長きにわたる要望には耳を貸さず,「らい予防法」廃止の後に,あっさりと改称したという感を否めない。(キリスト教だけではないのだが)


聖書で使われているハンセン病を示す言葉は、旧約聖書では「ツァーラト」というヘブル語で、新約聖書では「レプラ」というギリシャ語である。これらの言葉が指し示している事柄は今日でいうハンセン病とは重なる部分もあるが、異なる要因も含んでいる。その意味ではこれらの言葉を単純に「ハンセン病」と翻訳する訳にも行かない。同時に、これらの言葉を「重い皮膚病」と翻訳してしまうことにも問題が残る。そもそも旧約聖書においても、新約聖書においてもこれらの言葉には差別的な意味合いが強い。それを「重い皮膚病」と翻訳してしまったら、人間が根源的にもっている差別構造が見えなくなってしまう。イエスに対して「あいつはサマリア人である」と批判し連中に対して、「イエスはサマリア人ではない」と反論したとしても、差別する人間の本質を告発したことにはならない。また、サマリア人という言葉を別の言葉に言い換えても同様である。ただ単なる言葉の言い換えでは、差別の構造を隠してしまうことになる場合もある。結論として、現在のところ「重い皮膚病」という翻訳でよしとしておき、解釈によってその不備を補うしかしょうがないであろう。

聖書の「レプラ(lepra)」(古代セム語で「ツァーラアト」)がハンセン病のみを指していたのではない。病理学成立以前に「らい」「レプラ」と呼ばれていたものが,すべてハンセン病だったと断定はできない。
現在では『旧約聖書』当時のイスラエルにハンセン病は存在しなかったと考えられている。
このような考えに立てば,ヨブなどが罹った病気は「重い皮膚病」と表現する方が適切かもしれない。

私は,筆者が問題とされる意味がよくわかる。私も同感である。
「言葉」「表現」だけの呼び換えや言い換えでは,その言葉の歴史的背景や人々の意識の中にある「差別構造」が隠されてしまうだろう。だからといって,「らい」の言葉を使い続けることには疑問があるし,何より患者の立場(思い)から反対である。

言葉の背景を的確にとらえて,その意味する本質を理解することが重要である。言葉や表現を言い換えても,その本質が隠されたり消えたりするのでは本末転倒である。だからこそ,我々はハンセン病問題も部落問題も学ぶ必要がある。差別の本質に迫る学習が必要なのである。

私は,厳密な学としての「言葉」や「表現」の重要性は認めるが,それ以上に「差別の解消」を第一の目的とする「言葉」「表現」を大切にしたいと思っている。

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2010年08月07日

ハンセン病呼称の変遷(2)

まだ十分に整理できていないので,詳しく「呼称の変遷」「改称の経緯」に関して述べることはできないが,いつの日にか「ハンセン病問題の歴史的背景」をまとめたいと考えている。その際に呼称と改称についても言及したいと思っている。


1995(平成7)年4月に開催された日本らい学会総会においてが「らい予防法」検討委員会より1年間の検討を経た結果報告が行われた。その報告書の前文に,次のような一文が書かれている。

…なお,「旧法」に関連する論述と医学用語には“らい”を用い,その他には“ハンセン病”を用いる。

この日本らい学会の反省表明を受けて,厚生省から委託を受けている「ハンセン病予防事業対策調査検討会(座長大谷藤郎)が「中間報告書」を作成し,厚生省に提出している。その「V 社会的見地から」に,呼称の問題が書かれている。

ハンセン病はかつて癩病あるいはらいと呼ばれ,現在も学名や法律用語としてはらいが使われている。ハンセン病の特色は,医学的なこともさることながら,「らいを病む人とその家族」に対して社会から加えられた仮借なき差別の存在である。
らいという言葉そのものが「怖いもの」「卑しむべきもの」「汚いもの」などと連想され,本人だけでなく家族,親族までが結婚,就学,就職,交際等社会生活のあらゆる分野において陰に陽に不当な差別を受けてみた。病気を秘密にしようとして数多くの悲劇がみられ,遂には自殺,一家心中にまで至った例もある。

ここ十数年来関係者の努力により,ハンセン病と通称されるようになってきて,若い世代にはハンセン病に対する偏見差別は少なくなったといわれている。しかし,それは必ずしも「真実を理解し差別を克服した」というものではないから,なにかのきっかけによって思いがけない問題は起こっている。らいについては,日本社会の深層において今なお根強い嫌悪感・差別意識が存在している。

このような人権侵害と思われる間違った偏見・固定観念・社会的烙印(スティグマ)を生じさせた原因は,病気そのものの悲惨な症状に対する蔑視的な感情に加えて,かつて遺伝病であり,血統病であるという昔ながらの誤った因習的な固定観念が拭いきれなかったこと,近代医学の名によって不治の伝染病というこれも過剰な恐怖感があおられたことなどがあげられる。いずれも医学的社会的に合理的ではない。
                   (中略)
ハンセン病差別撤廃の啓発普及の活動を行っていくことはもとより重要である。しかし,同時にTに述べた医学的見解を象徴する「らい予防法の廃止」と「らいの呼称をすべてハンセン病に変更する手続き」をとることこそが,らいの固定観念,社会的烙印(スティグマ)を払拭することに大きく寄与するものと考えられる。

この報告書の提言を受けて,厚生省内に「らい予防法見直し検討会」が設置され,1955(平成7)年12月に「報告書」が提出された。

4 社会的考察
(2)疾病の呼称の取扱

「らい(癩)」という病名には,古くからの偏見などがつきまとってきたことから,関係者の強い要望とその努力により,らい菌の発見者にちなんだ「ハンセン病」という呼び名が一般的になっているが,法律用語及び学術用語には,依然として「らい」の語が用いられている。国は,らい予防法の見直しに際し,法令における「らい」という言葉を「ハンセン病」に改めるべきである。また,学術用語についても,関係機関の積極的な対応が望まれる。

これらの提言を受けて,「らい予防法の廃止に関する法律」が国会で成立した。この法律において,「らい」が「ハンセン病」に変更された。

第八条 国立病院特別会計法(昭和二十四年法律第百九十号)の一部を次のように改正する。
 第一条第二項中「らい療養所」を「国立ハンセン病療養所」に改める。

第十三条  厚生省設置法(昭和二十四年法律第百五十一号)の一部を次のように改正する。
 第五条第三十九号中「らい」を「ハンセン病」に改める。


こうした呼称問題,病名変更の経緯を知らず,今もなお「らい」「癩病」を平然と使い続け,しかも偏見・差別の意で使用している人が多い。実際に「癩筋」「らいの家系」等々の話を耳にすることがある。ハンセン病について昔ながらの知識や巷説,流言の類に左右されている人が多いのも事実である。
啓発と教育の必要性を痛感する。


…日本語の世界で「ハンセン病」は戦後の呼び方にすぎない。これは言葉が自然に成長変化したのではなく,意識的な呼びかえが行われた結果だった。新聞,雑誌などでもはや「らい」の語は使われなくなったし,日本らい学会も日本ハンセン病学会に名称を変えている。「らい予防法」だけが,法律用語だということで例外的に「らい」の名を使いつづけていたが,予防法も改正され,歴史的な文章以外で「らい」の言葉は消えていくだろう。
こうした呼びかえが必要とされたこと自体,ハンセン病という病の特異性に起因している。

『「隔離」という病い−近代日本の医療空間』(武田徹)

「意識的な呼びかえ」がなぜ行われたのか,なぜ必要とされたのか,そして「癩病(患者)」「らい病(患者)」と呼ばれてきたハンセン病患者がなぜ改称を要望したのか,そこに「ハンセン病という病の特異性」がある。

ハンセン病は「癩者,レイパー」というように,「病」ではなく「人」に結びつけた名詞で呼ばれることが多い。このことも「特異性」を表している。

この「特異性」に理解を示すこともなく,自分の内面の問題に気づくこともなく,ハンセン病へと改称されたことを知りながらも,開き直ったかのように「らい」「癩病」の言葉を平気で使う人間がいることもまた「特異性」の証左だと思う。

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2010年07月29日

ハンセン病と被差別部落

『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』(日弁連法務研究財団)の「社会に流布したハンセン病観」に,ハンセン病と被差別部落を結びつけた俗説に関する記述がある。
なお,上記『最終報告書』は
「財団法人日弁連法務研究財団」HPもしくは厚生労働省のHPに掲載されているので,膨大な報告書ではあるが,是非とも読むべきと思っている。

1.民衆のハンセン病観

…被差別部落にハンセン病患者が多いというのは,事実ではない。しかし,そうした俗説が存在したことは事実である。ハンセン病を遺伝病とみなしたうえで,差別による婚姻忌避で被差別部落には「近親結婚」が多いため,ハンセン病も多発するという論理である。

実は,この論理は近代初期から存在する。福沢諭吉の門下生で,福沢が発行する『時事新報』の記者であった高橋義雄は,1884(明治17)年,『日本人種改良論』を著わすが,そのなかで「往日封建ノ世ニハ士農工商穢多非人各階級ヲタテテ容易ニ相婚スルヲ許サズ穢多非人ニ至リテハ之ト火ヲ一ニセズ況ンヤ結婚ノ沙汰ニ於テヲヤ……(中略)……今日ニテハ旧時ノ穢多非人モ既ニ平民ニ列シテ人間並ノ交際ヲ為スニ至リタレバ此輩ノ血統モ亦社会ニ広マル可キナリ」「下流ノ人民中ニハ癩病遺伝ノ家少ナカラズ」と述べている(『明治文化資料叢書』6巻,風間書房,1961年)。高橋義雄は,1871(明治4)年の「賤民廃止令」により,旧賤民と平民との通婚が可能になり,「癩病遺伝」などの「血統」が社会に広まることを憂いている。

さらに,1905(明治38)年,九州帝国大学講師で古代史学者の森貞三郎(三渓)は,『東京経済雑誌』1272号〜1274号に「穢多と戦敗者」を連載し,そのなかで「明治四年穢多非人の称を廃し,平民に列せられて,常人と雑居するに至れりと雖も,祖先以来不潔なる生活に甘ぜし彼等の習慣は,潔癖なる日本人種の擯斥する所となる,且や彼等が一村内近親婚姻をなせし結果として,又乞丐社会の不潔なる食物を食ふ結果として,穢多乞丐間には往々癩病の血統あり」と述べている。被差別部落には,劣悪な衛生環境と外部との通婚禁止による「近親結婚」とにより「往々癩病の血統」があるという趣旨である。

この他,社会学者の高木正義は,滋賀県下の被差別部落を調査した際,ハンセン病患者がいなかったことについて「奇なるかな」という感想を漏らした事実(「滋賀県南野貧民窟」2,『社会』1巻8号,1899年10月),徳島県が県下の勝浦郡のある被差別部落を調査した際,やはりハンセン病患者がいなかったことについて「専門家の研究を要する好資料ならんか」と評価している事実(徳島県内務部編『特殊部落改善資料』,1910年)など,被差別部落にはハンセン病患者が多いということを前提にしたうえでのものである。さらに,東京朝日新聞の記者大庭柯公も,「近親結婚」により被差別部落にハンセン病が多いと記している(「所謂特殊部落」,『大観』1巻6号,1918年10月)。

社会的には,ハンセン病を遺伝病とみなす認識が広く流布していたことは疑いえない。1937(昭和12)年に刊行された小松茂治『癩の社会的影響』(診療社出版部)にも,被差別部落にはハンセン病が多いが,その一因は「血族結婚」によると説明されている。このようなハンセン病を遺伝病とみなす認識は,被差別部落への婚姻忌避を正当化するものであったことは明らかである。

2.本多慧孝の認識

こうした,被差別部落にハンセン病患者が多いという偏見に満ちた俗説のなかで,無視し得ないのが,全生病院教誨師であった真宗大谷派僧侶本多慧孝の認識である。本多は,1912(大正1)年9月より全生病院の教誨師となり,1913(大正2)年3月から5月まで大谷派の命により,「全国の癩病療養所と私立癩病院と癩村とを視察して,西は鹿児島県より北は北海道に至る迄,大小隈なく巡歴せり。此際特に地方に就て癩病発生の病竃地を調査し」,その結論として「一に落武者の土著せし者及び遠来の帰化人の土著せし特殊部落にして自ら他と婚姻を避けて血族結婚をのみ為せるを以て同族間に伝染したれども,幸に穢多と称せられて社会より度外視せられしを以て,社会に伝染する事少なかりき」と述べている(本多慧孝「国家的解決を待つ癩病問題」,『国家医学会雑誌』330号,1914年7月)。本多の視察には全生病院長池内才次郎,同病院機関士中野辰蔵も同行している(本多慧孝「癩探」,『救済』3編5号,1913年5月)。本多の視察は単に真宗大谷派の命じるところだけではなく,全生病院の活動の一環でもあったと考えられる。そうであるならば,「癩病発生の病竃地」として被差別部落を特定する本多の認識は,光田健輔らハンセン病患者の絶対隔離を目指すひとびとにとり,無視し得ないものとなる。全国の被差別部落の所在地を把握しておこうと考えるのは自然であった。

1916(大正5)年5月12日,全生病院は,北海道庁と各府県に「特殊部落調附癩村調」を照会した。「特殊部落」とは,19世紀末に成立した被差別部落に対する差別的呼称である。なぜ,全生病院がこのような調査を照会したかと言えば,被差別部落にはハンセン病患者が多いという俗説があったからである。絶対隔離に向けて,俗説であろうとも,被差別部落の所在地を確認しておこうというのが,この調査照会の目的であったと考えられる。

また,ここにある「癩部落」とは,実際にハンセン病患者がいるかどうかではなく,「癩血統者」の村として婚姻忌避などの差別を歴史的に受けてきた集落である。

被差別部落が周辺からの差別によって婚姻を忌避され「近親結婚」を繰り返してきたためにハンセン病を多発したという俗説である。まったく根拠のない俗説であるが,一部の偏見と差別意識をもった学者や新聞記者がその俗説を作り上げて流布したとは考えられない。むしろ当時の民衆の中に,そのような俗説や論理の背景となるような被差別部落やハンセン病患者に対する意識があったと考えられる。
もちろん,学者や新聞記者がそのような俗説を「事実」として文章化して公言したことによって社会に広まり,人々がそれを信じたことで「事実」化したのである。当時の民衆の中にあった偏見や差別が学者・新聞記者によって助長され固定概念化されたのである。相乗作用が働いたのである。

このような歴史的背景,民衆の中に浸透していた偏見や差別がハンセン病患者に対する排除を,そして光田らによる絶対隔離政策を容易にさせたのである。長きにわたる絶対隔離政策に対して民衆が無関心・放置してきた理由もここにある。


明治初年にこのような俗説が流布された事実をどのように考えるべきか。

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ハンセン病呼称の変遷(1)

2005年1月,「南野法相,ハンセン病の差別的表現繰り返す」と題した記事が読売新聞に載った。
当時の南野知恵子法相が島根県平田市で開催された島根県議(自民)の新春の集いで,ハンセン病に言及し,「法務省でも『らい』の問題について啓発が必要なので予算をお願いしました」などと,旧病名の「らい」との差別的表現を3回繰り返したという。ハンセン病元患者団体などから「人権問題を扱う法相として認識不足だ」との批判を受けて,南野法相は「看護職にあった長い期間,ずっと使われてきた名称だったので使ってしまったが,差別や偏見の意識は全くない。今後はハンセン病という名称に統一したい」と釈明している。


伝染性が強いとの誤った考えからハンセン病患者を隔離してきた「らい予防法」は1996年に廃止され,「らい」という表現も法律上,消滅している。
しかし,今もなお「ハンセン病」ではなく「らい」という呼称を使用している人も多く,偏見・差別の意味で使われることも多い。「らい筋」「らいの家系」という言葉を聞くこともある。
さらに,インターネット上においては,「らい」どころか「癩」「癩病」「癩病を煩った人々」「癩病患者」という明らかに「差別呼称」を平気で使用している文章を見かけることもある。何らかの「意図的理由」によって使い続けているのか,それとも「呼称変遷の意味」を知らないのか,その本意はわからないが,人権問題やハンセン病問題に関わるのであれば,使用する表現については責任をもって使い分けるべきである。
知らなかったではすまされない問題であり,知った以上は「訂正」すべきである。たとえ,知る以前に書いた文章であっても,私は「訂正」すべきであり,少なくとも「注解」を付加すべきである。

「らい」「癩病」という病名に心を痛めてきたハンセン病回復者たちが「病名の改称」にどれだけの思いをもち,闘争を続けてきたかに思いを馳せるならば,安易に使うことなどできないだろう。そして,「らい予防法」廃止に伴って,長く彼らの要求を公然と無視してきた国や厚生省(現在の厚生労働省)がようやく改称したことも考えれば,これらの表現の使用に際にして注意を払うことは当然のことと思う。
実際,図書館など公的機関が「らい」の標記を残していたことを指摘されて改称している。また,そうした改称問題に取り組んできた多くの人々がいる。

歴史的用語・学術的用語として使用する場合においても厳密な配慮を必要とする。私は史料等の考察の場合において,その当時に使用されていた表現として使い分けることにしている。現在との関係で論述する場合は,ハンセン病という病名を使用している。


ハンセン病の「病名の変遷」については,大槻雅俊(リベル)氏のHP『ハンセン病のリンク集』「日本での病名の変遷」に詳しく説明されている。
大槻氏はHPのトップページ「お願い」で,ハンセン病の呼称について次のように述べている。

このサイトではサイトの性格上,「癩」,「らい病」などの表現が出てきますが,いずれも現在は使われていない言葉です。「ハンセン病」が正しい言葉ですので,ご注意くださるようお願いします。

手元にある『らい予防法廃止の歴史』(大谷藤郎)「凡例」にも,「すべてハンセン病とするべきかも知れないが,本書の歴史的性格にかんがみ,癩,らい,ハンセン氏病,ハンセン病などその時代に応じて使いわけしたことをお許し願いたい」と書かれている。

あらためて,大槻氏のHPにある解説から「病名の変遷」をまとめておきたい。

1953年
「全国国立癩療養所患者協議会」は「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会」と改称,また略称「全癩患協」を「全患協」に改称した。しかし,厚生省は「癩」から「らい」とひらがなに修正しただけである。以後,患者側は「ハンゼン氏病」と呼び,厚生省は「らい」と呼ぶ状態が続く。

1959年
全患協は原語(ドイツ語)の発音に合わせて「ハンゼン氏病」を「ハンセン氏病」に改称した。協議会も「全国国立ハンセン氏病療養所患者協議会」と改称した。

1983年
全患協はドイツ語読みからより一般的な英語読みにするため「ハンセン氏病」を「ハンセン病」という一般的な病名に改めたが,厚生省や日本らい学会は「らい」という病名を使い続けた。協議会も「全国ハンセン病患者協議会」と改称した。

1996年
「らい予防法の廃止に関する法律」ができたため厚生省や日本らい学会も「らい」を「ハンセン病」に改めた。「日本らい学会」も「日本ハンセン病学会」と改称した。

何よりも重要なことは,ハンセン病への改称は「患者側(当事者)」からの強い要求であったという事実である。ハンセン病患者自らが「癩」「らい」と呼ばれることを拒否したこと,改称を求め続けてきた歴史的背景を重く受けとめ,「癩」「らい」という表現が使われていたそれぞれの時代背景とそれぞれの呼称に込められた偏見・差別,そして「癩」から「らい」,「ハンセン病」へと改称された歴史的経緯について真摯に考えるべきである。
そして,なによりも「ハンセン病」という病名に改称された意味を考え,「癩病」ではなく「ハンセン病」を使用すべきである。

病名として改称されたのである。現在では「癩病」という病名は存在しないのである。

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「らい予防法」の背景

○第1回国際らい会議

1872(明治5)年,ロシア皇太子の来日を前に,東京浅草において物乞いをしていたハンセン病患者が,本郷加賀屋敷の長屋に強制収容された。これは,近代日本が欧米諸国に列するために,首都東京でハンセン病患者が物乞いする状態を見せたくないという政府の方針に沿ったものであった。

近代以前,為政者は患者が神社仏閣の門前で物乞いをしていても何ら関心を示さなかった。ハンセン病は業病であると考えられており,一般国民からの嫌悪感はあっても,恐怖心は少なかった。

1897(明治30)年,ドイツのベルリンで第1回国際らい会議が開かれた。ハンセンによるらい菌の発見を受け,世界のハンセン病の現状を把握し,その対策を確立することが,会議の目的であった。

この会議では,ノルウェー方式として次の政策が報告された。

一般法の枠組みで予防活動を行い,病状の悪化している者を居住地の病院に隔離し治療にあたらせていること。その場合も,放浪している患者に対する強制隔離と,他の者に対する任意隔離の二本立てを採用していること。病院等での看護は家族が行い,患者の病状が改善したら家に帰していること。

これを踏まえて,次のことが決議された。

ハンセン病はらい菌による伝染病であること。伝染病の程度は顕著ではなく,各型によって異なっていること。隔離はハンセン病が地方疾患的,あるいは流行病的に存在する地方では望ましいこと。隔離については,絶対隔離方式のハワイ方式ではなく,相対的隔離方式のノルウェー方式が有効であること。

この国際らい会議の決議を受けて,医学者を中心に,ノルウェー方式による隔離政策の有効性が強調されるようになっ

○「癩予防ニ関スル件」(法律第十一号)1907年(明治40年)

1905(明治38)年に日露戦争が終結すると,光田健輔,ハンナ・リデル,一部の代議士らは,渋沢栄一,大隈重信の支援を得て,ハンセン病予防の方策確立とハンセン病療養所に対する経済的援助を求めて,世論を喚起するための宣伝活動を行った。
この集会において,渋沢は「これまではただ遺伝病だと思っていたらいが,実は恐るべき伝染病であって,これをこのままに放任すれば,この悪疾の勢いが盛んになって,国民に及ぼす害毒は計り知れないものがある」と発言した。
光田健輔も,ハンセン病が恐るべき伝染病であること,日本は世界第一の「らい国」であることなどを述べて,渋沢の発言を医学面から裏付けようとした。

国際らい会議で決議された「相対的隔離」が「絶対隔離」にすり替えられたのである。決議では伝染性の程度が顕著ではなく各型によって異なっているとされたにもかかわらず,ハンセン病は恐るべき伝染病であるとされた。

政府は,どうして渋沢・光田らの国際的な見解に反する独自の見解を採用したのか。

内務省内に設置された中央衛生会においてハンセン病予防法案が検討され,そして「癩予防ニ関スル件」が審議された衆議院本会議において,内務次官吉原原三郎はこの点を次のように説明している。

ハンセン病は伝染病であるが,その経過ははなはだ緩慢である。したがって,ハンセン病患者を取り締まり,隔離するのは医療・治療的観点からではない。日露戦争に勝利し,日本は一等国になったので,外見上よほど厭うべきハンセン病患者が神社等で浮浪していたり,路上で物乞いをしたりすることは国の恥であり,これらの取り締まりが必要である。

同じく,衛生局長窪田静太郎も貴族院の癩予防ニ関スル法律案特別委員会で「本案ニ於キマシテハ主トシテ浮浪徘徊シテ居ル者デ病毒ヲ散漫シ,風俗上ニモ甚ダ宜シカラヌト云フモノヲ救護イタシテ此目的ヲ達スルト云フコトヲ第一ニ致シテ居リマス」と,隔離に対する風俗取締上の理由を述べている。

この明治政府の考えの背景には,日英通商航海条約が発効し,欧米人の内地雑居が開始されていたことが深く関係している。すなわち,内地雑居により,日本国内を自由に居住し,旅行できるようになった。これにより,神社仏閣で物乞いをする浮浪らいの姿を欧米人に見られることは「国家の屈辱」と考えられるようになったのである。

日清戦争(1894〜95年;明治27〜28年)・日露戦争(1904〜05年;明治37〜38年)の勝利に意気上がる日本において,明治政府は欧米と肩を並べる文明国・近代国家と認められることが条約改正の成功のためにも至上目的であった。

当時の欧米では「らい」は「過去の病気」になっていた。先の目的を達成するため文明国へと国家体制を整えようとする明治政府にとって,欧米諸国に比べ神社や寺の門前で物乞いをするハンセン病患者の姿は「国辱」と映るようになった。「浮浪らい」の存在は,欧米諸国への体面上の大きな問題となったのである。

posted by 藤田孝志 at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史背景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

湯峰温泉とハンセン病

和歌山人権研究所に書籍を注文したところ,書籍とともに「和歌山の部落史編纂会だより(2号)」を送っていただいた。その中に,「近代の湯峰温泉とハンセン病」(矢野治世美)があった。昭和初期までのハンセン病患者の実態がわかるので,紹介しておきたい。


田辺市本宮町にある「湯峰温泉」は,小栗判官の伝承でも知られるように,古くから「癩」の治療に効果があるとされ,江戸時代には「非人湯」が設置されていた。

小栗判官の伝承
毒酒を飲まされて死んだ小栗判官が,病み崩れた癩の身となってこの世に戻され,餓鬼阿弥といわれながらも妻照手姫の引く土車に乗せられ,熊野湯の峰に浴したところ,神々の功徳のおかげで,元の偉丈夫に戻ったという奇跡譚である。

非人湯
江戸時代,温泉地に設置されていた病人救済のための無料入浴施設

湯峰温泉には,他の宿屋から少し離れた場所に,ハンセン病患者が滞在した宿屋があり,患者は一日拾銭の入浴料を払い,「疾病者共同入浴場」を利用していた。

明治40年(1907)に,ハンセン病の「浮浪患者」の強制隔離を認めた「癩予防ニ関スル件」が成立し,明治42年には全国五カ所に公立の療養所が設立され,「浮浪患者」の強制収容が本格的に実施されるようになる。
昭和3年(1928),四村村の元村長の玉置喜代作が,湯峰温泉に「癩患者収容所」の建設を計画する。施設の運営費は,寄附と政府の補助金でまかない,患者の世話は玉置自身が行うという計画であった。一時期は十数名のハンセン病患者が生活していたようである。
昭和4年,「四村温泉浴場及び温泉使用条例施行細則」が村会で可決された。この施行細則には「他ノ入浴者ニ不快ノ感情ヲ起サシムル恐レアリト認ムル容貌モシクハ形体ノ者」は「浴場ノ使用ヲ拒絶ス」という規定があり,ハンセン病患者もそれに該当した。

昭和5年3月,ハンセン病患者が利用していた「下湯温泉」への給湯廃止に関する議案が村会に提出される。その五ヶ月後,給湯が停止された。

その理由は,村の財政難を解決するため,湯峰温泉は村の収入源として期待されていたが,治療効果を求めて各地から集まったハンセン病患者の姿を見るなり,温泉客が帰ってしまうことが少なくなかったためのようである。また,患者の多くが貧窮のため,村に納付する温泉使用料も滞っていたのも原因であった。
患者からの数回にわたっての嘆願により,村会で再協議した結果,温泉使用料の滞納金の半分を納付することと,温泉使用料を半額にすることで解決した。

しかし,全国で「無癩県運動」が始まり,ハンセン病患者の地域社会からの排除が加速する中,昭和6年に「癩予防法」が公布され,強制隔離政策が実施されるようになると,昭和10年頃には湯峰温泉の宿屋も取り払われた。

posted by 藤田孝志 at 12:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史背景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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