2010年09月09日

自覚なき差別意識

療養所制度の発足以来多くの療養所で大小さまざまの紛争が発生したが,昭和11年に起こった長島愛生園での紛争(長島事件)は,原因が患者側と療養所側との間にわだかまっていた根本的な対立関係に根ざしており,当時の療養所が背負わされていた矛盾が一度に露呈してきた事件,すなわち起こるべくして起こった事件といえる。

長島愛生園でも,職員の不足を補うため,患者が園内の労働に従事していたが,8月10日,園当局が抜き打ち的に患者作業を総点検し,不正を摘発したことに患者側が抗議して翌日から作業を拒否,待遇改善を求めてデモをおこなうなど園側と対立を深めた。8月13日,患者側の会合を職員が盗聴しているところを発見され,患者は激昂,翌14日,岡山県警察部の警官27名が到着するなか入園者大会を開き,自治制度の確立,園長光田健輔ら四名の職員の辞職勧告を内務省に嘆願することを決定した。8月18〜19日には患者側はハンガー・ストライキに突入するなどたたかいはエスカレートし,結局,8月28日,園側は自治会を「自助会」として認め,患者側も作業ストライキを中止し,ここに事件はいちおう解決した。

(藤野豊編『歴史のなかの「癩者」』)

なぜこのような事件が起こったのか。

当時(1935年),愛生園は890名の定員に対し,1163名を超えるという定員超過の状態であった。内務省の治療費や食費の予算は定員分しか用意されていないから,患者関係経費は実質3割も低下し,入所者の生活条件や医療は悪化の一途をたどり,居室も12畳半に8名から10名,夫婦舎も6畳1間の部屋に2組の夫婦を同居させるという非人道的な状態であった。それにもかかわらず,園は根本的な解決を図ろうとはしなかった。
また,定員超過により,患者作業の作業賃の支出が3倍以上の増となり,作業賃も低下させられていた。そのため,患者の不満は蓄積し,8月10日,夏期早朝作業のはじまる午前5時半,職員による作業場の総点検を実施したことや,同じ日,逃走を計画していた4人の患者が検束され,監禁室に入れられたことを機に一気に爆発したのである。


長島事件については,別項にて詳しく検証したいと考えている。ここでは,長島事件が決着した後,事件の全責任を一部の「不良患者」「社会主義者」に押しつけ,患者への弾圧強化を強めたことで,逆にハンセン病関係者の間から患者への非難が集中したことを取り上げたい。

井の中の蛙大海を知らず,とか。実際井の中の蛙の諸君には,世間の苦労や不幸は判らないのであります。随って,如何に諸君が幸福であるか,如何に患者が満ち足れる生活をさせて貰ってゐるかを知らないのであります。蛙は蛙らしく井の中で泳いで居ればよいのであります。生意気にも,大海に出様等と考へる事は,身の破滅であります。又,大海も蛙どもに騒がれては,迷惑千万であります。身の程を知らぬと云ふ事ほど,お互いに困った事は無いのであります。(中略)患者諸君が,今回のごとき言行をなすならば,それより以前に,国家にも納税し,癩病院の費用は全部患者において負担し,しかる後,一人前の言ひ分を述ぶるべきであると。国家の保護を受け,社会の同情のもとに,わずかに生を保ちながら,人並みの言い分を主張する等は,笑止千万であり,不都合そのものである。

( 「長島の患者諸君に告ぐ」『山櫻』18巻10号 1936年)

この一文は,関西MTL(mission to lepra という当時の「救癩」団体)の理事で童話作家の塚田喜太郎が多摩全生園の機関誌に寄稿したものである。
MTLの理事がこのような嘲りを患者に向けて浴びせる当時,世間がハンセン病患者に対してどのように考えていたかは伺い知ることができるだろう。

隔離にじっと甘んじている限り,患者は「同情」されるのであるが,隔離に少しでも不満を表明すると,その「同情」は非難や嘲笑に取って代わるのであった。

(『歴史のなかの「癩者」』)


このような世間の認識は決して昔のことではない。まったく同じ反応が最近でも起こっている。それは,「アイスターホテル宿泊拒否事件」に関連した世間の反応である。

今回のアイスター事件については,ハンセン病と回復者に対する差別の二重構造が明らかになったという指摘がある。ホテル側の表面的な差別の背後に,社会の広範で深刻な差別構造が存在している。菊池惠楓園自治会がホテル側の形式的な謝罪を拒否したところ,抗議の手紙やファックスが殺到した。こうした抗議の存在こそが正面から見据えるべき問題の本質だと考えられる。

回復者たちが同情されるべき存在としてうつむいて控えめに暮らす限りにおいては,この社会は同情し,理解を示す。しかし,この人たちが強いられている忍従に対して立ち上がろうとすると,社会はそれに理解を示さない。それが差別・偏見であることに気づいていない。このような指摘である。差別意識のない差別・偏見といえようか。深層に入ったものだけに,根が深く,その是正は必ずしも容易ではないが,人の手で作ったものを人の手で壊すことができないはずはない。この差別意識のない差別・偏見も,自然発生的なものではなく,人為的に,それも「無らい県運動」等によって政策的に作られたものだからである。

(『ハンセン病問題検証会議最終報告書』)

最初は宿泊を拒否されたハンセン病回復者に好意的だった人々が,ホテル側の謝罪を拒否した途端に回復者に向かって投げかけた侮蔑的な言葉と攻撃は,まさに「同情」の裏に潜んでいた「差別意識」を露呈させたものであった。

「汚い, 人前へ出るな」
「人間と同じ行動をとるからホテルに迷惑かけやがったんだ」
「豚の糞以下」
「化け物」

恵楓園の自治会に寄せられた中傷文書は4月末までに 117通. 電話はゆうに 200件を超えた. 多くは無記名だった。.

「お前らはぬくぬくとしていて, ホテルは廃業に追い込まれたんだぞ」

自治会の役員たちは一件ごとに丁寧に説明する。40分も受話器を離さない相手もあれば, 一方的に話して, 切ってしまう人もいる。北海道, 東京, 大阪 …… 発信元は全国だ.。これほどあからさまな憎悪が向けられたのは, 園が始まって以来のことである。そこまでの憎悪がなぜ向けられることになったのか。
「紋切り型の謝罪文を読み上げただけ. 事前に『本社の決定事項』と言っていたのに, 総支配人は『私の責任』と言うばかりで事実と違う。 トカゲの尻尾切りのような状態では, 謝罪文を受け取ろうにも受け取れませんでした」
太田明・自治会長は振り返る。
この時, いらだった入所者からヤジが飛び, テレビの生中継が声を拾った.。新聞には, 深々と頭を下げるホテル側の写真とは対照的に, 自治会は「謝罪文を受け取り拒否」などとする見出しが躍った。
自治会への誹謗中傷が始まったのは翌日からだった。

「謝罪されたら, おとなしく引っ込め」
「同情していたが, それほど偉いのか」
「病気を盾に, あまりいい気にならないでください」

自治会の真意は伝わらなかった。 「弱者が弱者でいるうちは同情されるが, 少し頭を持ち上げると,『生意気』とたたかれるのが今の世の中」と受け止めた入所者は多い。
だが, それ以上に,
「恐ろしい伝染病の患者ををそう簡単に平等扱いする人は絶対にいないことをあなた方は自覚してください」
などと無知丸出しの中傷が少なくなかった。

こんな手紙も相次いだ。

「気持ち悪いのは事実でしょ. 断ったホテルに拍手. 権利と騒ぎなさんな. 調子に乗らないの」
「身も心もいやす旅なのに台無しだ」
「湯船の中に元患者が何人かつかっていらっしゃったら, 私は風呂の中には 100% 入らず, シャワーをして引き揚げると思います」
「ホテルを潰して何がうれしいのか」

逆に自治会には, 何か動きがあるごとに手紙や電話が押し寄せ, 入所者たちは社会から集中砲火を浴びたのである。
「一通の手紙がこれほど心に刺さるのか。この痛みは一生消えないでしょう。宿泊拒否よりもその後の方がこたえた」という太田会長が, 胸をえぐられる思いで見つめたはがきがある。

「仏が与えた罰は一生や二生では贖罪できるものではない」などと書かれた真ん中に, テレビの画面が複写して張ってあった.。それは, 詩人としても有名な入所者が初めて里帰りしたのを取り上げた番組の一コマだった.。東北地方の農家に生まれ, 後遺症で失明し, 両手両足も不自由になってしまった。 しかし, 入所 60年にして, ようやく里帰りを果たし, 雪深い故郷で同級生の町長に迎えられた.。その笑顔が張ってあったのだ.。

「そこまでやるか」
太田会長は涙を抑えられなかった。


飲食店に行ったら欠けた食器で出され, 食後は一切合切を捨てられた -- などという体験を少なからず持つ入所者は「拒否自体は案外慣れていて, 身のかわし方は上手」という。むしろ入所者が気を使ったのは, 息子ほどの世代の県の担当者だった。
「参加した全員が慰めてやろうと思ってね. 夕食ではお酒を飲まない人まで歌ったり, 職員とダンスをしたりでした. 高齢の方まで誰一人中座しなかった」
入所者たちは, 自らは拒否されても, なお他人を心遣っていたのである.。
そうした入所者たちに浴びせかけられた中傷は, あまりに的外れだった.。

「今度は金銭の要求ですか !」という手紙があった。自治会が要求したのは, 金銭ではなく, 名誉だった。金銭と言えば, 国家賠償訴訟で勝った原告は「園外の家族に迷惑をかけたからと, 連絡もない家族に右から左へと渡した人が多かった。それさえ拒否された人もいた」という。

「税金で運営される施設で生活していますね。差別 (区別) されて当然です。自己中心的な現在の日本の形をあなた方の行動で感じました」との文面もあった。
園の運営は不自由者の 24時間の世話から, 食材生産, 清掃, 火葬, 理髪とあらゆる業務が「患者作業」という超低賃金の強制労働で賄われていた。
「税金で運営」どころか, 入所者の労働で維持されていたのだ。清掃に至っては98年まで続き, 一部の事務は今も残っている。重労働が後遺症を悪化させた人もいる。事実はまったく逆である。

「無菌者なら社会のために働きなさい」これは入所者の胸を貫く言葉だ。

平均年齢 76歳. 恵楓園で障害を持っていない入所者は約500人のうち 40人程度しかいない。

【葉上太郎】 我々は再び「人間抹殺」の愚を犯すのかハンセン病・元患者の宿泊拒否事件 大量の誹謗中傷文書が示す「無知と実像」
『サンデー毎日』2004/05/30 毎日新聞社 より抜粋して転載

彼らの「同情」「憐憫」の本質は,自分は彼らとは「ちがう」という意識である。自分はハンセン病ではないという意識である。それは,ハンセン病に対する差別と偏見を内包している。

ハンセン病の実態を知らず,隔離政策の歴史を知らず,一面的な報道から判断する。自分の無知に気づかず,しかも自らを「正義」「善」「弱者の味方」と思っている。
感情的な文章が,攻撃的な言葉が,いかに的外れであり,入所者の心を傷つけるか,さらには「人権侵害」であるかなど思いもせず,彼らは発言している。

「自覚なき差別意識」がもっとも恐ろしい。「正義」「正しさ」という判断があれば,目的のためには手段は選ばない。相手にダメージを与えることが「目的」であれば,最も有効な「手段」を選択する。

その際,自分の「確信」は決して問い直しはしない。自分は正しいことをしているのだから。
あるいは,自分の「感情」を肯定する。「生意気だ」「〜のくせに」等々の発言が,自分をどの立場においての発言であるかなど考えもしないだろう。自分を「上」に置いているということに気づきはしない。

「同情」「憐れみ」の対象として「みてあげていた」のに…である。


「同情」「憐れみ」「いたわり」の感情の欺瞞について鋭く指摘したのは,『水平社宣言』である。

…種々なる方法と多くの人々とによってなされたわれらのための運動が,なんらのありがたい効果をもたらさなかった事実は,それらのすべてが,われわれによって,また他の人々によって,つねに人間をぼうとくされていた罰であったのだ。そして,これらの,人間をいたわるかのごとき運動 は,かえって多くの兄弟を堕落させた…

われわれは,かならず,卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって,祖先をはずかしめ,人間をぼうとくしてはならぬ。そうして人の世の冷たさがどんなに冷たいか,人間をいたわることがなんであるかをよくしっているわれわれは,心から人生の熱と光を願求礼讃するものである。


北条民雄の反問が,人間としての唯一の救いであるように思う。

諸君は井戸の中の蛙だと,癩者に向かって断定した男が近頃現れた。勿論,このやうな言葉は取り上げるにも足るまい。かやうな言葉を吐き得る頭脳といふものがあまり上等なものでないといふことはもはや説明の要もない。しかしながら,かかる言葉を聞く度に私はかつていったニイチェのなげきが身にしみる。「兄弟よ,汝は軽蔑といふことを知ってゐるか,汝を軽蔑する者に対しても公正であれ,といふ公正の苦悩を知ってゐるか」全療養所の兄弟諸君,御身達にこのニイチェの嘆きが分かるか。

しかし,私は二十三度目の正月を迎えた。この病院で迎える三度目の正月である。かつて大海の魚であった私も,今は何と井戸の中をごそごそと這い回るあはれ一匹の蛙とは成り果てた。とはいへ,井のなかに住むが故に,深夜沖天にかかる星座の美しさを見た。
大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚にこの星座が判るか,深海の魚類は自己を取り巻く海水をすら意識せぬであろう,況や−

( 「井の中の正月の感想」『山櫻』19巻1号 1937年)

北条民雄の全集では読んでいたが,長島事件との関連があったことは知らなかった。北条のこの切り返しは見事である。塚田喜太郎の一文と対比させれば,塚田の軽薄な高慢さと差別意識が浮き彫りになる。

「大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚」という表現は,当時の隔離政策への痛烈な批判である。

posted by 藤田孝志 at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 長島愛生園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月13日

対岸から

長島を対岸より初めて眺めた。

先日,友人と「岡山いこいの村」を訪ねた。このレジャー宿泊施設の裏山には野鳥観察コースがある。散策のつもりで歩いてみた。日差しが強く,日中の暑さに汗が流れる。

夏の暑さ,太陽の光,汗をかくことも必要と思い,自然の中で過ごそうと思ってここに来たのだからと,山の中の散策にチャレンジしたのだが,さすがに日中の山登りは堪えた。しかし,標高300m近くになると,吹く風も清々しく,実に心地よい。木陰で,木々の間を吹く風に身を任せていると,流れる汗がひんやりとさえ感じるほどだ。


山の中程まで登って,少し開けたところで振り返ると,そこに「長島」があった。

目の前に広がる小豆島の姿,快晴だったのですごく近く感じられた。その手前に小さく,2つに分かれた「長島」の全景が見えた。私は,長島をこのように対岸から,その全貌を眺めるのは初めてのことだ。今まで,このように「対岸」から見ることは一度もなかった。

しばらくの間,漠然と眺めていたが,そのうちに何とも言えぬ違和感が心に広がっていった。長島の職員棟,礼拝堂,医療棟,不自由者寮舎など患者住宅が緑に覆われた山の狭間から見えるのだが,そこに生気が感じられない。まるで無機質な工場のようにも見える。

たぶん私は,そこが「愛生園」であることを知っているから,そう思うのかもしれない。何十回となく通い,長島のほぼすべてを歩いている私にとって,静寂ではあっても生活の気配を感じる愛生園なのに,対岸から見る愛生園はまったく別の世界に感じてしまう。人の気配,生活感がない。動きがないのだ。そして何よりも強く思ったのは,人工物の感覚だった。

『「隔離」という病い』の中で武田氏も書いているが,まず最初に「建物」があり,そこに人々が住み着いたのであって,人間が住むために切り開き住居を建てたのではない。

…どこでも同じような長屋が並ぶ風景が延々と続いた。…風景はいかにも退屈だった。この差異の乏しさにこそ,僕はここを設計した人たちの意識が示されているように感じられた。
少なくともそれは,そこに暮らすここの人びとの生活の個性を尊重する姿勢ではなかった。はじめから「かた」にはめようとする意志,どんな暮らしぶりの人でも同じ「かた」にはめられると信じて疑わない暗い傲慢さのようなものを僕は感じはじめていた。

知らない人にとっては,リゾート地のように感じるかもしれない。宿泊客の何人かに聞いてみても,そこが国立ハンセン病療養所であることを知っている人はいなかった。島に住む人の住居かバンガロー,倉庫,あるいはホテルかペンションのように思っていたそうである。
ホテルの前庭に,一望できる島々の展望案内板があるが,島の名前のみが記されているだけで,どこにも療養所とは記されていない。ホテルのパンフレットにも,ブルーラインの道の駅にある周辺の景勝地を記した案内図にも,長島は書かれていても療養所の名はない。

ひっそりと静まりかえった対岸の島,建物だけが見える。十数年後,住む人のいなくなった長島,施設だけが残る島として,変わらぬ風景となるような気がする。
これが光田健輔の望む長島の未来像であり,国家が望むハンセン病撲滅が成し遂げられた姿だったのだろうか。

ハンセン病という「病」が地上から消え去ることは,ハンセン病患者が消滅することである。これが光田健輔の信念だった。完全隔離・終生隔離・絶滅隔離の信念である。

私は,2日間,幾度となく長島を見続けていた。部屋から,前庭から,ロビーから,様々な角度から長島を眺め続けていた。


写真を撮ることさえ忘れていた。翌日,デジカメを持ってきていたことを思い出して数枚を写した。しかし,昨日のような快晴ではなく,雲が重く空を覆っていた。まるで,らい予防法のため島内から出ることができず,終生隔離されていた当時の彼らの心を投影しているかのようだった。


対岸から「長島」を見て,あらためて「隔離」の意味を考えている。そして私は,自分自身が「対岸」に生活している人間であることを強く感じている。隔離や差別においても,私は「対岸」にいるのだ。この「立場」の自覚が重要である。

眼前にある島で何が起こっていようとも,隔絶された島の対岸に生きるかぎり,我々は無関係であっても無関心であっても生きていくことができる。知ろうとしなければ,見ようとしなければ,そこが何であっても,何が起こっていても,対岸から眺めるだけで生きていくことができる。

そう考えたとき,このような政策を実行した国家の責任ばかり追及することの欺瞞を感じる。国家も人間が創りだし,政策も人間が作り出し,それを黙認しているのも人間なのだ。責任追及や犯人捜しのような批判に終始することよりも,歴史的教訓としての検証作業の方が重要であると,私はそう思う。そして,現在を生きる人間の一人として,私自身の生き方と在り方もまた検証すべきと思っている。
自己の正当化と他者の批判からいったい何が生まれるというのだろう。虚しい自己満足しか残らないように思う。私はそんなもののために,自分の人生を生きようとは思わない。

光田健輔や彼の後継者たちを断罪することや責任を問うこと,彼らの言動の誤謬と影響を批判すること,私はそれらを目的とはしていない。外国との関係からハンセン病対策を終生絶対隔離政策とした明治以後の近代国家の誤謬と責任を批判することも目的ではない。批判が目的となってはいけないと思っている。批判のために「検証」作業があってはならないと思っている。
批判が目的となれば,目的のために手段が正当化される。いかに傲慢で独断的であっても,辛辣な表現であっても,揶揄・愚弄する言説であっても,それらが「批判」であることで正当化されるというのは,まちがっていると私は思う。

私が問い続けるのは,「なぜ」である。なぜ隔離政策が生まれたのか,なぜ「らい予防法」がつくられ,それが今日まで改正も廃止もされなかったのか,等々の「なぜ」を明らかにしていく「検証」作業を通して,関わった人間の考え,その当時の国家を取り巻く情勢,歴史過程が解明され,今日の様々な課題を解決していく「視点」が見えてくると考えている。


長島愛生園の対岸に立つことで,今まで見落としていた視点を知ることができた。愛生園の中,ハンセン病療養所の中に入らないと見えないものもある。しかし,「木を見て森を見ない」と同様に,愛生園を外から見ることも大切である。

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2010年07月29日

新良田教室

以前,教師の予防着のことで少し問題になったことがあったが,ここにはまだ厚い白衣の壁がある。・・・・・我々は生徒である前にH氏病患者であるという意識を植え付けられている。それは,若い魂の余りにも重い負担である。しかも,我々は教師に対する時,先生と生徒という以前に,健康者と患者ということを深く意識する。・・・・・新良田教室の先生の中に<季節風の彼方に>に出て来た先生のような人が現れないとは,私は思わない。しかし,現実にあれだけの情熱を持った先生がいるとは,残念ながらいい切れない。先生の情熱を阻む何かが,この島の中にも,生徒自身の中にも存在する,生徒にとって異邦人である先生たち・・・・・。白ずくめの予防着,予防ズボン,予防帽。そこには厚い白衣の壁が厳然と存在する。行き帰りに校門で逢う背広姿の先生たちに,我々は自分の知らない,どこか遠い処の人間を考える。そして白衣の先生に始めて近づくとこができる。が,その距離は限られている。

posted by 藤田孝志 at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 長島愛生園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

再び「ハンセン病問題」を問う

今夏,私に「ハンセン病」について詳しく教えてくれ,現地研修に際しても快く講師を引き受けてくれた長島愛生園前園長の中井栄一医師が亡くなった。詳しいことはわからないが,広島にて診療中に倒れられたとのこと。彼が副園長のときからの付き合いだから十年以上になるだろう。自身が詠まれた漢詩集をいただいたことも,夜遅くまでいろいろなお話しを聞かせてくれたことも,退官後はインドで治療活動に専念したいと今後を語られていたことも,…すべてが懐かしく思い出される。しかし二度とお会いすることはできない。「京都に遊びにおいで」と,退官された直後であったか,最後に会ったときの姿と声が脳裏に蘇る。もっとたくさんのことを教えていただきたかった。残念でならない。

今年,古びた一冊の本を手に入れた。昭和33年発行の『愛生園日記』である。日本のハンセン病治療の先駆的役割を果たした光田健輔氏の自伝的回想録である。読みながら腹立たしさに本を閉じたことが幾度もあった。時代の制約もあっただろうが,あまりの認識と考え方のちがいに慄然とする。

先日,現地研修の案内をしたとき,変わりゆく長島の風景に「ハンセン病問題」もここに暮らす回復者の方々の生命とともに消えてしまうのか,ふとそんな寂寥感が心を過ぎった。

HPに掲載していた拙文を,ここに転載する。


ハンセン病患者の置かれてきた社会的立場や周囲の彼らに対する偏見・差別の様態と対応を見るとき,彼らは周囲から「人間」とは見なされていなかった事実を我々は認識すべきである。「同じ人間」としての差別ではなく,「人間と同じではない」という最も残酷な差別を受けてきたのである。だからこそ,彼らが訴訟で訴え,勝訴の後のインタビューで「これで人間として生きられる」と語った意味が理解できるであろう。長島大橋が,なぜ「人間回復の橋」なのかを理解できるであろう。被差別民も,被差別部落民も同じである。彼らを「人間」と見なさなかった我々の対応や意識こそが「差別と偏見」を生みだしてきたのである。「らい予防法」の廃止が「解放令」であるならば,今回の裁判と勝訴は「解放令」以後の解放運動と「同和対策審議会答申」に重なるように思える。このどちらにも共通するのは,「解放令」も「らい予防法廃止」も政府の責任であり,政府の対応であったという我々の「他人事」の意識が大きな課題として残っていることである。しかし決定的な違いは,約130年の歳月が,確実に「人権を拡大してきた」という歴史的事実である。もし「解放令」以後に,多くの人々の解放への努力と運動と思想がなければ,あるいは他の人権問題の解決への歩みがなければ,どうなっていただろうか。同和教育の確かな歩みがなければ,どうなっていただろうか。我々の歩みは確実に未来を切り開いていると確信する。生徒に語るべき展望は,差別の悲惨な実態である「負の遺産」ではなく,わずかな歩みであったとしても確実に前進してきた「人権拡大の歴史」であると思う。


長島愛生園に高校があったことは,現地研修に参加された方以外にはあまり知られていない。まして,どのような教育現場としての日々であったかは語る者が少ないため,闇の中に消えてしまいつつある。

教科書やプリントは熱湯消毒ができないため,スチーム蒸気を1時間程もかけてから手に取ったこと,教諭は白い予防服と帽子を着用し,生徒は職員室の立ち入りを一切禁止され,1日の教務が終わった教諭は風呂に入り身体を洗浄して帰路についたこと,等々の差別と人権侵害の凄まじい実態があった。無知が生み出す偏見と差別,ハンセン病のこと(遺伝ではないことも,感染力が弱いことも)を知っていても一抹の不安と恐怖心,それらがいつしか偏見や先入観を科学よりも優先させ,それらの行為を万に一つにも感染したらという理由によって,差別を差別とさえ思わなくなってしまったという話に,人間の恐ろしさを思い知らされる。

職員室の前にはモールス信号のような個々の教師別に「合図の音」が出る装置があり,教師に用事のある生徒は「合図の音」で教師を呼んでいたそうだ。それをやめてほしいという生徒の要望に心ある教師が応え,要求運動を起こし,廃止させた話を聞いた。

差別との闘いは日常の思いと願いから生まれる。おかしいと気づき,それを声に出し,動きとすることで,人権はつくられ拡がっていった。ここにも,我が身の境遇ゆえにただ差別を甘受して生きていたのではない姿があった。わずかでも,理不尽なこと,不当なことに立ち向かっていった。おかしいと感じる感受性こそが人権感覚である。その感性を失わなかった彼らをすばらしいと思う。それは,彼らに探求心・向学心があったからだと思う。その学びの中で磨かれた感性と知識が彼らを立ち上がらせたのだ。 

真か虚かを見分ける眼をもつことも大切だろう。そのために学ぶことも大切だろう。しかし,知ったことに対する責任を果たすことが何よりも大切と思う。高橋和己は「知ったことに対する無関心は罪ではなく,人間の物化である」と言った。何のために知るのか,知ることだけで満足するのでは何も変わりはしない。万感の書物を読み,あれやこれやと批判しても,それは机上の話でしかない。諸葛孔明は森羅万象を知るのみならず,軍師として仕えて民のために行動したではないか。たとえ知識がなくとも,ハンセン病者を世話した中世非人の方がまだましと思う。


中世においてハンセン病者は「カタヒ」と呼ばれ,「えた」「ひにん」と同じく賤民として賤視を受けていたことは,部落史研究において明らかであるが,断片的な研究が多く,歴史的な全体像は今後の課題と思う。横井清氏は「病者は諸国の『非人宿』に身をおいた」と『光あるうちに』で述べているし,上杉氏は北陸地方でハンセン病者が「物吉」とよばれ賤民として処遇されていたと述べ,また「非人」の中にハンセン病者が「非人」の中に含まれていたとも述べている。

『もやい』(ながさき部落解放研究紀要)の43号に,幕末の日本にオランダ商館医として来日したドイツ人オットー・モーニケが書いた『日本の「エタ」あるいは「エトリ」』の解説と翻訳が載っていた。彼は日本のことに詳しい日本人から聞いたことだと自分の根拠を明示しながら,部落の起源をハンセン病との関わりに求めている。彼の学説は学問的には実証できないが,この論文を見聞録として読むと,江戸時代の「エタ」やハンセン病者がどのような生活状態であり,周囲(世間)や社会からどのような処遇を受けていたのかがよくわかる。彼は,「エタ」(「非人」と私は思いますが)の集落で一緒に生活していたハンセン病者を見て,ヨーロッパにおいてハンセン病者が隔絶されていたことと関連させて,彼は起源をハンセン病に求めたのではないかと思う。彼の見聞録は外国人から見た部落問題の実態として貴重な史料と考える。

人権意識とは「感性」であり「感受性」だと思っている。昨年の夏,療養所に入所されている方が古里を訪問するNHKのドキュメンタリー番組があった。温かく迎える古里の人々に感動を覚え,時代の流れと社会啓発の大切さを感じながら見ていた。しかし最後の場面で,思わずはっとした。古里の人たちが別れに際して発した言葉は「いつでも何度でも来てください」であった。「帰ってきてください」ではなかった。何十年の歳月が意識を変えたのであろうか。同郷の意識があれば,「帰ってきてください」だろう。意識は言葉に表れる。寂しいことだ。
たかが言葉かもしれないが,私は「帰って」ではなく「来て」と言った人間の認識を考えてしまった。ハンセン病に対する人々の認識は大きく変わりつつあるけれど,未だ根底には社会的な偏見と,偏見が生み出す差別が現実に存在していることを垣間見た思いがした。ハンセン病者を出した家や家族が周囲から受けた偏見と差別は想像を絶するものであることは,療養所の方々からの聞き取りで知っていたが,その痕跡は今も人々の認識に残っているのだと改めて知った。


1900年(明治33)内務省による第1回のハンセン病調査が行われ,約3万人のハンセン病者がいると報告されている。第2回は1906年で約2万3千人,第3回は1919年で約1万6千人とされている。1940年まで続けられた不定期な調査ですが,それでも1万5千人以上は報告されてはいません。しかし,絶対的隔離主義を積極的に提唱し,政府の隔離政策の中核的役割を果たしてきた光田健輔氏が「癩隔離所設立の必要に就いて」と題する論文を発表したのは1902年でした。彼は,この中でハンセン病は感染症であり,隔離の必要性があると力説している。この論文を読むとき,医学的研究が不十分な時点での判断であったとしても,あまりにも差別的な状況分析と見方であると思う。しかも,「…病勢次第に旺盛となり其数実に十万を下らざるべし…」と書き,「社会に病毒を蔓延せしむること多大なるは論を埃たざる」として,早急なる隔離政策を実行すべきであると提言している。内務省の調査を彼が知らないはずはないのだが…。


光田氏のハンセン病対策のもう一つの柱は「断種手術(ワゼクトミー)」である。彼が違法を承知で最初に手術を実行したのは,1915年であった。感染病であると断言している光田氏がなぜ断種手術を提唱し,実施していったのだろうか。明らかに矛盾しているにもかかわらず…。彼が断種手術を実行した時点で,内務省内では意見は賛否分かれていた。内務省内の衛生技師であった氏原佐蔵はドイツの優性思想の影響を強く受けた断種推進論者であり,光田氏は彼の意見に左右されたと考えられる。光田氏は感染しやすい体質は遺伝すると考えていた。しかも胎内感染の可能性が高いとも考えていた。一方で優性思想の影響を強く受け,他方で感染病であると言いながらも遺伝を否定し切れていない光田氏の認識が,今日的な悲劇を生み出していったのだ。彼の考えは,やがてハンセン病者に対する中絶を合法化する「優生保護法」へとつながっていった。「排除」「社会外の存在」「隔絶」「隔離」をキーワードとして考えるとき,ハンセン病問題と部落問題が共通の概念に括られて,歴史的に同様に扱いを受けてきたことが見えてくる。差別してきた側の論理もまた共通であったことも見えてくる。それは「同じ人間と見なさない」「人間そのものの対象外としてとらえる」論理であり,その論理を支える理論も各時代によって共通であったと思う。まさに「人権を剥奪された存在者」であったのだ。だからこそ我々は,すべての人々が人間としての幸福な生活を確立するために「人権を拡大していく」ことが大切なのだと考える。


愛生園には全国で初めて、そして唯一つくられた高等学校があった。私の手元に、その高校を巣立っていった生徒たちが,過酷な状況の中で懸命に明日を探そうとする思いが綴られている卒業文集がある。その一つ紹介したい。

…今年の夏休み、私は母につきそって与論の中心部である茶花へと出かけた。観光シーズンであるため、町中は観光客でごったがえしている。車の往来もはげしい。そんな中を私は、母にぴったりくっついて歩いた。それは視力がうすく、足がさがり、パッタンパッタン歩く母をカバーするためである。しかし、私達に目を向けない人は、だれ一人いません。時には後ろをふり返る人さえいました。私にできることといったら、母をみつめている人が顔をそむけるまで、にらみ返してやることだけでした。しばらく行くと、あるはき物の店が目についた。「ごめん下さい。」店にはいると、「いらっしゃいませ。」中年のおじさんがニコニコしながら顔を出した。ところが、母の姿を見るなりその人は急に変な顔つきになった。私はそんなことなどかまわずに、ずらっと並べられているはき物の中から、母の好みにあわせて、いくつかを足もとに置いた。「母ちゃん、はいてみたら。」母がぞうりをはこうとしたとたん、その人は、母に向かってこう言ったのです。「どうぞ、そのきたない足ではかないで下さい。」と、私は、その人の顔をみつめながら、「あなたはそれでも人間ですか。」そう言って、その店から出て行きました。言いたいこと、思っていることが言葉になって出てこないのです。その一言が精一杯でした。
 「私のおかげで、つらい思いばかりして許してね、春美。」そう言って、家路に向かう母。何かにおびえながら、肩をふるわせ、悲しそうな母のうしろ姿を、私はどんな思いで見つめたことだろう。「母ちゃん。」何回も心の中で叫びながら、帰る道すがら、私の顔は、涙でぐしゃぐしゃでした。どうして、同じ人間なのに、ライであるというだけで、これほど差別するのでしょうか。悲しい。自分と同じ人間を差別し、冷たい目で見つめる。そんな人にはらが立つのと、また、差別を受けながら、それをどうすることもできない自分自身が、情けなく、くやしくてなりません。
私は、今日一日のできごとを忘れることはないと思います。それと、母ちゃんのあの後ろ姿と。ライを理解することが叫ばれている今日でも、このような差別があるのです。ライへの理解は、まだある一部の人にしか理解されていないのです。私は、この世から差別が消え去るまで戦うつもりです。

         (第22期卒業文集 昭和55年)


金泰九さんは「ライ予防法が廃止されたことはうれしいが,廃止されたことによる恩恵は実際にはほとんどない。なぜなら,私たちは黙って耐えていたのではなく,運動し闘って,『ライ予防法』をほとんど骨抜きの<ザル法>状態にしていたからだ」と言う。昭和45年頃には,もはや「ライ予防法」の「強制隔離」や「外出禁止」などの条項は形骸化された状態であったそうだ。ハンセン病患者は,マスコミが書くように,厳しい隔離の中で人権を無視された悲惨な生活をしていたのではない。園内の環境改善,待遇改善を,「隔離政策」当初から,開園された直後から要求してきたのである。自治会を組織し,全国にネットワークを広げ,時に理不尽な懲罰を受けながらも地道な闘いをしてきたのである。権利を勝ち取ってきたのである。今回の訴訟も,その延長上にある。決して,今になって立ち上がり闘ったのではない。

先の少女の決意は,彼らすべての思いであり,だからこそ彼らは自らの人権を求め,人間としての当然のあるべき生き方を求めてきたのである。人権教育とは,人権総合学習とは,我々の先駆者が「人権拡大の歴史」を築き上げてきた姿を学び,その志を受け継ぐ者としていかに生きるかを学ぶ学習である。過去の悲惨な実態を知ることが学習ではない。過去の過ちを反省するだけでは展望は見えてはこない。我々は,ハンセン病問題を通して,差別を克服し,人権を切り開いていく展望を学ぶべきである。

posted by 藤田孝志 at 12:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 長島愛生園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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