2010年07月29日

貴重な証言

『とがなくてしす−草津重監房の記録』(沢田五郎)
『証言・日本人の過ち−ハンセン病を生きて−森元美代治・美恵子は語る』(藤田真一編著)
『証言・自分が変わる社会が変わる−ハンセン病克服の記録第二集』(藤田真一編著)
『ヒイラギの檻−20世紀を狂奔した国家と市民の墓標』(瓜谷修治)
『「らい予防法」で生きた六十年の苦闘−第一部少年時代・青年時代』(沢田二郎)
『風花−冬敏之遺作集』(冬敏之)
『冬敏之短編小説 ハンセン病療養所』(冬敏之)

修学旅行から帰宅した夜,届いた古書の中に,ハンセン病市民学会で証言された方々に関係する書籍を注文していたものもあった。早速に書斎で紐解き,目を通し始めたが,その内容に圧倒され,修学旅行の疲れも身体の痛みも消し去り,引き込まれて眠気も吹き飛んでしまった。


修学旅行の間,移動のバスや新幹線の中では持って行った平沢保治さんの『人生に絶望はない』を読み耽っていたが,多摩全生園・国立ハンセン病資料館に到着以後に書籍販売で購入した『手紙−ハンセン病元患者と中学生との交流』(山口シメ子)を読み始め,その日の深夜に読了した。

山口さんは,先日のハンセン病市民学会2日目のシンポジウムで,新良田高校卒業生としての自分の体験を語られた方だ。ユーモアを交えた軽妙な語り口の中にも,家族離散という辛酸の体験,実際に見聞された療養所内での自殺など,胸の内にある深い悲哀が伝わってきた。
金さんともちがう境地を感じて,もっとじっくりと彼女の話を聞きたくなった。森元さんなど他の卒業生や初日のパネリストの方々に対しても同じ気持ちはあるが,特に山口さんには心引かれた。だから,偶然に見つけた彼女の著書に歓喜した。

中学生に語りかける彼女の言葉は,その一言一句が愛情と思いやり,伝えたい思いに満ちている。先ほど見学してきた資料館の展示品の数々,療養所内での生活,過酷な歴史,生々しい証言…それらが彼女の文章とオーバーラップして,私の心を強く打った。


朝早くに出発し,新幹線そして東京駅からのバスと長旅の疲れからか,また初めての緊張感からか,やや集中力を欠いていた生徒たちが,案内をしてくれた学芸員の金さんの優しさの中にも伝えようとする気迫のこもった解説に,徐々に引き込まれていくのが感じられた。
彼らは,事前学習ではある程度理解してきているが,パネル展示や紹介映像の迫力に驚くばかりの様子だった。本物の力だと痛感する。圧倒的な「事実」を眼前にしたとき,人は言葉をなくす。語れないのである。どのような言葉も軽くなってしまうことを,子どもも知っているのだろう。
もし自分なら…といった仮定の感想など,いかに陳腐なことかを,そんな感想など彼らには失礼になると感覚でわかるのだと,生徒の目線から感じた。

資料館の見学を終え,最後に納骨堂に向かった。死してもふるさとに帰ることができずに,この地に眠る数千の霊魂は何を生徒に伝えてくれただろう。家族や親族を思って自ら口を閉ざした人々もいるだろう。家族や親族を守るために拒むしかなかったふるさとに住む人々もいるだろう。差別や偏見は,両者を苦しめ続けている。

加害者・被害者の範疇だけで解決できる問題ではない。社会の変革だけでも解決はしない。あらためて差別・偏見の恐ろしさを,自分も含めて人の心の奥底に,社会の根底に巣くっている差別を容認する構造を,見たような気がする。

差別の構造を解体するには,一人ひとりの生き方を問い続けるしかない。このことを生徒にわかってもらいたい。そのために,彼らの証言がある。

posted by 藤田孝志 at 13:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハンセン病市民学会

5月8日・9日に第6回ハンセン病市民学会総会・交流集会in瀬戸内が岡山市と長島の愛生園・光明園で開催される。

9日の午後,分科会教育部会において本校の取組について実践発表をすることとなった。同僚と2人,本校が取り組んできた今までの人権教育,ハンセン病問題への取組に関する実践を発表する。
前半,私が8年前から現在までの取組の概要と本校が構築してきた人権教育及びハンセン病問題学習の視点や方針などを説明する。特に,私が人権教育主事をしていた5年前までの約3年間で取り組んだ同和教育から人権教育への移行の見直し,本校の人権教育構想の確立,その間の研究会など,そして現在までを説明したいと思っている。
後半は,同僚がこの3年間で生徒を連れての長島愛生園への交流訪問,人権学習の広がりなどを発表することにしている。


人の縁とは不思議なもので,十数年ぶりに広島の延先生とのセッションができることになり,とてもうれしく思っている。

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ハンセン病に思う

川端康成の『寒風』を読んだけど,文章力・表現力・描写力はさすがだ。繰り返し出てくる「癩」という言葉が,この時代のハンセン病に対する認知と人々の感情を今に教えてくれる。「癩」という言葉・表現に込められた「忌避」「排斥」を今更のように感じる。ハンセン病者でないから「癩」という言葉を使えたのだと思う。「癩」もまた差別(ちがい)の「徴」だったのだ。

私はこの「寒風」を読みながら,人間のもつ「他人事」の怖ろしさを痛感した。

過日,テレビのニュース番組で「愛生園長島大橋開通20周年」を特集していた。なぜ「長島大橋」を「人間回復の橋」と呼ぶのか,この「人間回復」という表現にハンセン病問題が差別問題・人権問題なのかが示されている。ハンセン病患者が「差別」されていたのは紛れもない事実なのだ。否,差別されている。番組の中,対岸に住む老婆がインタビューに答えて言った言葉,「私らにはよくわからん。関わりたくない」が,長島大橋が架橋されるのに28年間もかかった理由である。続けて,老婆は言った。「橋は,私らには散歩だけだから」

番組の中で,幼稚園の若い保護者に向けて講演をされていた宇佐美さんが語った言葉,「こんな思いをするのは私たちだけで十分です。同じことを繰り返さないでほしい。どのような病気であっても差別であっても,繰り返さないでほしい」が心に残った。差別は「知識」や「認識」を変えるだけでは解決しない。変えるべきは「人間の感性」であり,実践すべきは「人間に対する許容」です。口先でいくら差別解消を唱えようと,実際の言動が伴っていなければ<机上の空論>でしかない。


8月1日,国立療養所邑久光明園の牧野正直園長の講演『ハンセン病の歴史に学ぶ −強制隔離は必要だったか−』を聴きに行ってきた。2年ぶりに聞く話で,戦後の隔離政策とその撤廃に向けた歴史,ハンセン病問題の現状と課題などを聞かせていただいた。ハンセン病の歴史を自らの半生と重ねながらの話は時代背景や政治的動向もわかり興味深かった。

話の中で,「ハンセン病の蔑称」に関して,「なり(ま)」は元来朝鮮語であったということを教えていただいた。岡山から徳島など瀬戸内で使われていた蔑称だが,元々は朝鮮語で「梅毒(患者)」を意味する言葉であったとのこと。『広辞苑』の第2版までは,「なり=癩病」として語源も掲載されていたとも言われていた。先日,偶然に入った古書展で第2版を見つけたので,さっそく開いてみると,そのとおりに書かれていた。

九州地方で使われる「くされ(り)」や,滋賀県の東部から京都での「と(ろ)け」と同様,この「なり」も<症状>から名付けられた蔑称である。変形と機能障害は<見た目>にも顕著であり,その状態からの蔑称である。

「蔑称」とは,「相手,または相手の動作・状態をさげすんでいう呼び名」と『広辞苑』にあるが,なぜ蔑称で呼んだのか(呼ぶようになったのか)を考察していく必要がある。歴史背景だけでなく,その時代ごとの社会意識も含め,特定の人々を「蔑称」で呼んだのかを考えることで差別や偏見の本質もわかってくると思う。

医学者からではなく患者から病名を変更してほしいと嘆願して変わったのが「癩病」である。しかも,1976(昭和51)年に「らい病」とひらがな表記となり,それから20年後,1996(平成8)年に「ハンセン病」と変更された。この20年間という長い歳月を生み出したのは「他人事」の意識である。

posted by 藤田孝志 at 12:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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