2013年02月11日

三園長証言−光田健輔の証言その1−

国会図書館に所蔵されている国会議事録より,いわゆる「三園長証言」を見ることができる。

「癩予防法」改正問題が浮上した昭和26(1951)年11月8日の参議院厚生委員会において,林芳信(全生園園長),光田健輔(愛生園園長),宮崎松次(恵楓園園長),小林六道(国立予防研究所所長),久野寧(名古屋大学教授)の5人のハンセン病の学者・専門家が諮問され,特に国立療養所の三園長は,この病気が極めて弱い発症力しか持たないことやプロミンの登場によりハンセン病が治る時代となっていたにもかかわらず,隔離の強化と患者への懲戒規定の強化を主張して法改正を強く求めた。これが「三園長証言」である。

今,あらためて「三園長証言」を読み返してみると,この証言が歴史的に重要な分岐点であったかがわかる。是非とも一読してもらいたいと思い,ここに全文をPDFで掲載しておく。

第12回国会 参議院厚生委員会「癩小委員会」(三園長証言)

次に,三園長それぞれの証言に関して検討してみたい。
まずは,光田健輔の証言に関して考察していくことにする。

…全国では癩のまだ残つておる県と,もうよほど百以下になつておる県があります。この県は私どもは前から注目いたしましておるのに,いつでもほかの県よりは余計にある。今日で申しますというと,青森,愛知,大阪,それから九州の諸県でありますが,熊本,鹿児島というこのけんは,いつでもそれ以上或いは百に近いところの数字があるのであります。これは昔から遺伝と言われておるように,一つの村に余計にあるとか,或いはその一つの家族に限つて頻々と出るというようなことで,即ち癩は家族伝染でありますから,そういうような家族に対し,又その地方に対してもう少しこれを強制的に入れるような方法を講じなければ,いつまでたつても同じことであると思います。これは五十年間において,先ほど申しましたところの県はいつでも余計に残つておる。その根拠をつくということが,癩の分布をよく一つ研究いたしまして,そうしてそういうような村とか或いは家族とかいうようなものに目をつけて収容をして行かれるということが必要であるということを痛感しております。そして今日残つておる,まあ二千人残つておると,厚生省の統計によりますと二千人くらい残つておるということを言うておられますが,これは先ほど林君が言うたように,まだよく詮索するというと余計にあるかもわかりません。その残つておる患者を早く収容しなければならんのでありますけれども,大概これが多年努力されて入院を親切に指し示して,何回も何回も県庁のかたとか或いは療養所の職員が勧めるのでありまするけれども,これに応じない者が非常にたくさんでございます。そういうような者に強制的にこの癩患者を収容するということが,今のところでは甚だそういうところまで至つていないのであります。知事が伝染の危険ありと認めるところの者は療養所に収容するということになつておりますけれども,次第次第に……元は警察権力の下にあつたのでありますけれども,今日は一つも経費がないと言つたらおかしいですけれども,主に保健所の職員に任せてあるようなのであります。これは以前よりは非常にこのために収容もむずかしいようになつております。この点について,特に法律の改正というようなことも必要がありましよう。強権を発動させるということでなければ,何年たつても同じことを繰返すようなことになつて家族内伝染は決してやまないと,これが第一番と第二番に御諮問になつたことに対する私の意見でございます。

(下線は引用者による)

光田の証言は,彼の一貫した信念である「絶対隔離」を実現するためには「強制収容」の強化が必要であるという主張に終始している。その根拠をあれこれと述べているが,それらは自己正当化のための虚偽・捏造・事実の歪曲である。(光田自身は本当にその思い込んでいたのかもしれないが…,そうであったのならば,尚更に光田の罪過は大きい。)

posted by 藤田孝志 at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月05日

『ハンセン病図書館 旧蔵書目録』

先日,ネットオークションに『ハンセン病図書館 旧蔵書目録』(国立ハンセン病資料館 2010年3月)が出品されていることを偶然に知り,あひる企画に頼んで落札してもらった。

正直,このような目録が(販売しているかどうかは知らないが)手に入るとは思ってもみなかった。


『ヒイラギの檻』(瓜谷修治)を読んで,山下道輔氏のことを知り,彼が心血を注いで収集したハンセン病関連の書籍や資料を是非とも手に取って見てみたいと思うようになった。

数年前に訪ねようと思ったときは資料館は改装中であり,断念せざるをえなかった。そして一昨年,念願叶い訪問することができ,その後に修学旅行の引率で再び訪ねることができた。

山下氏の長年の労苦により集められた貴重な資料を前に,ただ感謝の思いだけだった。山下氏がいなければ,ハンセン病問題の真実は闇の中に消え去っていただろう。本書の中で,藤野豊氏も山下氏への感謝とともに,この膨大な資料が果たした役割の大きさを語っている。

私が初めて長島愛生園に渡ったとき,宇佐美治さんがたった一人で収集した資料を展示されていた恩賜記念館を訪ね,その貴重な資料や品々に目にしたときも,目の不自由な宇佐美さんの労苦を思い,その手を握ったことを覚えている。あれから長島を訪ねるたびに記念館を訪れて,未整理の資料を手に取りながら,長島の歴史や隔離の実情を学んできた。

ハンセン病の当事者による資料保存には,類似の事例として,長島愛生園入所者の宇佐美治氏により維持され,2003年に長島愛生園歴史館として生まれ変わった旧「恩賜記念館」があるが,こちらはモノ資料もかなり多く含めて集められた貴重な資料群である。山下氏や宇佐美氏の,同時代を当事者として生き抜きながら同時にハンセン病に関するあらゆる資料を歴史的史料として後生に残さねばならないと考えた執念と先見性は,現在と未来のわたしたちに豊かな財産をもたらした。それゆえ,こうして残された資料群は,調査研究の一次資料活用されうるものであると同時に,ハンセン病の歴史を体験/体現してきた当事者の営為が生み出した記録として尊重されねばならない。

(廣川和花「旧ハンセン病図書館蔵書の資料的意義」)

現在,長島愛生園歴史館は,学芸員の田村朋久さんが現地研修の案内を一手に引き受ける激務の合間に,宇佐美さんより託された資料や愛生園に散在している資料などを丹念に整理され,聞き取り証言の映像資料など貴重な資料を展示・公開されている。

昨年暮れに訪ねたときも,事務室には段ボールに数箱の原資料があり,まだまだ整理しなければならない資料が山積みであると語っていた。彼の労苦に感謝しつつも,彼が果たす歴史的役割に期待する。
個人情報への配慮などから公表できない資料もある。今後,プロジェクトチームを作って整理・解析・考察が進展することを願う。


550ページを超える本書は,山下氏が収集した約4000点の資料を含む国立ハンセン病資料館に所蔵されている約5000点の資料を収録した目録である。
すべてに目を通していないが,タイトルや出版年からも興味深い資料がいくつも目を引く。

藤野氏は,山下氏より見せられた『特殊部落調 附癩村調』により,「ハンセン病隔離政策に関わる根本的な疑問をすべて解決に導いてくれた」と言う。資料のもつ力である。
(これについては,
拙文および藤野氏の論考を参照)

そして何よりも大切なことは,その貴重な資料をどのように分析・考察するかである。時代背景や社会背景を考慮しながら,資料そのものが語りかける声に耳を澄ませて,その真実を明らかにしていくことである。

差別問題や人権問題を解明していく目的は,二度と同様のことが起こらないようにするためである。同じことが繰り返されないために「学ぶ」のである。学ぶことで,自らの認識と意識を変革していくのである。

posted by 藤田孝志 at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月26日

ハンセン病関連の法律

ハンセン病関連の法律を掲載しておく。同じものをPDFファイルにしておくので,資料として活用していただければ幸いです。


「癩予防ニ関スル件」(明治四十年三月十八日法律第十一号)

 第一条
医師癩患者ヲ診断シタルトキハ患者及家人ニ消毒其ノ他予防方法ヲ指示シ且三日以内ニ行政官庁ニ届出ツヘシ其転帰ノ場合及死体ヲ検案シタルトキ亦同シ

 第二条
癩患者アル家又ハ癩病毒ニ汚染シタル家ニ於テハ医師又ハ当該吏員ノ指示ニ従ヒ消毒其ノ他予防ヲ行フヘシ

 第三条
癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官庁ニ於テ命令ノ定ムル所ニ従ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ但シ適当卜認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムヘシ
必要ノ場合ニ於テハ行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ前項患者ノ同伴者又ハ同居者二対シテ一時相当ノ救護ヲ為スヘシ
前二項ノ場合ニ於テ行政官庁ハ必要卜認ムルトキハ市町村長(市制町村制ヲ施行セサル地ニ在リテハ市町村長ニ準スヘキ者)ヲシテ癩患者及其ノ同伴者又ハ同居者ヲ一時救護スルコトヲ得

 第四条
主務大臣ハ二以上ノ道府県ヲ指定シ共ノ道府県内ニ於ケル前条ノ患者ヲ収容スル為必要ナル療養所ノ設置ヲ命スルコトヲ得
前項療養所ノ設置及管理二関シ必要ナル事項ハ主務大臣之ヲ定ム
主務大臣ハ私立ノ療養所ヲ以テ第一項ノ療養所ニ代用セシムルコトヲ得

 第五条
救護ニ要スル費用ハ被救護者ノ典拠トシ被救護者ヨリ弁償ヲ得サルトキハ其ノ扶養義務者ノ負担トス
第三条ノ場合ニ於テ之力為要スル費用ノ支弁方法及其ノ追徴方法ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

 第六条
扶養義務者ニ対スル患者引取ノ命令及費用弁償ノ請求ハ扶養義務者中ノ何人ニ対シテモ之ヲ為スコトヲ得但シ費用ノ弁償ヲ為シタル者ハ民法第九百五十五条及第九百五十六条二依り扶養ノ義務ヲ履行スヘキ者ニ対シ求償ヲ為スコトヲ妨ケス

 第七条
左ノ請費ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス但シ沖縄県及東京府下伊豆七島小笠原島ニ於テハ国庫ノ負担トス
 一 被救護者又ハ共ノ扶養義務者ヨリ弁償ヲ得サル救護者
 二 検診ニ関スル諸費
 三 其他道府県二於テ癩予防上施設スル事項ニ関スル諸費
第四条第一項ノ場合ニ於テ其ノ費用ノ分担方法ハ関係地方長官ノ協議二依り之ヲ定ム
若シ協議調ハサルトキハ主務大臣ノ定ムル所二依ル
第四条第三項ノ場合ニ於テ関係道府県ハ私立ノ療養所ニ対シ必要ナル補助ヲ為スヘシ
此ノ場合ニ於テ共ノ費用ノ分担方法ハ前碩ノ例二依ル

 第八条
国庫ハ前条道府県ノ支出ニ対シ勅令ノ定ムル処ニ従ヒ六分ノ一乃至二分ノ一ヲ補助スルモノトスル

 第九条
行政官庁二於テ必要卜認ムルトキハ其ノ指定シタル医師ヲシテ癩又ハ其ノ疑ヒアル患者ノ検診ヲ行ハシムルコトヲ得
癩卜診断セラレタル者又ハ其ノ扶養義務者ハ行政官庁ノ指定シタル医師ノ検診ヲ求ムルコトヲ得
行政官庁ノ指定シタル医師ノ検診ニ不服アル患者又ハ其ノ扶養義務者ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ更ニ検診ヲ求ムルコトヲ得

 第十条
医師第一条ノ届出ヲ為サス又ハ虚偽ノ届出ヲ為シタル者ハ五拾円以下ノ罰金ニ処ス

 第十一条
第二条ニ違反シタル者ハ弐拾円以下ノ罰金ニ処ス

 第十二条
行旅死亡人ノ取扱ヲ受クル者ヲ除クノ外行政官庁二於テ救護中死亡シタル癩患者ノ死体又ハ邉留物件ノ取扱ニ関スル規定ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム


癩予防法(昭和六年四月二日法律第五八号) 昭和六年改正

 第二条ノ二
行政官庁ハ癩予防法上必要ト認ムルトキハ左ノ事項ヲ行フコトヲ得
一 癩患者ニ対シ業務上病毒伝播ノ虞アル職業ニ従事スルヲ禁止スルコト
二 古着,古蒲団,古本,紙屑,襤褸,飲食物其ノ他ノ物件ニシテ病毒ニ汚染シ又ハ其ノ疑アルモノノ売買若ハ授受ヲ制限シ若ハ禁止シ,其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為サシメ又ハ其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為スコト

 第三条
行政官庁ハ癩予防法上必要ト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノヲ国立癩療養所又ハ第四条ノ規定ニ依リ設置スル療養所ニ入所セシムベシ必要ノ場合ニ於テハ行政官庁ハ命令ノ定ムル所に従ヒ前項患者ノ同伴者又ハ同居者ニ対シテモ一時相当ノ救護ヲ為スベシ
第二項ノ場合ニ於テ行政官庁ハ必要ト認ムルトキハ市町村長又ハ之ニ準ズベキ者ヲシテ癩患者及其ノ同伴者又ハ同居者ヲ一時救護セシムルコトヲ得
前項ノ規定ニ依リ市町村長又ハ之ニ準ズベキ者ニ於テ一時救護ヲ為ス場合ニ要スル費用ハ必要アルトキハ市町村又ハ之ニ準ズベキモノニ於テ繰替支弁スベシ

 第四条第三項ヲ削ル

 第四条ノ二中
「被救護者」ヲ「入所患者」ニ改ム

 第五条
私立ノ癩療養所ノ設置及管理ニ関シ必要ナル事項ハ主務大臣之ヲ定ム

 第六条
北海道又ハ府県ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ第二条ノ二第一号ノ規定ニ依リ従業禁止又ハ
第三条第一項ノ規定ニ依ル入所ニ因り生活スルコト能ハザル者ニ対シ其ノ生活費ヲ補給スベシ

 第七条
第一項ヲ左ノ如ク改メ同条第二項ヲ削ル
左ノ諸費ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス
一 第二条ノ二第二号ノ規定ニ依リ行政官庁ニ於テ物件ノ消毒又ハ廃棄ヲ為ス場合ニ要スル諸費
二 入所患者(国立癩療養所入所患者ヲ除ク)及一時救護ニ関スル諸費
三 検診ニ関スル諸費
四 其ノ他道府県ニ於テ癩予防上施設スル事項ニ関スル諸費

 第七条ノ二
 本法ニ依リ北海道地方費又ハ府県ニ於テ負担スベキ費用ハ東京府伊豆七島及小笠原島ニ於テハ国庫ノ負担トスル

 第八条中
「前条」ヲ「第六条及第七条ノ規定ニ依ル」ニ改ム

 第九条中
「扶養義務者」ヲ「親族」ニ改ム

 第一〇条
第一条ノ規定ニ違反シ又ハ第二条ノ二ノ規定ニ依ル行政官庁ノ処分ニ違反シタル者ハ100円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス

 第一〇条ノ二
第二条ノ規定ニ違反シタル者ハ科料ニ処ス

 第一一条
医師若ハ医師タリシ者又ハ癩予防事務ニ関係アル公務員若ハ公務員タリシ者故ナク業務上取扱ヒタル癩患者又ハ其ノ死者ニ関シ氏名,住所,本籍,血統関係又ハ病名其ノ他癩タルコトヲ推知シ得ベキ事項ヲ漏泄シタルトキハ六月以下ノ懲役又ハ100円以下ノ罰金ニ処ス

 第一二条中
「行政官庁ニ於テ救護中」ヲ「療養所ニ入所中又ハ第三条第二項及第三項ノ規定ニ依ル一時救護中」ニ改ム

   付  則

本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム(昭和六年勅令第一八〇号により昭和六年八月一日から施行)


国立癩療養所患者懲戒検束規定(昭和6年1月30日認可)

第一条 国立癩療養所ノ入所患者ニ対スル懲戒又ハ検束ハ左ノ各号ニ依ル

一 譴責 叱責ヲ加ヘ誠意改悛ヲ誓ハシム
二 謹慎 三十日以内指定ノ室ニ静居セシメ一般患者トノ交通ヲ禁ズ
三 減食 七日以内主食及副食物ニ付常食量ニ分ノー迄ヲ減給ス
四 監禁 三十日以内監禁室ニ拘置ス
五 謹慎及減食 第二号及第三号ヲ併科ス
六 監禁及減食 第四号及第三号ヲ併科ス
監禁ハ前項第四号ノ規定ニ拘ラズ特ニ必要卜認ムルトキハ其ノ期間ヲ二箇月迄延長スルコトヲ得

第二条 入所患者左ノ各号ノ一ニ該当スル行為ヲ為シタルトキハ譴責又ハ謹慎二処ス

一 所内ニ植栽セル草木ヲ傷害シタルトキ
二 家屋其ノ他建物又ハ備品ヲ毀損シ若ハ汚涜シタルトキ
三 貸与ノ衣類共ノ他ノ物品ヲ毀損若ハ隠匿シ又ハ所外へ搬出シタルトキ
四 人ヲ誑惑セシムベキ流言浮説又ハ虚報ヲ為シタルトキ
五 喧嘩口論ヲ為シタルトキ
六 其ノ他所内ノ静謐ヲ紊シタルトキ

第三条 入所患者左ノ各号ノ一ヲ為シタルトキハ謹慎若ハ減食ニ処シ又ハ之ヲ併科ス

一 濫リニ所外ニ出デ又ハ所定ノ地域ニ立入リタルトキ
二 風紀ヲ紊シ又ハ猥褻ノ行為ヲ為シ若ハ媒合シテ之ヲ為サシメタルトキ
三 職員ノ指揮命令ニ服従セザルトキ
四 金銭又ハ物品ヲ以テ博戯又ハ賭事ヲ為シタルトキ
五 懲戒又ハ検束ノ執行ヲ妨害シタルトキ

第四条 入所患者左ノ各号ノ一ニ該当スル行為ヲ為シタルトキハ減食若ハ監禁ニ処シ又ハ之ヲ併料ス

一 逃走シ又ハ逃走セムトシタルトキ
二 職員其ノ他ノ者ニ対シ暴行若ハ脅迫ヲ加へ又ハ加ヘムトシタルトキ
三 其ノ他所内ノ安寧秩序ヲ害シ又ハ害セムトシタルトキ

第五条 一個ノ行為ニシテ前三条中二以上ノ規定ニ該当スルトキハ情状ニ依り共ノ何レカ一ノ規定ニ依ル処分ヲ為スコトヲ得

第六条 懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者其ノ執行ヲ終リ又ハ執行ノ免除アリタル後再ビ第二条又ハ第三条ノ規定ニ該当スル行為ヲ為シタルトキハ第二条又ハ第三条ノ規定ニ拘ラズ第四条ノ規定ニ依ル処分ヲ為スコトヲ得

第七条 二人以上共同シテ第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ該当スル行為ヲ為シタル者ハ共ノ行為ニ付同一ノ責ニ任ズ
人ヲ教唆シテ第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ該当スル行為ヲ為サシメタル者ハ実行者ニ準ズ教唆者ヲ教唆シタル者亦同ジ第二条第三条又ハ第四条ノ規定二該当スル行為ノ実行者ノ行為ヲ幇助シタル者及之ニ対シ教唆ヲ為シタル者ハ実行者ニ準ズ但シ其ノ処分ハ之ヲ減軽ス

第八条 第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ拘ラズ行為ノ情状憫諒スベキモノハ酌量シテ懲戒又ハ検束ヲ減軽又ハ免除スルコトヲ得

第九条 懲戒又ハ検束ハ宣告ノ上執行ス

第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ該当スル行為ヲ為シタル者逃走シタルトキハ其ノ懲破又ハ検束ハ欠席ノ儘宣告シ其ノ執行ハ収容後之ヲ行フ
但シ他ノ療養所ニ収容セラレタルトキハ之ヲ当該療養所ノ長ニ委託スルコトヲ得
前項ノ場合ニ於テ宣告ヨリ一年ヲ経タルトキハ其ノ執行ヲ免除ス懲戒又ハ検束ノ執行中逃走シタル者ニ対シテハ前二項ノ規定ヲ準用ス

第十条 懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者改俊ノ情著シキトキハ其ノ懲戒又ハ検束ノ執行ヲ免除スルコトヲ得

第十一条 左ノ各号ノ一ニ該当スル場合ハ懲戒又ハ検束ノ執行ヲ免除又ハ停止スルコトヲ得

一 大祭祝日,一月一日,一月二日,十二月三十一日又療養所ノ祝祭日並懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者ノ父母ノ祭日
二 懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者共ノ父母ノ訃ニ接シタルトキ
三 懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者療養上必要アリト認メタルトキ
前項第二号ノ場合ニ於テハ其ノ停止期間ハ之ヲ三日マデ延長スルコトヲ得


らい予防法法律第214号(昭和28年8月15日施行)

第一章 総則

  (この法律の目的)

第一条 この法律は,らいを予防するとともに,らい患者の医療を行い,あわせてその福祉を図り,もって公共の福祉増進を図ることを目的とする。

  (国及び地方公共流体の義務)

第二条 国及び地方公共団体は,つねに,らいの予防及びらい患者(以下「患者」という)の医療につとめ,患者の福祉を図るとともに,らいに関する正しい知識の普及を図らなければならない。

  (差別的取扱の禁止)

第三条 何人も,患者又は患者と親族関係にある者に対して,そのゆえをもって不当な差別的取扱をしてはならない。

第二章 予防

  (医師の届出等)

第四条 医師は,診断の結果受診者が患者(患者の疑いのある者を含む。この条において以下同じ)であると判断し,又は死亡の診断若しくは死体の検案をした場合において死亡者が患者であったことを知ったときは厚生省令の定めるところにより,患者,その保護者(親権を行う者又は後見人をいう。以下同し)若しくは患者と同居している者又は死体のある場所若しくはあった場所を管理する者若しくはその代理をする者に,消毒その他の予防法を指示し,且つ,七日以内に,厚生省令で定める事項を,患者の居住地(居住地がないか,又は明らかでないときは,現在地。以下同じ)又は死体のある場所の都道府県知事に届け出なければならない。
A 医師は,患者が治癒し,又は死亡したときは,すみやかに,その旨をその者の居住地の都道府県知事に届け出なければならない。

  (指定医の診察)

第五条 都道府県知事は,必要があると認めるときは,その指定する医師をして,患者又は患者と疑うに足りる相当な理由があるものを診察させることができる。
A 前項の医師の指定は,らいの診療に関し,三年以上の経験を有する者のうちから,その同意を得て行うものとする。
B 第一項の医師は,同項の職務の執行に関しては,法令により公務に従事する職員とみなす。

  (国立療養所への入所)

第六条 都道府県知事は,らいを伝染させるおそれがある患者について,らい予防上必要があると認めるときは,当該患者又はその保護者に対し,国が設置するらい療養所(以下「国立療養所」という)に入所し,又は入所させるように勧奨することができる。
A 都道府県知事は,前項の勧奨を受けたものがその勧奨に応じないときは,患者又はその保護者に村し期限を定めて,国立寮養所に入所し,又は入所きせることを命ずることができる。
B 都道府県知事は,前項の命令を受けた者がその命令に従わないとき,又は公衆衛生上らい療養所に入所きせることが必要であると認める患者について,第二項の手続をとるいとまかないときは,その患者を国立療養所に入所きせることができる。
C 第一項の勧奨は,前条の規定する医師が当該患者を診察した結果,その者がらいを伝染させるおそれがあると診断した場合でなければ,行うことができない。

  (従業禁止)

第七条 都道府県知事は,らいを伝染させるおそれがある患者に対して,その者がらい療養所に入所するまでの間,接客業その他公衆にらいを伝染きせるおそれがある業務であって,厚生省令で定めるものに従事することを禁止することができる。
A 前条第四項の規定は,前項の従業禁止の処分について準用する。

  (汚染場所の消毒)

第八条 都道府県知事は,らいを伝染きせるおそれがある患者又はその死体があった場所を管理する者又はその代理をする者に対して,消毒材料を交付してその場所を消毒すべきことを命ずることができる。
A 都道府県知事は,前項の命令を受けた者がその命令に従わないときは,当該職員にその場所を消毒させることができる。

  (物件の消毒廃棄等)

第九条 都道府県知事は,らい予防上必要があると認めるときは,らいを伝染させるおそれがある患者が使用し,又は接触した物件について,その所持者に対し,授与を制限し若しくは禁止し,消毒材料を交付して消毒を命じ,又は消毒によりがたい場合に廃棄を命ずることができる。
A 都道府県知事は,前項の消毒又は廃棄の命令を受けた者がその命令に従わないときは,当該職員に,その物件を消毒し,又は廃棄させることができる。
B 都道府県は,前二項の規定による廃葉によって通常生ずべき損失を補償しなければならない。
C 前項の規定による補償を受けようとする者は,厚生省令の定める手続に従い,都道府県知事に,これを請求しなければならない.
D 都道府県知事は,前項の規定による請求を受けたときは,補償すべき金額を決定し,当該請求者にこれを通知しなければならない。
E 前項の決定に不服がある者は,その通知を受けた日から六十日以内に,裁判所に訴をもってその金額の増額を請求することができる。

  (質問及び調査)

第十条 都道府県知事は,前二条の規定を実施するため必要があるときは,当該職員をして,患者若しくはその死体がある場所若しくはあった場所又は患者が使用し,若しくは接地した物がある場所に立ち入り,患者その他の関係者に質問させ,又は必要な調査をさせることができる。
A 前項の職員は,その身分を示す証票を携帯し,且つ,関係者の靖求があるときは,これを呈示しなければならない。
B 第一項の権限は,犯罪捜査のために認められたものと解釈してはならない。

  第三章 国立療養所

  (国立療養所)

第十一条 国は,らい療養所を設置し,患者に村し,必要な療養を行う。

  (福利増進)

第十二条 国は,国立療養所に入所している患者(以下「入所患者」という)の教養を高め,その福利を増進するようつとめるものとする。

  (厚生指導)

第十三条 国は,必要があると認めるときは,入所者に対して,その社会的更生に資するために必要な知識及び技能を与えるための措置を講ずることができる。

  (入所患者の教育)

第十四条 国立療養所の長(以下「所長」という)は,学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第七十五条第二項の規定により,小学校又は中学校が,入所患者のため,教員を流通して教育を行う場合には,政令の定めるところにより,入所患者がその教育を受けるために必要な措置を講しなければならない。
A 所長は,学校教育法第七十五条第二項の規定により,高等学校が,入所患者のため,教員を派遣して教育を行う場合には,政令の定めるところにより,入所患者がその教育を受けるために,必要な措置を講ずることができる。

  (外出の制限)

第十五条 入所患者は,左の各号に掲げる場合を除いては,国立療養所から外出してはならない。

一,親族の危篤,死亡,り災その他特別の事情がある場合であって,所長が,らい予防上重大な支障を釆たすおそれがないと認めて許可したとき。
二,法令により国立療養所外に出頭を要する場合であって,所長がらい予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めたとき。
A 所長は前項第一号の許可をする場合には,外出の期間を定めなければならない.
B 所長は,第一項各号に掲げる場合には,入所患者の外出につき,らい予防上必要な措置を講じ,且つ,当該患者から求められたときは,厚生省令で定める証明書を交付しなければならない。

  (秩序の維持)

第十六条 入所患者は,療養に専念し,所内の紀律に従わなければならない.
A 所長は,入所患者が紀律に違反した場合において,所内の秩序を維持するために必要があると認めるときは,当該患者に村して,左の各号に掲げる処分を行うことができる。
一,戒告を与えること。
二,三十日をこえない期間を定めて,謹慎させること。
B 前項第二号の処分を受けた者は,その処分の期間中,所長が指定した室で静居しなければならない。
C 第二項第二号の処分は,同項第一号の処分によっては,効果がないと認められる場合に限って行うものとする。
D 所長は,第二項第二号の処分を行う場合には,あらかじめ,当該患者に対して,弁明の機会を与えなければならない。

  (親権の行使等)

第十七条 所長は,未成年の入所患者で親権を行う者又は後見人のないものに対し,親権を行う者又は後見人があるに至るまでの間,親権を行う。
A 所長は,未成年の入所患者で親権を行う者又は後見人のあるものについても,監護,教育等その者の福祉のために必要な措置をとることができる。

  (物件の移動の制限)

第十八条 入所患者が国立寮養所の区域内において使用し,又は接触した物件は,滑車を経た後でなければ,当該国立療養所の区域外に出してはならない。

第四章 福祉

  (一時救護)

第十九条 都道府県知事は,居住地を有しない患者その他救護を必要とする患者及びその同伴者に村して,当該患者が国立療養所に入所するまでの間,必要な救護を行わなければならない。

  (一時救護所)

第二十条 都道府県は,前条の措置をとるため必要があると認めるときは,一時救護所を設置することができる。

  (親族の援護)

第二十一条 都道府県知事は,入所患者をして安んじて療養に専念させるため,その親族(婚姻の届出をしてないが,事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。以下同じ)のうち当該患者が入所しなかったならば,主としてその者の収入によって生計を維持し,又はその者と生計をともにしていると認められる者で,当該都道府県区域内に居住地(居住地がないか,又は明らかでないときは,現在地)を有するものが,生計困難のため援護を要する状態にあると認めるときは,これらの者に村し,この法律の定めるところにより,援護を行うことができる。但し,これらの者が他の法律(生活保護法「昭和二十五年法律第百四十四号」を除く)に定める扶助を受けることができる場合においては,その受けることができる扶助の限度においては,その法律の定めるところによる。
A 援護は,金銘を給付することによって行うもの亡する。但し,これによることができないとき,これによることが適当でないとき,その他援護の目的を達するために,必要があるときは,現物を給付することによって行うことができる。
B 援護のための金品は,援護を受ける者又はその者が属する世帯の世帯主若しくはこれに準ずる者に交付するものとする。
C 援護の種類,範囲,程度その他援護に関し必要な事項は,政令で定める。

  (児童の福祉)

第二十二条 団は,入所患者が扶養しなければならない児童で,らいにかかっていないものに村して,必要があると認めるときは,国立療養所に附置する施設において教育,養護その他の福祉の措置を講ずることができる。
A 第十七条第一項の規定は,前項の施設に入所中の児童について準用する.

第五章 費用

  (都道府県の支弁)

第二十三条 都道府県は,左の各号に掲げる費用を支弁しなければならない。
一,第五条第一項の規定による静察に要する費用
二,第六条の規定による措置に要する費用並びに同条第一項又は第二項の挽定による勧奨又は命令による患者の入所に要する費用及びその入所に当り当該都道府県の職員が附き添った場合におけるその附添に要する費用
三,第八条及び第九条の規定による消毒及び廃棄に要する費用
四,第九条第三項の規定による損失の補償に要する費用
五,第十九条の規定による一時救護に要する費用
六,第二十条に規定する一時救護所の設置及び運営に要する費用
七,第二十一条の規定による援護に要する費用

  (費用の徴集)

第二十三条の二 都道府県知事は,第二十一条の規定による援護を行う場合において,その援護を受けた者に村して,民法(明治二十九年法律第八十九号)の規定により扶養の義務を履行しなければならない者(入所患者を除く)があるときは,その義務の範囲内において,その者からその援護の実施に要した費用の全部又は一部を徴集することができる。
A 生活保護法第七十七条第二項及び第三項の規定は,前項の場合に準用する。

  (国庫の負担)

第二十四条 国は,政令の定めるところにより,都道府県が支弁する費用のうち,第二十三条第一号から第六号までに掲げる費用については,その二分の一,同条第七号に掲げる費用については,その全部を負担する。

  第六章 雑則

  (訴願)

第二十五条 この法律又はこの法律に基いて発する命令の泉定により所長又は都道府県知事がした処分(第九条第五項の規定による補償金額の決定処分を除く)に不服がある者は厚生大臣に訴願することができる。
A 厚生大臣は,前項の訴願がらいを伝染させるおそれがある患者であるとの静断に基く処分に対してその診断を受けた者が提起したものであって,且つ,その不服の理由が,その診断の結果を争うものであるときは,その訴願の裁決前,第五条      第二項の規定に準して厚生大臣が指定する二人以上の医師をして,その者を診断させなければならない。その場合において,訴願人は,自己の指定する医師を,自己の費用により,その珍察に立ち合わせることができる。
B 第五条第三項の規定は,前項の医師について準用する。

  (公課及び差押の禁止)

第二十五条の二 第二十一条の規定による援護として,金品の支給を受けた者は,当該金品を標準として租税その他の公課を課せられることがない。
A 第二十一条の規定による援護として支給される金品は,すでに支給を受けたものであるとないとにかかわらず差押えることができない。

  (罰則)

第二十六条 医師,保健婦,看護婦若しくは准看護婦又はこれらの暇にあった者が,正当な理由がなく,その業務上知得した左の各号に掲げる他人の秘密を漏らしたときは,一年以下の懲役又は三万円以下の罰金に処する。
一,患者若しくはその親族であること,又はあったこと。
二,患者であった者の親族であること,又はあったこと。
A 前項各号に掲げる他人の秘密を業務上知得した者が,正当な理由がなく,その秘密を漏らしたときは,六月以下の懲役又は一万円以下の罰金に処する。

第二十七条 左の各号の一に該当する者は,一万円以下の罰金に処する。
一,第四条第一項の規定による届出を怠った者
二,第五条第一項の規定による医師の診断を拒み,妨げ,又は忌避した者
三,第九条第一項の規定による物件の授与の制限又は禁止の処分に従わなかった者
四,第八条第二項又は第九条第二項の規定による当該職員の職務の執行を拒み,妨げ,又は忌避した者
五,第十条第一項の規定による当該職月の調査を拒み,妨げ,又は急逝した者
六,第十条第一項の規定による当該職員の質問に対して虚偽の答弁をした者
七,第十八条の規定に違反した者

第二十八条 左の各号の一に該当する者は,拘留又は科料に処する。
一,第十五条第一項の挽定に違反して国立療養所から外出した者
二,第十五条第一項第一号の規定により国立療養所から外出して,正当な理由がなく許可の期間内に帰所しなかった者
三,第十五条第一項第一号の規定により国立療養所から外出して,正当な理由がなく,通常帰所すべき時間内に帰所しなかった者。


らい予防法の廃止に関する法律案に対する附帯決議 

(平成8年3月26日 参議院厚生委員会)

ハンセン病は発病力が弱く,又発病しても,適切な治療により,治癒する病気となっているのにもかかわらず,「らい予防法」の見直しが遅れ,放置されてきたこと等により,長年にわたりハンセン病患者・家族の方々の尊厳を傷つけ,多くの痛みと苦しみを与えてきたことについて,本案の議決に際し,深く邉憾の意を表するところである。

政府は,本法施行に当たり,深い反省と陳謝の念に立って,次の事項について,特段の配慮をもって適切な措置を講ずるべきである。

一,ハンセン病療養所入所者の高齢化,後遺障害等の実態を踏まえ,療養生活の安定を図るため,入所者に支給されている患者給与金を将来にわたり継続していくとともに,入所者に対するその他の医療・福祉等処遇の確保についても万全を期すこと。

一,ハンセン病療養所から退所することを希望する者については,社会復帰が円滑に行われ,今後の社会生活に不安がないよう,その支援策の充実を図ること。

三,通院・在宅治療のための医療体制を早急に整備するとともに,診断・治療指針の作成等ハンセン病治療に関する専門知識の普及を図ること。

四,一般市民に対して,また学校教育の中でハンセン病に関する正しい知識の普及啓発に努め,ハンセン病に村する差別や偏見の解消について,さらに一層の努力をすること。

 右決議する。

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2010年07月29日

『日本のアウシュヴィッツ』証言

高田孝さんの証言に耳を傾けていただきたい。栗生楽生園につくられた「特別病室」(重監房)がどのようなものであったか,そこで何が行われたか,証言を通して歴史の事実を知ってほしい。


「特別病室」(重監房)の平面図を載せておく。これは『ハンセン病 重監房の記録』(宮坂道夫)より転載する。

高田さんはハンセン病により明かりを失い,いまはほとんど伏せっています。ベッドのそばで高田さんの証言をききました。(谺雄二)

らい療養所は病人が病人をみとる仕組みで成り立っているところで,患者でありながら,みんな園内の仕事をさせられていた。おれは医局で薬局の手伝いをしてたんだ。
一九歳だったからものごとの見極めは十分できたし,そこで出会ったことはすさまじく,ほかにはないことだからよくおぼえている。
そのころ,小学校高等科を卒業したぐらい,いまで言えば,中学の三年か中学卒業くらいの男の子が看護手の見習いにきてたんだ。歳で言えば,14〜15歳,おれより4〜5歳下だった。医局にいる上の人たち,看護婦,看護手なんかは嫌な仕事はみんな見習いの少年たちに言いつけるんだよ。

特別病室へめしをもって行く者が見つけ,「死んでいる。」と医局に知らせてくる。知らせがあると,9時か10時ごろに遺体を迎えに行くことになる。
「担架をもって行ってつれて来い。」言いつけられた見習いの連中も二人や三人で行くのは嫌だもんだからおれたちに「行ってくれ。」って言うんだ。そうなると,見習いだって医局側なんで,医局が言うわけだからおれたちは逆らえない。おれや門脇金次さんなんか行かされた。

担架をもって坂道を正門の方へのばって行くんだ。死ぬのは主に冬なんだよな。だから雪道をのぼって行くわけだ。いまのようにしっかりしたプラスチックではなく,竹でできているんだ,担架の棒が。竹の棒が二本ズックのキレに金属で固定されている。それをおれたちが担いでのぼって行く。正門のところには門衛所があって,門衛所におねがいする。門衛所のすぐ手前の左側に細い道があって,雪でうずまった林の中へ入って行くんだ。
林を入るとすぐ,右手から小さい山が下っていて,その小山の裾を越えると,少し開けたところがある。だからそこは正門の通りからは見えないんだ。7〜800メートル離れた官舎から正門を出入りして通う職員もそんなところに“なにかある”なんて気づきもしないし,足を入れるなんてこともない。
小山をまわると,コンクリートの場があり,カンヌキのついた入口があって,そこに大きな櫛形錠がかかっていた。カギは門衛がもっているんだが,門衛も嫌がって,塀のカギをあけるところまでしか行かず,帰ってしまう。

塀を入ると,少し隙き間があって,こんどは建物の錠がある。その錠を開け,入ったところが一つの区域になっている。右側にコンクリートたたきがあった。その奧が宿直室で,四畳半か六畳ぐらいの部屋に押入れがある。畳は黴びて,ほこりだらけ。その上にもち物が放り出してあって,荷札に名前がついていた。左側に医務室があって,高い足にのった洗面器があった。昇汞水とクレゾールを入れる洗面器のわけだが,かざってあるだけ。その向こうに診察用のベッドがあるが,使ったことは全然なく,ほこりだらけだった。機械戸棚もあるんだけど,なにも入れちゃあない。<特別病室>という名前だからそういうみてくれになっていたわけなんだ。

その先は仕切りで,南京錠がかかっていた。錠を開けて,バールをおこすと,戸が開く,バールは押しこんで寝かせると,帯び鉄に3ミリと5ミリくらいの切り込みがあって,そこから錠をかける輪が下に出る,という厳重な扉だった。
その先は屋根がなくって,空が見えていた。山のまんまで,冬は雪が積もっていた。両側は壁で,1メートルくらいふみこむと,右と左にさっきと同じようにに錠があり,それをおこして引いて,中へ入ると,一番先の独房があるわけ。その奧もまた壁で,錠がついている。
まん中の通路の先も壁で,そのまん中に扉があって,錠がある。それをバールかテコで開けて行くと,またさっきと同じように右と左に錠がある。その奥もまた壁で,錠がっいている。
要するに全体が田の字になっていて,独房はみんな野天の通路(荒れ地)で切り離されていて,超えも気配もわからないようになっていた。

外のカンヌキを開けて,宿直室,治療室のカギを開けて,バールを引いてカギを開けて,一番奥の独房へ行くには7つのカギを開けないと,ならなかった。
外のカンヌキを開けてから一番奥の独房へ行くには,7つカギを開けなければ,入れないんだよ。扉は外から中へ押すと,開くんだけれど,中から外へ押しても,開かない仕組みになっていた。
宿直室の戸はガラス戸だけど,あとの扉は厚さが10センチくらいあった。いったん入れられたら絶対に出られないよ。

カギは厳重だったけど,建物は粗雑だった。独房に向かってすぐ下にめしを入れる口があり,同じ面の反対側にある扉を開けるとすぐ便所がちょっと切り込んであった。その上の方に3〜40センチの,はめころしの窓があった。中は四畳半くらいの広さで,光ははめころしの窓とめしを入れる口から入るだけ。天井に電気の傘はあったけど,球はとっくに切れたままで,壁が三重だから中は昼間でも真っ暗だった。

死んだのはほとんどが冬のあいだだった。おれは5〜6人出しに行った。

板の間に敷きぶとん一枚にかけぶとんが一枚あるだけ。両手を上げ,干乾しだか凍死だか,干からびた蛙のように凍りついて死んでいる。寒いときは敷きぶとんが下の板に凍りついちやっている。だれもさわりたくないよ。ふとんごともって行こう,と思うんだ。2〜3人が中に入って,1人が敷きぶとんの裾をもち上げ,工事のときに捨ててある板きれをつつこんでこすり,こじってはがすんだけど,光がないところで掻くんだから戸がしまったらよけい暗くなるし,扉が閉まったら,そりゃあ絶望的な気分におそわれる。

「閉めるな!閉めるな!」って叫びながら,やっと氷をはがす。苦しんで死ぬんだから,まっすぐばかりに死んではいない。90センチほどの出口からなかなか出せないこともあった。
4人ぐらいでやっと通路に引っばり出して,担架にのっける。血管に力がないからみんな出血しちゃうんだろうなあ。遺体は紫がかった黒っぼい色だった。まえを1人,うしろを1人で担架をもち,ほかの者は宿直室にころがっている,死者の私物ももって,あの坂を下ってくるんだ。そして解剖室のまえへもって行く。

9時か10時ごろ迎えに行って,つれてくるんだけれど,解剖室の扉が開いていれば,解剖室へ入れる。午後にならなければ,医者は解割しないからたまに手違いで解剖室の扉が開いていないことがある。そのときは庭の土や雪の上に担架ごとおいてふとんをかぶせておいてくるんだよ。
園内で死んだ人はほとんど解剖された。入園するときの書類に「解割していい」という欄があって,名前を書いてハンコを押させられていた。

おれは5〜6回行き,いろんな恰好で死んでいるのを見たよ。ふとんからはいだして死んでる人もいた。戸を開けたら,そこに頭があって,びっくりしてとび上がったこともある。出口の戸に頭をおっつけて死んでいた。出たかったんだろうなあ。

ほかには門脇金次さん,木村誠さん,村田勉さんなんかが行った。

なんの手当ても受けずに,食事もひどいもんだったんだから。五日会(患者会)の人たちが「もうちょっと食事を多くしてやったら。」って言ったら,「よけいにやると,太って体によくない。」って加島が言ったそうだ。ふつうの分だって十分でないのに,小さいにぎりめし一つ分くらいと梅干し一個,それも一日二回きり,飢え死にさせたようなもんだ。
看護手見習いの佐藤君だったか,山田君だったか,どっちかがうしろをもち,前を松野君がもったことがある。坂を下りるとき,担架の竹竿が折れて,死体がころがり落ちてしまった。松野はまっ青になって担架を放り出し,坂の下にあった看護学院の陰でふるえているんだよ。おれたちは手伝わされてはいるけど,遺体の運び出しは看護手の仕事だから見習いでもやらなければ,叱られる。やっとなだめて,別の担架をもってきてもらって,のせてきたことがあった。

特別病室に入れられている人は夏の間は二ヵ月に一度ぐらい出されたかなあ。そのとき,髪の毛を刈ったり,風呂に入れた。冬は全然出さなかった。いまみたいに舗装はしてないし,雪が溶ければ,泥道だし,あんなところにろくに食わせずに入れておいたんじゃあ,下へつれ出しても,歩いて帰れないもの。
春,暖かくなると,門衛の人と分館の人が風呂場までつれ出してくる。患者作業の床屋に髪を刈らせるんたけど,首すじまで髪の毛がのびていたよ。
いま考えてみると, 特別病室は熊本の本妙寺集落を解散させるために急遽つくったんじゃあないかなあ。

(谺雄二=当時,長島事件,大島青松園のラジオ事件などがあちこちでおこった。それで光田健輔ら所長連中が話し合い,各園にある監禁室のほかに特別病室を栗生楽泉園につくった。)

特別病室に入れられた人が栗生楽泉園に残り,いまも健在でいる……名前は言えないけれど。しかしだれがききに行っても,絶対に言わない。

熊本の本妙寺集落にいた中村利登治さんが友愛会という会をつくり,県知事が許可したという書類をもって,いまの韓国のソウルあたりの,大きな会社へ寄付を集めに行った。それを県知事は文書偽造だとかなんとか言った。罪をなすりつけるにはよかったんだろうけど。その親方が利登治さんで,主だった人が特別病室につれてこられた。特別病室が全部いっばいになったのは本妙寺集落の人たちがきたときくらいだ。
あのときは四畳半に2人入れた。1人が死んだんだが,だまっていて,二人分のめしを食っていた,という事実があった。それが印南さんだった。あとで知った印南悦八郎さんはなかなか頭のいい,若い衆だったよ。冬だったから一週間ぐらい死人といっしょにいたんだろうなあ。夏だったら,とてもできない。残酷なもんだよ。守衛が一日に1回はまわって歩く,なんて言ってたけれど,そんなことは絶対になかったんだよ。

本妙寺からきた中に,満八十山(みつる・やそやま)の奥さんで,夫といっしょに投獄され,じつに一年以上,390日間も入れられていた境テイさんという人がいた。

(谺雄二=境テイさんはのちに患者大会で証言し,92名の投獄者中いちばん長期の533日間にわたって拘束された末に獄死した夫のことなどを語った。そのようすはニュース映画のフィルムとしてNHKに残っている。)

境テイさんが医局にきたとき,おデコがまっ黒なんだよ。おれは知らないから「おばさん,どうしたんです,おデコ。」って言ったら,「監禁所で死のうと思って,なんぼ打ったけど,死ねなかったよ。」って言ったよ。テイさんが言った監禁所は特別病室のことだけど。

沢田五郎さんが『とがなくてしす』で言っている首つって死んだ。」というのはないんじゃあないか。「中はトタン張り。」って書いてあるけど,板張りだったよ。壁も板張りだった。五郎さんはまだ子どもだったからきいた話なんだろうけど,納骨堂の脇にあった監禁所ば二部屋トタン張りだったからそれが伝わったんかも知れない。

特別病室の中は暗いからよく見えないけど,ひもをひっかけるところはなにもなかったよ。その板に日付が横棒で刻んであった。一本づつ引いたんだろうねえ。「かあちゃん」「おれはだれだ」「ウラミ」「加島はオニ」などが書いてあった。

(谺雄二=昭和26年にはまだ残っていて,「出たらただじゃあおかねえぞ。」また同じ字で「加島さん,許してください。」って書いてあるのを見てびっくりした。悲惨な,気持ちの変化が書いてあった。)

五郎さんが『とがなくてしす』に書いた鈴木義夫のことはおれは知らないんだ。

監禁室でも一人死んだ人がいるんだよ。
郵便通帳を二人で偽造する事件があって,金を下ろして逃げた者はつかまらず,石川という人がつかまって,監禁所へ入れられた。「タべずいぶんうなっていたぞ。」って妙義舎の一号の連中が言い,朝めしをもって行った人が「返事をしねえ。」って言うんで,医局だの世話人で行って見ると,ブリキで張ってある壁に血がとんで,髪の毛を両手でつかんで死んでいた。どっか悪かったんだろうなあ。それを松本友太郎さんだの,中島省吾さんだの世話人がひきずり出してきたけど,この人は楽泉園に籍があったから葬式をやってもらえたんだよ。楽泉園に籍がなくて「特別病室」で死んだ人は葬式もなく,解剖室で棺桶に入れて,荒縄でしばって棒を通して世話人がかついで行って,焼き場で焼いたんだ。線香一本立ててもらったわけではないよ。人ごとながら,震えたよ。

楽泉園の者は「特別病室」へ入れられても,外にいる者が嘆願してくれるけど,よそからつれて来られた者はだれも知らないし,嘆願してくれる人もない。

湯の沢部落でバクチを打って警察につかまり,3〜4人「特別病室」へ入れられたことがある。朝鮮人だったけどね。傷があるもんだから治療に何回も行って,“頼んでくれ”“出してくれ”って。あの当時,協親会(朝鮮人の親睦会)があったかどうか,知らないけど,藤原さんや顔役が口をきいて,朝鮮人たちは一ヵ月ぐらいで出たんじゃないか。

名前は出せないけど,患者の父子が楽泉園へきて,子どもの方は目が悪かった。その二人が諏訪の原へ行ってジャガイモを掘って盗んだ,って農家の人につかまってしばられて,分館につれてこられた。目の見えない子どもはかまわないが,父親が一週間ぐらい特別病室に入れられた。特別病室へ着くまでなにかしゃべっているんだが,秋田のなまりがひどくて,なにを言いわけしているのか,わかんなかった。おれと門脇金次とふとんをかついでもって行かされた。新しいふとんなんかやらず,再製のふとんだった。死んだ人のふとんを打ちなおしたふとんが解剖室のとなりにおいてあった。

夏なんか特別病室へ行くと,小説に出てくるように南方で戦死した人に姐がさがっている,まったくあのとおりだよ。あんなせまいところからどうして蠅が入ってタマゴを生みつけたんか,包帯をとると,ぼろぼろ姐が出てくる。一週間か二週間に一回,看護婦が包帯を交換するわけなんだけど,嫌がってなかなか行かないんだ。行くときはおれたちがついて行く。

医者は一回だって診察に行ったことはない。

ひどいもんだったよ。においがすごいんだ,足の裏傷から。出口に腰かけさせて,足を出させて,幽霊みたいな人間の治療するんだから看護婦だってたいへんだよ。
入れられている人たちはおれたちに言うんだ。「おらあなにもやってねえ。」「頼んでくれ。」「出してくれ。」「ここへ手紙を書いてくれ。」って。
おれたちは分館に伝えるしかないんだよ,だけど,加島は全然相手にならなかったよ。「金はあとから払うから手紙書いてくれ。」ってずいぶん言ったよ。もう名前は忘れちゃたけど,九州の人が多かったな,九州の方言が多かったから,九州の人だな,ってわかるんだ。本妙寺あたりの。
本妙寺からきた人でも下っぱの人もみんないっしょにいたけど,指導者じゃあない人は入れられなかったんだよ。

五郎さんも「お風呂につれてきたのを見た。」って書いている。おれは薬局で作業をしていて,診察がおわるまでいるから帰りがおそく,いつも12時ごろになっちゃうんだよな。そうするとく藤の湯>のまえにゴザ敷いて髪の毛の伸び出したのが2−3人きていて,床屋作業の左内さんなんかが髪の毛を刈っている。そばに分館の加島だの本館の職員が見張っている。「風呂は勝手に入れ。」って。昼休みに患者はほとんど行かないから。そこで着がえさせて,また職員が二人つき,坂をよろけながら,上がって行くだよ。
だから冬なんか絶対につれてこなかったよ。すわらせて,髪を刈るところがないんだもの。ひと冬おいとくんだから髪の毛が肩まで伸びて,ひげだって垂れるほど伸びて,目だけギョロギョロ,している。

見張りは職員がやった。焼き場の仕事は世話人だったけれど。

楽泉園の分館職員は海軍上がりが多かった,海軍の看護手上がりが。〇〇さん,〇〇さん,みんな海軍なんだ。海軍の衛生兵がここにつとめた,看護手として。
多磨全生園みたいに守衛がお巡り上がりというのはなかった。
守衛は昼間は二人で,夜は一人で,タイムコーダーをもって,朝,昼,夜に一回,園内,各作業場―ミシシ場,印刷場,裁縫場をまわって歩いた
門衛には手錠が二つぶらさがっていた。それはむこうから患者にかけてきた手錠をはずしておいて行ったんじゃあないか。
門衛には二部屋あったから夜は一人で泊まっていたんかなあ。食糧運搬などみんな患者がやっていて,出入りがあったから。馬が二頭いて,冬は馬橇で草津の電鉄駅までネギだのジャガイモだのコメだのとりに行ってたんだ。

堕胎は多く,胎児が標本室に残っている。

多磨全生園で不倫をして子どもができたとか,よその療養所でいっしょになってこっちへ逃げてきた人なんかで,堕胎した人がいた。木村三郎さんと高尾安次さんは異常体質で,局所麻酔の注射を打つと,気違いみたいになっちゃう。木村三郎さんは局所麻酔の注射を打ったら,物干し竿をふりまわしたり,夜とび出しちやって,大さわぎしたことがある。そういう人以外は断種しなけりゃあ,夫婦舎に入れてくれない。十二畳半に五人も六人も雑居しているより四畳半に二人でいられる方がいいから。断種は嫌だ,って言えば,分館へ呼びつけられて,結婚は許可しない,部屋やらない,となる。

ほかの園には通い婚で,夜は大部屋に夫婦が何組も雑居,というのがあった。楽泉園には湯の沢部落が移転してきた事情で自由地区があったり,四畳半があったので夫婦で雑居はなかった。鈴蘭地区に服部ケサ医師がっくった病院を楽泉園に移築してあった。それは六畳だったり,八畳を二つに縦に割ったりして夫婦舍にしていた。

特別病室の問題はこんどの裁判で重大な問題になるだろうが,あんなに厳重にしといて,しかも療養所でありながら,医者が全然行かない,なんてひどいもんだたったよ。矢嶋さんは長らく医務課長だったけど,「特別病室」へ行ったことは一回もない。おれは医局にいたから薬が出れば,カルテがまわってくるのに,「特別病室」の分がきたことは一回もない。「苦しんでいる。」っていうので病棟に担ぎこまれた人は何人かいるけど。
苦しんでるのは飯とりが発見して,各務さんだの佐川君あたりが「おかしい。」って言うと,「じゃあつれてこい。」って医者が言って,病棟へ入れたことがある。

「特別病室」の温度は正確な記録はないけど,マイナス15度になったことはうんとあったろうな。保育所が火事になったとき,消火栓が凍っていて開かなかったことがあり,湯の沢からきた消防団がおこった。水が出ないとはなにごとだ。愛川宏が消防団の親方で,園長に食ってかかったのを見た。消火栓まで凍つちゃってるんだいな。「特別病室」は保育所と山ひとつで,ほとんどちがわない。あそこは日は当たらないし,赤松林の中だから寒かつたろう。ひどいもんだよ。

やせて,汗かいて,病んで,尿や糞をたれ流し,それがふとんにしみ通り,凍ったふとんに寝てる。死んで凍るんじゃあなく,生きているうちに凍っちやうんだもの,むごい話だよ。

看護婦が一週間に一回くらい外科治療に行くんだが,こわがってなあ,「ついてってくれ。」って言うから,しょうがねえついて行くんだ。春先,屋根の上からザザーッと音がしてチョコレートの厚いような,変なものが落ちてくるんだよ。トタン屋根の上にコンクリートがぬってあって,それに水がしみて,冬のあいだに凍ってひび割れて落ちてきたんだ。おどろいたなあ。

建物はずいぶんひどいもんで,だからよけい厳重にしたんだよ。
あの塀は鉄筋じゃあないよ。あんなに早く壊せるわけないもの。板で作って,それにラスを張り,鉄の網の目を張って,コンクリートをぬりつけたもんだ。国会の調査団がきたとき,2〜3日まえに塀をこわしたんだから。ふつうなら,鉄の玉やなにかで叩き壊さなけりゃあ,壊れるわけないんだよ。あの中にはめしを運ぶ人しか入らなかった。守衛はカギを開けてやるだけ。ひどいもんだったよ。死ねば,遣体を解割室へ運ぶ。解剖室が開いてなけりやあ, 解剖室のまえに担架で半日もおいておく。解剖室からは火葬場へ世話人にもって行かせた。線香の一本も上げない,お経の一つも上げてやらない。あとに残った患者としても,恥ずかしいよ。神経が麻痺しちやった,っていうんか。言えば,こんどは自分が「涼しいところへ行くか。」って言われる。

水沢定作さんが故郷(くに)へ行って,帰ってくるとき,軽井沢で草軽電鉄に乗車を拒否され,道を知らないから軽井沢から60キロ線路づたいに歩き,工夫が道具を入れておく小屋に泊まり,二日かけて帰ってきた。足に傷をつくり,くたびれきってやっと楽泉園の天城舎へたどりついた。
加島が天城舎の世話人だった久保田保夫さんとおれを呼び出し,「水沢を特別病室へ入れる」ってきかないんだ。窓のところにあったノコギリで水沢さんをたたこうとしてふりまわしたよ。おれと久保田さんはとにかく謝った。「勘弁してやってくれ,こいつは子どもがいて,心配で心配でしょうがなくって,行ったんだから。」って。
加島は怒って怒って「(汽灌場の)高い煙突に二日三目吊るしておけ。」って。おれたちは平謝りに謝って帰ってきた。加島は「めしなんか食うな。」って言ってたから定作さんにはめしを一週間ぐらいくれなかったんじゃあないかなあ。

嬬恋村の三原からこっちの線路の上に血が点々とついているんで線路工夫が「なんだろう」って不審に思ったそうだ。国の方へ通知されれば,監禁所へ入れられるからとにかく一生懸命帰ろう,と思って帰ったんだろうなあ。
市川さんも同じように歩いた。

(谺雄二=水沢さんと市川さんの話は『風雪の紋』にのっている。)

「特別病室」へ行くのはやだったなあ。行かないわけにはいかないし。

時効だから訴えるわけにはいかないんだろうけど,国の責任者は認めなければならない,と思うよ,こういう事実を。ひどいもんだった。楽泉園の患者はそんなに大勢入っていないから園内ではあまり知らない人が多い。特別病室がいつ建ったのか,知らない人もだいぶいたようだよ。 こっそり建てたんだなあ。
あんなところに窪地がある,なんてわかんないものなあ。ある程度整地したんだろうけどな。

あれは日本のアウシュウビッツだよ。

「特別病室」(重監房)については証言も少なく,何より実際に入れられた人からの証言がない。高田さんや沢田さんのように実際に見聞きした人でも証言する人は少ない。
歳月も流れ,当時を知る職員や看護師で存命している人も数少ないだろう。まして加島正利など直接に重監房に拘わった人たちは,もはや亡くなっていることだろう。


私は若き日にアウシュヴィッツ収容所を訪ねたことがある。
ガス室の前に立ち竦んだこと,薄暗い監禁室の前で背筋に悪寒が走り,この世の地獄を垣間見た記憶は,今も鮮明に残っている。

この残酷な事実,無法地帯の中で行われた人を人と思わない残虐な行為を指示・実行したナチス・ドイツの感覚や意識とは如何なるものであったのか。今まで多くの学者や研究者が多方面からさまざまに研究し解明しようとしている。

私にとって衝撃であり,追究したい課題の一つは,アイヒマン裁判における彼の言葉が,加島正利の言葉と重なったことである。

裁判を通じてアイヒマンはナチス率いるドイツによるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べながらも,自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張した。この公判時にアイヒマンは「一人の死は悲劇だが,集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉も残している。

1947年,自治会が待遇改善に加えて「特別病室」の撤廃を求めて立ち上がった「人権闘争」のとき,厚生省調査団を交えての話し合いの席上で,加島正利は「俺は悪いことはしていない。忠実に服務してきただけだ」と述べたのである。(その後,加島は懲戒免職の処分を受けているが,罪を問われてはいない。)

彼らの証言を無責任と詰ることは容易い。彼らの行為を当時の国家体制や洗脳教育のせいにすることも簡単だ。だが,本質は別のところにあると考えている。
この問題に関しては,しっかりと検証してみたい。

本書を読み終えて,その非人間的行為が平然と行われてきた事実に,やり場のない怒りと無念さを強くする。ただ唯一の救いは,次の言葉だけである。

どのような境遇の下でも人が生きている限り,そこには人生がある。また,その人生が過酷であればあるほど,それに負けずに生き抜く人が輝くのである。
 抑圧の歳月に歪みし身を絞りらい者とて人間なるぞと叫びき

『とがなくてしす−草津重監房の記録』(沢田五郎)

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『日本のアウシュヴィッツ』刊行にあたって

「特別病室」(重監房)に関する貴重な証言である本書は,ぜひとも多くの方々に読んでいただきたい。それが本書を献本してくれた谺雄二さんの願いである。
私は本書をもとに,重監房とは何であったのか,国家におけるハンセン病とは何であったのか,ハンセン病の歴史的背景を明らかにし,教材化したいと考えている。そして,生徒だけでなく我々教師はもちろん,多くの国民に伝えていきたいと思っている。

以下に転載する谺雄二さんの文章は,「特別病室」(重監房)の歴史的背景及びその問題性を的確に,そして簡潔にまとめている。

刊行にあたって

らい予防法人権環害謝罪・国家賠償請求訴訟
草津原告団長谺 雄二

あなたは「特別病室」をご存じですか? それはらい予防法の「患者懲戒検束権」という所長に与えられた警察権に基づき,1938年,群馬県草津町にある国立ハンセン病療養所栗生楽泉園内に建てられた殺人獄舎の名です。

かって「らい」とよばれたハンセン病は,細菌による単なる感染症に過ぎず,その病菌はいまだに培養ができないぐらい弱く,したがってきわめて感染しにくい病気なのです。しかしその症状が目で見てわかる顔や手足に醜く現れ,またこれといった治療薬がなかったため,「不治の病」や天の罰があたった「天刑病」などとよばれ,むかしから嫌われていました。

明治維新後「富国強兵」をめざした日本は,1894年の日清戦争と1904年の日露戦争に勝利し,いよいよ世界の列強に割り込む勢いでした。しかし同時に政府は,国の体面上,それまでまったく放置していたハンセン病対策に乗り出さざるをえなくなったのです。維新後の新条約によって外国人が日本のどこにでも自由に住み,旅行できるようになったことから,そんな外国人の目を通して,神社やお寺で物乞いなどしているハンセン病患者の救済が問題化してきたためです。当時患者は家族を偏見・差別から守るため,自分からすすんで家を出,遠い旅の空のもと路上生活をよぎなくされていました。結局政府は1907年,法律「癩予防二関スル件」を制定して,“患者救済”とは反対の「患者取締り」に着手したのです。いわば政府にとってハンセン病は「国辱」でしかなかったのです。
したがってその患者収容施設は,表向き「療養所」の看板をかかげていても,内実は最初から刑務所以上だったのです。警察官らに追い立てられて強制收容された患者を待つていたのは,まず強制労働でした。患者に患者を看護させ,死ねばその火葬まで患者にやらせる。看護ばかりではありません。施設運営に必要な仕事はすべて患者の労働でまかない,そのうえ子孫を根絶やしにする断種や中絶を強要するなど無法のかぎりをつくして,ごくごく安上がりに患者の隔離撲滅をはかったのです。
そして当然起こる患者の不満をおさえつける必要から,1916年に先に述べた所長の「患者懲戒検東権」を導入,所内に「監房」を設けて威嚇もしたのです。

日本が中国東北部へ侵略戦争を開始した1931年,この年政府は「癩予防法」を制定,官民一体の本格的な“患者狩り”を強行しました。強制収容・終生隔離の患者撲滅政策は,ますます凶暴をきわめ,収容施設内には人間の尊厳の一かけらも認めようとしない,そのあまりにもむごい仕打ちに患者たちの怒りが常に渦巻いていました。じじつ一1930年代には単発的ではありましたが,各施設でつぎつぎといわゆる「患者暴動」が起こったのです。
つまり「重監房」ともよばれる殺人獄舎「特別病室」は,そのような患者の決起を経験した政府と施設側が,いっそう弾圧を強化し,いっさいの自由をうばう手段として,全国の患者対象に設置したものなのです。

これに比べれば一般刑務所の重屏禁でさえ人間的に思える―そんな「特別病室」について,栗生楽泉園患者五〇年史『風雪の紋』(同園患者自治会)や沢田五郎著『とがなくてしす−私が見た特別病室』(ぶどうぱん通信)などでは,およそ次のように説明しています。

「建坪32・75坪(約108平方メートル),周囲は約4メートルの鉄筋コンクリート塀を巡らし,また内部も同じ高さの鉄筋コンクリート柵によって幾重にも仕切られていた。そして八房にわたる獄舎は,各房(便所を含めて約四畳半)ともくぐり戸式の出入り口は厚さ約15センチの鉄扉で固められ,明かり取り窓といえば縦13センチ,横75センチしかない半暗室で,しかも寒冷地の草津高原にあって厳冬期には零下18度〜20度にも下がる極寒に,暖房はなく,破れ布団が二枚だけ。 さらに食餌の差し入れ口はわざと足もとに設けられ,やっと椀一つが通る程度という厳重さ。このように『特別病室』は,一般監獄でもその例を見ないまでにおぞましい造作がなされていたのである。そのうえ収監者の食餌は,減食の刑も課せられているので日に二回。朝は薄い木製の弁当箱に握り飯一つ分ほどの麦飯と梅干し一個,それに具のない汁が一椀。昼に配られる二食目は,朝のものより五割方大きい弁当箱に麦飯とやはり梅干し一個,あとは白湯一椀だけ」と。

「特別病室」への投獄が開始されたのは,設置の翌年1939年からで,それは敗戦後の1947年まで続きました。この間の収監者数はじつに92人。当然弁護士はつかず,拘留期間もあくまで施設側の意のまま,いわば「無期限」ということです。なぜなら前出『風雪の紋』によると,拘留期間の最も長い記録は533日で,その533日目が即ち本人の獄死した日ということだからです。同時にこの「533日」について,「特別病室」がどんなところか知る者は,だれもが一様にこんな驚きの声をあげます。「あんなところで,よくそんなに長い期間…」と。収監者92人中,獄死者22人。そして釈放後間もなく死んだ人も30人に及ぶと聞いています。では,いったい施設側裁定のどんなr罪」で,この療友たちは投獄されたのでしょうか。ここでいくつかの事例をあげてみますと,それはこうです。

まず拘留533日」で獄死したその人の名前は,「満八十山」(みつるやそやま)。三宅一志著『差別者のボクに捧げる!』(晩聲社)によると,満八十山という人は,1930年代にまだ存在していた浮浪患者集団の親分で,主に四国・大阪方面で病人宿や古物商など営みながら,施設を逃げ出してきた患者の面倒をみたり,重症な浮浪患者の世話をしたりしていたとのこと。また妻の境テイという人はこの病気ではありませんでしたが,施設にも出かけて行って,よく入所患者の頼みを聞いてやっていたそうです。こうした満八十山夫妻のような人は,いわば政策阻害者であり,警察も施設側も手のつけられない「不良患者」としてマークしていたところ,1941年,「盗品の自転車を買った」という容疑で大阪府堺市からはるばる草津の「特別病室」まで送致されてきたのです。健常者の妻も「不良患者のつれあい」という理由で同罪,夫といっしょに投獄されました。ただし彼女の場合,拘留390日で釈放されるのですが,それは衰弱のあまり体が動かなくなってしまったため,もう死んだものとみなされて出されたとのことでした。なおこの境テイさんは,後日患者大会の場で「特別病室」告発の証言をしています。

同じく1941年,東京・多磨全生園から送られてきた山井道太という人の投獄理由もじつに酷いものです。『倶会一処−患者が綴る全生園の七十年』(多磨全生園患者自治会)によれば,それは「患者作業の洗濯場主任である山井が,長靴の支給を要求。長靴がなければ傷や神経痛に悪いから仕事はできないと作業をさぼり,汚れ物の包帯,ガーゼ等をくさらせてしまった」―だから「特別病室」だというのです。洗濯場も施設運営上欠かせない作業の一つです。当時どの患者作業も一日の賃金はやっとタバコ一個分程度。しかも作業にアナをあけると,患者全体に迷惑をかける仕組みになっているため,事実上の強制労働でした。

事件のいきさつをもう少し詳しく記しますと,こうです。「水を使う洗濯作業に必要な長靴の支給がない。以前支給された長靴は破れて役に立たない。作業員の多くは足裏にこの病気特有の傷があって常に包帯が離せない。長靴がなければその包帯も水に濡れて傷ばかりか神経痛にも悪い。山井は主任の立場から作業の責任をはたすためにもぜひ長靴の支給を!と施設に願い出た。しかし施設側は患者作業に支給する長靴はないという。ほとんどの職員が『感染予防』と称し,ピカピカの長靴で歩き回っているのにである。山井が施設側の回答を作業員たちに伝えると,次の日から皆は作業に出て来なくなった。それで再生して使う汚れ物の包帯やガーゼ等がくさってしまった」というわけなのです。施設側は自分のことは棚に上げ,作業員のサボタージュは主任の「煽動」ときめつけて,この山井道太という人を同年6月5日“草津送り”つまり「特別病室」に投獄したのです。これを泣いて抗議した妻に,施設側は「お前も草津へいきたいか」といっしょに連行して投獄。そして拘留44日目の7月18日,夫の方が重態におちいり,妻もともに出獄をゆるされるのですが,結局山井というこの人は楽泉園の病棟で9月1日に亡くなってしまったのです。

「特別病室」のある栗生楽泉園の入所者では,鈴木義夫という少年の事例があります。「特別病室」に投獄された者の多くは施設側に睨まれた結果ですが,この少年の場合は異例で,それは殺人の嫌疑でした。前出沢田五郎著『とがなくてしす』によって,まずはその経過をたどってみましょう。

1942年5月,14歳で楽泉園に収容された鈴木少年は,その年の11月,家恋しさに故郷に逃げ帰っています。そして二年後の1944年5月25日,その故郷の小都市で若い女が路上で刺殺されるという事件が起き,当夜外出していた鈴木少年に嫌疑がかけられたというのです。同年10月23日,警察は少年に嫌疑をかけたまま楽泉園に送り返し,施設側も少年をさっさと「特別病室」に投獄してしまったのでした。以後取り調べなど一切なく,闇地獄,孤独地獄にさいなまれた鈴木少年は,やがて錯乱状態となり,拘留444日目の1946年1月4日,まだ一八歳の若いその命を無残にも奪い取られたのです。

『とがなくてしす』の著者は,捜査の網に偶々かかった鈴木少年がハンセン病に対する偏見から殺人の嫌疑をかけられ,そのうえ殺人罪に仕立て上げられている惧れがあるとして,現在日本共産党瀬古由起子代議士の協力を得,この事件の調査に着手しています。 .

このほか熊本'本妙寺の周辺にあった患者部落が,1940年7月9日早朝,警察官と施設職員220人の急襲をうけ,「検挙」された146人の患者は,全国の各施設に分散収容されるという事件があります。ここ楽泉園にも同月16日,男17人,女10人,そして附属保育所へ児童10人,以上37人が収容され,そのうち男17人は直ちに「特別病室」に投獄されたのです。しかし「特別病室」はすでに記したように,四畳半ほどの狭い獄房が全部で八房ですから,他に投獄する場合のスペースの心配があったのでしょう,17人中8人は二〜三日で拘留が解かれ,患者部落の幹部と見られた9人が9月11日までの57日間にわたって「特別病室」の暗黒と飢餓に苦しめられ続けたのでした。

1945年日本は敗戦し,翌年には平和・民主主義・基本的人権を保障した新しい意法が公布されました。その意法の下,1947年“人権闘争”に起ちあがった栗生楽泉園の患者たちは,不良職員の追放とともに「特別病室」の撤廃をかちとりました。そして1949年には化学治療薬“プロミン予算獲得闘争”をたたかい,ハンセン病を「不治の病」から「治癒する病」に変えました。人道にはもちろん,もはや医学にも反する予防法の全面改正をめざし,1951年各施設の患者は運動促進のために全国組織を結成。ところが政府はその全国組織あげての患者の予防法改正要求を逆手にとり,1953年,明治以来の患者隔離撲滅政策を引き継ぐ「らい予防法」を改めて制定したのです。

化学治療薬プロミン開発以後は, 国際的にも患者の社会復帰を推進する開放外来治療政策が主流になっていたにもかかわらず,政府は頑迷にその考えを変えようとしなかったのです。当然そのような日本の誤ったハンセン病政策に,国内外から批判が集まったのですが,政府はそれを無視し続けました。いうまでもなく,その間も患者の苦難のたたかいは止むことなく,ついに1996年,やっと希代の悪法.「らい予防法」の廃止をかちとったのです。

ところが菅直人厚相(当時)は,患者代表を前に「予防法の見直し(廃止)の遅れ」について謝罪したものの,国のこの誤ったハンセン病政策によって,じつに一世紀にわたり患者とその家族が受けた被害については,一言の謝罪もなく,またいまだに何らの賠償もありません。

人間の尊厳を踏みにじっておきながら,謝罪も賠償もしょうとしない国に目をつぶることは,まさに自らの人権放棄を意味します。人間である以上,このままでは死んでも死に切れない―そんな思いから私たちは国を被告席に引き出す裁判をおこしたのです。この裁判で私たちは,国のハンセン病政策における犯罪の数々を国民の前に明らかするとともに,まずは私たちとその家族に対する国の謝罪を求めずにはいられません。

その重大な国家犯罪の一つが「特別病室」です。すでに書証としては文中で紹介済みの沢田五郎著『とがなくてしす−私が見た特別病室』がありますが,このたび同じく栗生楽泉園の療友高田孝より「特別病室」に関するきわめて貴重な証言が得られましたので,ここに『日本のアウシュヴィッツ』と題し,法廷と国民のみなさんにお届けしたいと存じます。アウシュヴィッツは,ご承知のとおりポーランド南部の一都市のドイツ語名で,第二次大戦中ナチス・ドイツの強制収容所が置かれ,ユダヤ人など多数が虐殺されたことで有名です。証言者は,「特別病室」がそのアウシュヴィッツの強制収容所と同じだというのです。

なお,この高田孝証言『日本のアウシュツヴィッツ』刊行にあたり,1953年の“予防法闘争”時に施設側が証拠隠減をねらって取り壊した「特別病室」の跡地を実測,その平面図ができあがりましたので,紙面のなかで紹介したいと思います。この実測は,私たち国賠訴訟を支援する会の中野泰さん(群馬),小林若子さん(北海道),中川義雄さん(東京)の手によるものであり,作製されたその図面から「特別病室」の各房の隔絶のすさまじさ,投獄された者の底知れぬ絶望感がじかに伝わってくる気がいたします。

題字は国賠訴訟の原告鈴木幸次さんの筆をわずらわしました。
これらの方々に厚くお礼申し上げるしだいです。

1999年5月

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解剖・標本

解剖願
御収容後難有御治療相受居候処 万一死亡の際は医術研究の一助とも相成申可くに付き解剖相成度生前此段奉願候也

ハンセン病患者が療養所に入所するに際して書かされた「解剖承諾書」である。

かつて全国にあるハンセン病療養所は「解剖天国」とまで言われてきた。光田健輔を慕って多くの若い医師が長島を訪れたのも「解剖」ができるからであったとも言われている。事実,神谷美恵子が光田健輔を長島に訪ね,滞在していた日々を書き記した文章にも,解剖の様子が多く書かれている。
研究熱心を賛美・尊敬して書かれている。しかし,それは医者の目線でしかない。患者はモルモットと同じである。ここにも,目的のために手段を正当化する独善性が隠蔽されていた。

「ろくな研究設備もないのに,何のために解剖が行われたのか分かりません」という入所者の証言は重い。

「解剖」は光田健輔の姿勢と考えを反映したものである。

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癩予防ニ関スル件

帝國議會ノ協賛ヲ經タル癩豫防ニ関スル法律ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム

 御 名 御 璽
      明治四十年三月十八日

内閣総理大臣侯爵 西園寺公望
内務大臣       原   敬

法律第十一號(官報 三月十九日)

第一條 醫師癩患者ヲ診斷シタルトキハ患者及家人ニ消毒其ノ他豫防方法ヲ指示シ且三日以内ニ行政官廳ニ屈出ヘシ其ノ轉歸ノ場合及死體ヲ検案シタルトキ亦同シ

第二條 癩患者アル家又ハ癩病毒ニ汚染シタル家ニ於テハ醫師又當該吏員ノ指示ニ從ヒ消毒其ノ他豫防方法ヲ行フヘシ

第三條 癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官廳ニ於テ命令ノ定ムル所ニ從ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ但シ適當ト認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムヘシ
必要ノ場合ニ於テハ行政官廳ハ命令ノ定ムル所ニ從ヒ前項患者ノ同伴者又ハ同居者ニ封シテモ一時相當ノ救護ヲ爲スヘシ
前二項ノ場合ニ於テ行政官聴ハ必要ト認ムルトキハ市町村長(市制町村制ヲ施行セザル地ニ在リテハ市町村長ニ準スヘキ者)ヲシテ癩患者及其ノ同伴者又同居者ヲ一時救護セシムルコトヲ得

第四條 主務大臣ハ二以上ノ道府縣ヲ指定シ其ノ道府懸内ニ於ケル前條ノ患者ヲ収容スル爲必要ナル療養所ノ設置ヲ命ス.ルコトヲ得
前項療養所ノ設置及管理ニ關シ必要ナル事項ハ主務大巨之ヲ定ム
主務大臣ハ私立ノ療養所ヲ以テ第一項ノ療養所ニ代用セシムルコトヲ得

第五條 救護ニ要スル費用ハ被救護者ノ負擔トシ被救護者ヨリ辮償ヲ得サルトキハ其ノ扶養義務者ノ負擔トス
第三條ノ場合ニ於テ之カ爲要スル費用ノ支辮方法及其ノ追徴方法ハ勅令ヲ以テ之テ定ム

第六條 扶養義務者ニ對スル患者引取ノ命令及費用辮償ノ請求ハ扶養義務者中ノ何人ニ對シテモ之ヲ爲スコトヲ得但シ費用ノ辮償ヲ爲シタル者ハ民法第九百五十五條及第九百五十六條二依リ扶養ノ義務ヲ履行スヘキ者ニ對シ求償ヲ爲スコトヲ妨ケス

第七條 左ノ諸費ハ北海道地方費叉ハ府縣ノ負擔トス但シ沖縄縣及東京府下伊豆七島小笠原島ニ於テハ國庫ノ負擔トス

一 被救護者又ハ其ノ扶養義務者ヨリ辮償ヲ得サル救護費
二 檢診ニスル關スル諸費
三 其ノ他道府縣ニ於テ癩豫防上施設スル事項ニ關スル諸費

第四條第一項ノ場合ニ於テ其ノ費用ノ分擔方法ハ關係地方長官ノ協議ニ依リ之ヲ定ム若シ協議調ハサルトキハ主務大臣ノ定ムル所ニ依ル
第四條第三項ノ場合ニ於テ關係道府縣ハ私立ノ療養所ニ對シ必要ナル補助ヲ爲スヘシ此ノ場合ニ於テ其ノ費用ノ分擔方法ハ前項ノ規定ニ依ル

第八條 國庫ハ前條道府縣ノ支出ニ對シ勅命ノ定ムル所ニ從ヒ六分ノ一乃至二分ノ一ヲ補助スルモノトス

第九條 行政官廳ニ於テ必要ト認ムルトキハ其ノ指定シタル醫師ノ檢診ヲシテ癩又ハ其ノ疑アル患者ノ檢診ヲ行ハシムルコトヲ得
癩ト診断セラレタル者又ハ其ノ扶養義務者ハ行政官廳ノ指定シタル醫師ノ檢診ヲ求ムルコトヲ得
行政官廳ノ指定シタル醫師ノ診斷ニ不服アル患者又ハ其ノ扶養義務者ハ命令ノ定ムル所ニ從ヒ更ニ檢診ヲ求ムルコトヲ得

第十條 醫師第一條ノ届出テ爲サス又ハ虚僞ノ届出ヲ爲シタル者ハ五十圓以下ノ罰金ニ處ス

第十一條 第二條ニ違反シタル者ハ二十圓以下ノ罰金ニ處ス

第十二條 行旅死亡人ノ取扱ヲ受クル者ヲ除クノ外行政官廳ニ於テ救護中死亡シタル癩患者ノ死體又ハ遺留物件ノ取扱ニ關スル規定ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

  附則

本法施行ノ期日ハ勅命ヲ以テ之ヲ定ム

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