2011年06月26日

三種の神器−啓発の問題点

『ハンセン病市民学会年報2009』に,分科会B「啓発活動の在り方を検証する」をテーマとしたシンポジウム報告が集録されている。


前邑久光明園園長の牧野正直先生が「三種の神器」と呼ぶ「ハンセン病に関する啓発パンフレット」の問題点が提起されている。その問題点は,次の3点である。

@「うつりにくい感染症です(ハンセン病は感染力の弱い感染症)」
A「遺伝病ではありません」
B「完治する病気です」

これについて医学的立場から,アイルランガ大学客員教授の和泉眞藏先生が明確に答えているので,彼の発言をまとめてみる。

@について
日本人については感染力が弱い。感染力が弱いのではなく,感染力は「状態」によって変わる。多様性を持って変わる。だから,現在の日本ではハンセン病はうつらない。なぜ発病しないかというと,日本人の免疫力が非常に強くなったからである。

Aについて
感染症であるから菌がいる。それの感染を受けた人間がいる。人間の側の要因があり,これが感染を受けた後,発病するかどうかに影響する。それは「遺伝的素因」によってかなり決まる。
癌にしても糖尿病にしてもいろんな疾患を含めて,遺伝的素因の影響が当たり前のように語られる。それと同じ意味でハンセン病も遺伝的素因が関係する。ハンセン病も他の病気と同じように遺伝的素因が関与するが,普通の病気である。

Bについて
ハンセン病が完治するためには「まともな医者がまじめに治療すること」が条件である。

この「三種の神器」は,かつてのハンセン病が「怖い遺伝病」であるとか「恐ろしい伝染病」であるとかという極端な認識を否定するために逆に強調された結果である。

これも光田健輔の大罪の一つである。「怖く,恐ろしい病気であり,感染しやすく,遺伝もする病気で,発症したら一家全部が悲惨な結果に陥る」というハンセン病観を宣伝し,人々の認識に植え付けた。危険な病気であることを強調することで,排除・隔離・絶滅することを肯定させた光田イズムの弊害である。
人々や社会に浸透している「まちがった知識と認識」を否定するために,必要以上に「安全な病気」であることを強調したのである。

私は「振り子の針」であると思う。片方に強く振りすぎた結果,それを強く戻そうとする(否定しようとする)あまり,今度は逆方向に強く振りすぎてしまったのである。

ハンセン病を「特別視する」のは間違っている。普通の病気である。このことを強調すべきであり,啓発の中心に置くべきである。


同様に,啓発の問題点の一つに「日常生活ではうつりません」がある。よくHIV感染病のパンフレットに書かれる言葉である。ハンセン病でも使われることがある。

「日常生活ではうつりません」,こういう言葉がよく書いてあるんですよ。そうするとみなさんね,ああハンセン病はうつりにくいのだなと思うんですけど,実際は違うと私は思います。日常生活,普通の生活しかしていないわけですよ,みんな。それでいてハンセン病にかかっている。

…セックスというのは日常生活ではないということになりますね。HIVは性的にうつる場合が多いわけですから,そうなのかということですね。ハンセン病もまったく同じで,普通の生活をしていた人がなるわけです。

…だからほんとに「日常生活ではうつりません」という言葉はいいのかどうか,それによってなんか変な安心感をみんなに与えているような啓発,これは根本的に問題があるのではないかと思います。

(上記シンポジウムでの牧野正直氏の発言)

「日常生活ではうつらない」という啓発には,次のような問題がある。

病気にかかった人は,「特別な生活をした人」であって,「普通の生活をしている自分」とはちがう人間であるという新たな偏見・差別を生み出すと同時に,自分には関係のないことなんだという逆効果が生まれる。

逆に,「感染力が強ければどうなのか」という場合,この発想からは感染源を断つという「隔離」が肯定されることになる。

ハンセン病では「なぜ感染者を収容したのか」「なぜ隔離したのか」,それは感染源を社会からなくすことで,この病気がなくなると考えたからであり,なくなれば「関係のない自分は,もはやうつることがない」という発想からである。


手元に,平成22年9月発行の厚生労働省が作成したハンセン病問題啓発パンフレット『ハンセン病の向こう側』がある。このパンフレットには「三種の神器」に関しては,牧野先生や和泉先生の指摘が改訂に反映され,次のように記載されている。

「らい菌」は感染力が弱く,非常にうつりにくい病気です。発病には個人の免疫力や衛生状態,栄養事情などが関係しますが,たとえ感染しても発病することはまれです。現在の日本の衛生状態や医療状況,生活環境を考えると,「らい菌」に感染しても,ハンセン病になることはほとんどありません。

ハンセン病は早期に発見し,適切な治療を行えば,顔や手足に後遺症を残すことなく,治るようになっています。

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2011年06月08日

「救らい思想」の陥穽

『プロジェクト 作為・不作為へ』(山本務・熱田一信編著)の第4章に「ハンセン病訴訟が明らかにしたもの」と題した徳田靖之氏の論考が収載されている。

徳田氏は,ハンセン病問題にどのような姿勢で取り組むべきかを示唆してくれた人物である。この小論の前半「1.不作為の責めを問われて」においても赤裸々に自らの弁護士としての「不作為の責任」を語っているが,国賠訴訟における彼の活動と姿勢は「傍観者」であった人間(私自身)がいかに人権問題と向き合って生きるべきかを教えてくれた。人権問題・差別問題に対する多くの視点も示唆してくれた。(これらに関しては別項にて書きたいと思っている)


ここでは後半「2.『救済』とは何か」について彼の論考をまとめておきたい。徳田氏の論考は,療養所に赴任した「医療従事者」の多くが崇高な「救らい者」であったにもかかわらず,何故に加害者と堕したのかという疑問を解明するために,光田健輔の思想と行動を分析したものである。

光田に対する評価は両極端に峻別される。「救らいの父」と崇められる一方で,冷酷な隔離主義者と酷評される。

徳田氏は,「従来の光田評価には,『救らい』を掲げながら,何故に非道とも言うべき人権蹂躙を犯すに至ったかを分析する視点が欠けていたのではないか」と考え,光田健輔の思想と行動の過程を考察していく。


島に移すというと残酷に聞こえるが,患者はあちこちで苦しめられるよりも,一つの楽天地に入ることを希望している。島に一つの立派な村落ができ,宗教的慰安や娯楽ができれば,そこは一つの楽天地である。逃走できない絶海の孤島にそういう設備を作れば,そこで一生を終えるという考えをもつようになる。

徳田氏は,光田健輔のこの言葉に「光田イズム」の核心を読み取り,次のように述べる。

社会内で苦しめられるよりも,社会から隔離された施設での生活の方が患者にとって幸せだという考え方
「逃走できない」状況に閉じ込め,宗教的慰安と娯楽を与えることで患者にその地を楽天地であると受け入れさせることができるという考え方

…光田は,病理学的関心から出発し,療養所長としての入所者管理の効率的遂行という目的意識から,その孤島隔離必要論や隔離政策論を展開していったのであり,光田イズムの形成過程においては,決して「救らい」といった旗印が鮮明にされていた訳ではない。

…光田の関心は,私立療養所を「支配」する「信仰」に代わる権威を求めていたのかもしれない。
療養所を「楽天地」にするといった発想も,懲戒権と結婚承認という両刀によって入所者を全面的に従わせようとした運営方針も,そうした意識の産物だったように思われるからである。

私は,この光田の傲慢で勝手な思い込みこそがハンセン病問題の元凶であったと思う。光田がこの思い込みに基づいて「苛烈なまでに自らの施策を貫徹しようとした」結果が「断種」や「堕胎」「懲戒検束権」「重監房」等々の非人道的な数々を生み出していったのである。

徳田氏は,これら非人道的施策を推進させた光田の論理,特に「断種・堕胎等の優性施策の必要性」を次のように要約する。

第1は,母体の病勢悪化の懸念である。
妊娠・分娩によって,女性患者の病勢がいっそう悪化するということが強調された。

第2は,生まれてくる児への悪影響である。
胎児感染の危険があり,将来発病する可能性が大きいとか,「病的精子」によって生まれてくる子は虚弱児となる可能性が大きいといった優性思想的な理由付けのほかに,仮に健康な子が生まれても養育する環境がないということが強調された。

第3は,ハンセン病患者に連なる血統を根絶するという理由である。

光田の特徴は,その理由付けを徹底的に使い分けた点にある。第1,第2の理由は,入所者に対する語りかけとして使用され,第3の理由は,対外的とりわけ国会や政府に対する表明として使用された。この第3の理由こそが光田の本音であり…

…光田の真骨頂は,その本音を秘し,あくまでも入所者に対しては,患者のためであり,生まれてくるこのためであると説き続けた点にある。

「あくまでも,あなたたちのことを思ってのことだ」という論理の独善性の恐ろしさを痛感する。この論理が自己正当化を引き出し,自らの問題性に気づくことを妨げ,視野を狭くさせる。


「長島事件」の原因となったのは,国家予算が少なく,医師・看護師・一般職員の人員も不足している状況にありながら,光田が定員を無視して入所者を受け入れたことにある。これも光田が第3の目的を遂行するために,一人でも多くの患者を隔離したからであって,入所者のことなど二の次であった。

職員不足を補うため,光田が採用したのが入所者を労働力として利用する「患者作業」である。これもまた,光田の独善的な考えである「大家族主義」の強制であった。

こうした大家族主義に基づいて,「同病相愛」「相互扶助」の名の下に,従わない者は,園内のあらゆるつながりから排除されていくという恐ろしい強制力となって「患者作業」は強制されていった。

こうした「患者作業」こそが,ハンセン病により末梢神経の麻痺した入所者から,その指趾を奪うに至った元兇であり,「療養」のために入所したはずであるのに,社会復帰しえない障害を負わされるという背理を生み出した根本であることを考えると,その推進に使用された「大家族主義」なるイデオロギーの罪深さに改めて竦む思いを禁じ得ない。

光田健輔に決定的に欠如していたのは,患者の意志であり,患者の立場に立つという視点である。
光田は「救らい者」であって「救う側」の立場にいて,決して「救われる側」の立場に立つことはなかった。

「救う」という意識が強ければ強い程,救う側にいる人間が正しいと思うことは,救われる側にいる人間にとっても正しいはずだと信じて疑わないということだ。
自らが正しいと思って行動することが「救われる側」の人間にとってどのような意味を持つのか,ということを顧みることがない。
だから,救われる側の人間の人権とか人間としての尊厳あるいはその類の反抗といったことが,その考えに入り込んでくる余地がないのだ。
そのことはまた,「救う側」の人間が過ちを犯した場合に,その過ちに気付くことを決定的に遅らせることになる。

徳田氏の分析は的確である。
光田や彼の弟子,あるいは彼に賛同した多くの療養所関係者は,自らが「救う側」であるという立場的自意識から「救ってやる」という高慢さに気付くことはなかった。それゆえ,自らの言動がどれほど人間を冒涜する行為であり,歪んだ正義感と倫理観に基づく非人道的行為であったかについて考えることもなかった。


宮坂道夫氏は,「断種」「堕胎」を「ハンセン病患者たちの<性と生殖>への不当な介入」であり,それは「<パターナリズム>に基づく<性>の管理」であると断罪する。

…日本のハンセン病患者たちは,<性のいとなみを持ってもよいが,生殖をしてはならない>という特別な状況に置かれた。特に注目すべきなのは,<性の管理>が,<強制隔離政策による患者の不平不満を抑制する>という療養所運営の目的と結びついていたことだ。このような発想をした医師の書いたものには,患者たちの<性のいとなみ>を<隔離生活の中で得られる数少ない快楽>としてとらえ,<隔離政策の中で鬱積する不満のはけ口>として,その<恩恵>を与えてやろうというパターナリズムの態度が表れている。

パターナリズムとは,医師を<父親>に,患者を<子ども>になぞらえる倫理観である。光田のような医師は,<父親>として<子ども>である患者らに<恩恵>として「よかれと思って」,<性のいとなみ>を持つ機会を与え,<生殖>は厳しく禁じた。

宮坂道夫「『胎児標本』問題について考えるために」

宮坂氏は,「堕胎」「新生児殺」を「父親」(光田など医療従事者)が与えた「恩恵」を裏切って「妊娠」したことで「違反者」に下された「罰」の意味があったと言う。そして,ハンセン病政策の懲戒検束を<罰するパターナリズム>と提示している。

私は,この宮坂氏の考察に同感である。
この傲慢な「独り善がりの思いやり」が,一方で「自負心」となって自らの言動に対する自己正当化を助長し,他方で如何なる非人道的な行為であっても躊躇なく実行させるのだ。

「あなたのためだから」という大義名分と<パターナリズム>は,姿を変え,立場を変えて,現在も様々な場所で生き続けている。
そして,何よりも「教育の現場」において,無自覚のうちに生き続けている。私にはそれが最も恐ろしい。

posted by 藤田孝志 at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 光田健輔 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月05日

胎児標本

『ハンセン病市民学会年報2010』(島は語る 隔離の象徴としての“島”を再認識し,心の橋を架ける)が届いた。

本書を読みながら,過去の年報も読んでみたくなり,バックナンバー数冊を買い求めた。

2006年の年報では,小特集「胎児標本問題」が強烈な衝撃を改めて私に与えた。
シンポジウムで語られる被害当事者の生々しい証言と実態を読みながら,ハンセン病問題の闇の奥深さを今更のように感じた。


「胎児標本」について忘れられない思い出がある。

私の母校,校舎は建て替えられ昔の面影はない。当時は古い校舎で,理科室は北校舎1階西の奥にあった。理科準備室の廊下には標本棚があり,廊下からガラス越しに標本を見ることができた。蛇やウサギ,魚などがホルマリン漬けのガラス標本容器に入れられていた。
その中に,同じようなやや大きめの標本容器に「胎児」もあった。人形ではなく,人間であった。

大きさから考えても出産後か,それに近い胎児であったと思うが,頭髪はなかったような気もするが,目を閉じているが顔は確認できたし,手足も指もはっきりとしていた。

なぜ高校の理科室に,しかも廊下から誰(生徒)にでも見ることができる廊下に面したガラス標本棚に,他の動物と同じく並べられていたのか。

記憶が曖昧なのだが,病院から貰い受けたとも聞いたような気がするが,その当時は別段何とも感じることなく,ただ理科の授業でその前を通るとき眺めていた。時々,なぜ胎児の標本があるのだろうか,誰の子どもだろうか,等々の疑問が脳裏を過ぎるだけだった。

ハンセン病問題に関わるようになり,実際に「胎児標本」や「臓器標本」を見たり,その問題性について考えるようになったりする中で,何十年も忘れていた記憶が蘇ってきた。

大学に進学した後,教育実習のために母校を訪れたが,校舎が改築されて,その「胎児標本」も消えていた。荼毘に付されて弔われたのだろうか。

記憶を呼び起こしているのだが,別の「胎児標本」が理科準備室にもあったような気もする。

なぜ大学の医学部でもない高校に「胎児標本」があったのだろうか。

何よりも,当時の教師たち,生徒や保護者も目にしていたはずなのに,何の問題も感じなかったのだろうか。確かに私もその一人であった。

ハンセン病療養所に,それこそ無造作に置かれていた「胎児標本」の問題を考えるとき,「堕胎」「新生児殺」「解剖」が問題とされるが,胎児を「標本」化したこと自体も大きな問題であると思う。

医学・教育の名の下で,人間としての良心や感性が麻痺していたことが問題なのだ。「標本」は死者への冒涜である。


本書を読みながら,ハンセン病問題を象徴しているのが「胎児標本」であると強く思った。「胎児標本」が問題のすべてを示していると思う。

1 「胎児標本」のほとんどが「堕胎」「新生児殺」であった。

医者や看護師など医療従事者の倫理観の欠如を強く感じる。ハンセン病患者に対する当時の認識が如何なるものであったかを伺うことができる。

また,患者のため,医学の向上のためという「大義名分」「理由」があれば,このような非人間的な行為さえ,何の良心の痛みを感じることなく平然と行うことができる。

2 「断種」「堕胎」の目的は,絶対隔離・絶滅政策であった。

ハンセン病患者の「子孫」を残さないことが目的であった。ハンセン病は「感染症」であって「遺伝病」ではないにもかかわらず,なぜ「断種」「堕胎」がほとんどすべての療養所で長年に渡って行われてきたのか。

3 ハンセン病患者の「人間性」「人間の尊厳」を剥奪してきた。

結婚は許すが子供は作らせないということが療養所の中で行われてきた。子供を作ることは「恥ずかしいこと」「許されないこと」という意識を「医学の名によって」患者に植え付けてきた。人間として当たり前のことを望んではならない存在であると教化されてきた。

これらすべてが光田健輔の意志であり,彼の思想(光田イズム)によって生み出され,彼の後継者たちによって引き継がれてきた。


なぜ光田健輔は「断種」「堕胎」「胎児標本」を行ったのか。本書のシンポジウムの中で,藤野豊氏がこのことに関して的確にまとめている。

断種というものが始まったのが1915年,光田健輔という日本の隔離政策を推進した医師が多摩全生園,かつての全生病院で行ってきた,それが始まりです。…

…そこ(「断種の三十五年」)で光田健輔は,たとえプロミンがある今(1952年)においても断種するんだといっています。…男性患者の精子にはらい菌がついている。らい菌に侵された精子で妊娠すると,子供に受精段階から感染するかもしれない。…本当に精子によって感染することが医学的にあるのかどうか,多分ないと思いますし,光田健輔の思いこみかもしれません。しかし,彼は信念をもって,だから断種すると言っているんです。

もう一点,光田健輔はハンセン病の菌に対し免疫の弱い体質があると発言しています。その体質は遺伝するかもしれない。病気は遺伝しないがハンセン病の菌に弱い体質は遺伝するかもしれない。これも光田健輔が断種堕胎に執着した根拠だと考えます。

…医学的な証明はないままに断種や堕胎を強制したわけです。そして胎盤から感染するかも知れないということを何とか証明しようと思って,胎児を標本にしたわけでしょう。私はこれは明らかな人体実験だと思っています。つまり眼の前にたくさん解剖できる胎児がいる。この胎児を解剖して胎盤感染を証明したいと一生懸命堕胎した。

光田健輔の功罪をあらためて問い糾す必要を痛感している。そして,彼の政策に荷担してきた国家,医療従事者,そして「不作為」であった我々の問題を追及しなければならない。

posted by 藤田孝志 at 18:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月05日

『ハンセン病図書館 旧蔵書目録』

先日,ネットオークションに『ハンセン病図書館 旧蔵書目録』(国立ハンセン病資料館 2010年3月)が出品されていることを偶然に知り,あひる企画に頼んで落札してもらった。

正直,このような目録が(販売しているかどうかは知らないが)手に入るとは思ってもみなかった。


『ヒイラギの檻』(瓜谷修治)を読んで,山下道輔氏のことを知り,彼が心血を注いで収集したハンセン病関連の書籍や資料を是非とも手に取って見てみたいと思うようになった。

数年前に訪ねようと思ったときは資料館は改装中であり,断念せざるをえなかった。そして一昨年,念願叶い訪問することができ,その後に修学旅行の引率で再び訪ねることができた。

山下氏の長年の労苦により集められた貴重な資料を前に,ただ感謝の思いだけだった。山下氏がいなければ,ハンセン病問題の真実は闇の中に消え去っていただろう。本書の中で,藤野豊氏も山下氏への感謝とともに,この膨大な資料が果たした役割の大きさを語っている。

私が初めて長島愛生園に渡ったとき,宇佐美治さんがたった一人で収集した資料を展示されていた恩賜記念館を訪ね,その貴重な資料や品々に目にしたときも,目の不自由な宇佐美さんの労苦を思い,その手を握ったことを覚えている。あれから長島を訪ねるたびに記念館を訪れて,未整理の資料を手に取りながら,長島の歴史や隔離の実情を学んできた。

ハンセン病の当事者による資料保存には,類似の事例として,長島愛生園入所者の宇佐美治氏により維持され,2003年に長島愛生園歴史館として生まれ変わった旧「恩賜記念館」があるが,こちらはモノ資料もかなり多く含めて集められた貴重な資料群である。山下氏や宇佐美氏の,同時代を当事者として生き抜きながら同時にハンセン病に関するあらゆる資料を歴史的史料として後生に残さねばならないと考えた執念と先見性は,現在と未来のわたしたちに豊かな財産をもたらした。それゆえ,こうして残された資料群は,調査研究の一次資料活用されうるものであると同時に,ハンセン病の歴史を体験/体現してきた当事者の営為が生み出した記録として尊重されねばならない。

(廣川和花「旧ハンセン病図書館蔵書の資料的意義」)

現在,長島愛生園歴史館は,学芸員の田村朋久さんが現地研修の案内を一手に引き受ける激務の合間に,宇佐美さんより託された資料や愛生園に散在している資料などを丹念に整理され,聞き取り証言の映像資料など貴重な資料を展示・公開されている。

昨年暮れに訪ねたときも,事務室には段ボールに数箱の原資料があり,まだまだ整理しなければならない資料が山積みであると語っていた。彼の労苦に感謝しつつも,彼が果たす歴史的役割に期待する。
個人情報への配慮などから公表できない資料もある。今後,プロジェクトチームを作って整理・解析・考察が進展することを願う。


550ページを超える本書は,山下氏が収集した約4000点の資料を含む国立ハンセン病資料館に所蔵されている約5000点の資料を収録した目録である。
すべてに目を通していないが,タイトルや出版年からも興味深い資料がいくつも目を引く。

藤野氏は,山下氏より見せられた『特殊部落調 附癩村調』により,「ハンセン病隔離政策に関わる根本的な疑問をすべて解決に導いてくれた」と言う。資料のもつ力である。
(これについては,
拙文および藤野氏の論考を参照)

そして何よりも大切なことは,その貴重な資料をどのように分析・考察するかである。時代背景や社会背景を考慮しながら,資料そのものが語りかける声に耳を澄ませて,その真実を明らかにしていくことである。

差別問題や人権問題を解明していく目的は,二度と同様のことが起こらないようにするためである。同じことが繰り返されないために「学ぶ」のである。学ぶことで,自らの認識と意識を変革していくのである。

posted by 藤田孝志 at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月09日

巨星墜つ

大谷藤郎氏が逝去された。

ハンセン病国賠訴訟の証人として自らと国の責任を認め,政府の施策を厳しく問い直した大谷藤郎氏の死は,自らの役割を果たし終えたかのようだ。

しかし,私にはまだ語り終えていないように思える。まだ果たすべき責務は残っているように思う。

posted by 藤田孝志 at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 責任と課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月09日

その手をつないで

今朝,テレビで「NNNドキュメント10 その手をつないで ハンセン病の島から未来へ」の再放送があった。

香川県にある国立ハンセン病療養所大島青松園に暮らす入所者を,五十数年ぶりに一人の男性が訪ねる。ある日突然に姿を消した親友を捜し続け,瀬戸内国際芸術祭をきっかけに彼が大島青松園に入所していることを知る。

番組は,ハンセン病回復者である彼を通して,ハンセン病問題を提起している。ハンセン病が引き起こした問題が断片的に語られる。
互いに支え合ってきた入所者の死により,残された孤独に耐えられず自ら命を絶った入所者の葬儀,里帰りを果たし母の墓前で手を合わせながら語る母への謝罪の気持ち,孤独を紛らわすために打ち込んだ陶芸,それらはすべてハンセン病差別が生み出したものだ。
映像は,それらを坦々と描写するのだ。ナレーションも言葉少なである。説明に不足さえ感じられるが,むしろその方がハンセン病の現実をよく伝えている。

瀬戸内国際芸術祭の会場となったことをきっかけに,陶芸を通してボランティアの若者や訪問者と交流していく様子が今後の展望を示している。

私は,このわずか30分ほどの番組ではあるが,伝えようとする思いは十分であったと思う。ハンセン病患者が辿った過酷な歴史や悲惨な療養所生活,国家による排除と隔離の政策等々を解説することも重要であるが,そのような歴史を越えて今を生きる入所者を伝えることで,今後の啓発と交流の在り方の一つを伝えようとすることも大切である。

「なぜ俺を生んだ」と母に暴言を吐いたことを悔やみ,親友に「妹がいたから…」と姿を隠した理由を語る,それだけでもハンセン病問題の本質がわかるだろう。
何が彼の半生を奪ったのか,誰が彼と親友との絆を断たせたのか,何が彼を母の死に目に合わせなかったのか,責められるべきは誰なのか。我々のまちがいは何だったのか,ハンセン病問題を克服するために我々は何に気づき,この社会をどのように変えていくべきか,我々が学ぶべき教訓は何か。

終わりに,彼の変形した手を小さな子どもがしっかりと握って歩いている。横で母親が笑顔でやさしく見守っている。きっと母親は,子ども語り続けることだろう。ハンセン病について,手を握ってくれた彼のことを語ることだろう。

差別は垣根である。その垣根は気持ち一つで乗り越えることができる。

posted by 藤田孝志 at 17:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 責任と課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月26日

ハンセン病関連の法律

ハンセン病関連の法律を掲載しておく。同じものをPDFファイルにしておくので,資料として活用していただければ幸いです。


「癩予防ニ関スル件」(明治四十年三月十八日法律第十一号)

 第一条
医師癩患者ヲ診断シタルトキハ患者及家人ニ消毒其ノ他予防方法ヲ指示シ且三日以内ニ行政官庁ニ届出ツヘシ其転帰ノ場合及死体ヲ検案シタルトキ亦同シ

 第二条
癩患者アル家又ハ癩病毒ニ汚染シタル家ニ於テハ医師又ハ当該吏員ノ指示ニ従ヒ消毒其ノ他予防ヲ行フヘシ

 第三条
癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官庁ニ於テ命令ノ定ムル所ニ従ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ但シ適当卜認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムヘシ
必要ノ場合ニ於テハ行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ前項患者ノ同伴者又ハ同居者二対シテ一時相当ノ救護ヲ為スヘシ
前二項ノ場合ニ於テ行政官庁ハ必要卜認ムルトキハ市町村長(市制町村制ヲ施行セサル地ニ在リテハ市町村長ニ準スヘキ者)ヲシテ癩患者及其ノ同伴者又ハ同居者ヲ一時救護スルコトヲ得

 第四条
主務大臣ハ二以上ノ道府県ヲ指定シ共ノ道府県内ニ於ケル前条ノ患者ヲ収容スル為必要ナル療養所ノ設置ヲ命スルコトヲ得
前項療養所ノ設置及管理二関シ必要ナル事項ハ主務大臣之ヲ定ム
主務大臣ハ私立ノ療養所ヲ以テ第一項ノ療養所ニ代用セシムルコトヲ得

 第五条
救護ニ要スル費用ハ被救護者ノ典拠トシ被救護者ヨリ弁償ヲ得サルトキハ其ノ扶養義務者ノ負担トス
第三条ノ場合ニ於テ之力為要スル費用ノ支弁方法及其ノ追徴方法ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

 第六条
扶養義務者ニ対スル患者引取ノ命令及費用弁償ノ請求ハ扶養義務者中ノ何人ニ対シテモ之ヲ為スコトヲ得但シ費用ノ弁償ヲ為シタル者ハ民法第九百五十五条及第九百五十六条二依り扶養ノ義務ヲ履行スヘキ者ニ対シ求償ヲ為スコトヲ妨ケス

 第七条
左ノ請費ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス但シ沖縄県及東京府下伊豆七島小笠原島ニ於テハ国庫ノ負担トス
 一 被救護者又ハ共ノ扶養義務者ヨリ弁償ヲ得サル救護者
 二 検診ニ関スル諸費
 三 其他道府県二於テ癩予防上施設スル事項ニ関スル諸費
第四条第一項ノ場合ニ於テ其ノ費用ノ分担方法ハ関係地方長官ノ協議二依り之ヲ定ム
若シ協議調ハサルトキハ主務大臣ノ定ムル所二依ル
第四条第三項ノ場合ニ於テ関係道府県ハ私立ノ療養所ニ対シ必要ナル補助ヲ為スヘシ
此ノ場合ニ於テ共ノ費用ノ分担方法ハ前碩ノ例二依ル

 第八条
国庫ハ前条道府県ノ支出ニ対シ勅令ノ定ムル処ニ従ヒ六分ノ一乃至二分ノ一ヲ補助スルモノトスル

 第九条
行政官庁二於テ必要卜認ムルトキハ其ノ指定シタル医師ヲシテ癩又ハ其ノ疑ヒアル患者ノ検診ヲ行ハシムルコトヲ得
癩卜診断セラレタル者又ハ其ノ扶養義務者ハ行政官庁ノ指定シタル医師ノ検診ヲ求ムルコトヲ得
行政官庁ノ指定シタル医師ノ検診ニ不服アル患者又ハ其ノ扶養義務者ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ更ニ検診ヲ求ムルコトヲ得

 第十条
医師第一条ノ届出ヲ為サス又ハ虚偽ノ届出ヲ為シタル者ハ五拾円以下ノ罰金ニ処ス

 第十一条
第二条ニ違反シタル者ハ弐拾円以下ノ罰金ニ処ス

 第十二条
行旅死亡人ノ取扱ヲ受クル者ヲ除クノ外行政官庁二於テ救護中死亡シタル癩患者ノ死体又ハ邉留物件ノ取扱ニ関スル規定ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム


癩予防法(昭和六年四月二日法律第五八号) 昭和六年改正

 第二条ノ二
行政官庁ハ癩予防法上必要ト認ムルトキハ左ノ事項ヲ行フコトヲ得
一 癩患者ニ対シ業務上病毒伝播ノ虞アル職業ニ従事スルヲ禁止スルコト
二 古着,古蒲団,古本,紙屑,襤褸,飲食物其ノ他ノ物件ニシテ病毒ニ汚染シ又ハ其ノ疑アルモノノ売買若ハ授受ヲ制限シ若ハ禁止シ,其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為サシメ又ハ其ノ物件ノ消毒若ハ廃棄ヲ為スコト

 第三条
行政官庁ハ癩予防法上必要ト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノヲ国立癩療養所又ハ第四条ノ規定ニ依リ設置スル療養所ニ入所セシムベシ必要ノ場合ニ於テハ行政官庁ハ命令ノ定ムル所に従ヒ前項患者ノ同伴者又ハ同居者ニ対シテモ一時相当ノ救護ヲ為スベシ
第二項ノ場合ニ於テ行政官庁ハ必要ト認ムルトキハ市町村長又ハ之ニ準ズベキ者ヲシテ癩患者及其ノ同伴者又ハ同居者ヲ一時救護セシムルコトヲ得
前項ノ規定ニ依リ市町村長又ハ之ニ準ズベキ者ニ於テ一時救護ヲ為ス場合ニ要スル費用ハ必要アルトキハ市町村又ハ之ニ準ズベキモノニ於テ繰替支弁スベシ

 第四条第三項ヲ削ル

 第四条ノ二中
「被救護者」ヲ「入所患者」ニ改ム

 第五条
私立ノ癩療養所ノ設置及管理ニ関シ必要ナル事項ハ主務大臣之ヲ定ム

 第六条
北海道又ハ府県ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ第二条ノ二第一号ノ規定ニ依リ従業禁止又ハ
第三条第一項ノ規定ニ依ル入所ニ因り生活スルコト能ハザル者ニ対シ其ノ生活費ヲ補給スベシ

 第七条
第一項ヲ左ノ如ク改メ同条第二項ヲ削ル
左ノ諸費ハ北海道地方費又ハ府県ノ負担トス
一 第二条ノ二第二号ノ規定ニ依リ行政官庁ニ於テ物件ノ消毒又ハ廃棄ヲ為ス場合ニ要スル諸費
二 入所患者(国立癩療養所入所患者ヲ除ク)及一時救護ニ関スル諸費
三 検診ニ関スル諸費
四 其ノ他道府県ニ於テ癩予防上施設スル事項ニ関スル諸費

 第七条ノ二
 本法ニ依リ北海道地方費又ハ府県ニ於テ負担スベキ費用ハ東京府伊豆七島及小笠原島ニ於テハ国庫ノ負担トスル

 第八条中
「前条」ヲ「第六条及第七条ノ規定ニ依ル」ニ改ム

 第九条中
「扶養義務者」ヲ「親族」ニ改ム

 第一〇条
第一条ノ規定ニ違反シ又ハ第二条ノ二ノ規定ニ依ル行政官庁ノ処分ニ違反シタル者ハ100円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス

 第一〇条ノ二
第二条ノ規定ニ違反シタル者ハ科料ニ処ス

 第一一条
医師若ハ医師タリシ者又ハ癩予防事務ニ関係アル公務員若ハ公務員タリシ者故ナク業務上取扱ヒタル癩患者又ハ其ノ死者ニ関シ氏名,住所,本籍,血統関係又ハ病名其ノ他癩タルコトヲ推知シ得ベキ事項ヲ漏泄シタルトキハ六月以下ノ懲役又ハ100円以下ノ罰金ニ処ス

 第一二条中
「行政官庁ニ於テ救護中」ヲ「療養所ニ入所中又ハ第三条第二項及第三項ノ規定ニ依ル一時救護中」ニ改ム

   付  則

本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム(昭和六年勅令第一八〇号により昭和六年八月一日から施行)


国立癩療養所患者懲戒検束規定(昭和6年1月30日認可)

第一条 国立癩療養所ノ入所患者ニ対スル懲戒又ハ検束ハ左ノ各号ニ依ル

一 譴責 叱責ヲ加ヘ誠意改悛ヲ誓ハシム
二 謹慎 三十日以内指定ノ室ニ静居セシメ一般患者トノ交通ヲ禁ズ
三 減食 七日以内主食及副食物ニ付常食量ニ分ノー迄ヲ減給ス
四 監禁 三十日以内監禁室ニ拘置ス
五 謹慎及減食 第二号及第三号ヲ併科ス
六 監禁及減食 第四号及第三号ヲ併科ス
監禁ハ前項第四号ノ規定ニ拘ラズ特ニ必要卜認ムルトキハ其ノ期間ヲ二箇月迄延長スルコトヲ得

第二条 入所患者左ノ各号ノ一ニ該当スル行為ヲ為シタルトキハ譴責又ハ謹慎二処ス

一 所内ニ植栽セル草木ヲ傷害シタルトキ
二 家屋其ノ他建物又ハ備品ヲ毀損シ若ハ汚涜シタルトキ
三 貸与ノ衣類共ノ他ノ物品ヲ毀損若ハ隠匿シ又ハ所外へ搬出シタルトキ
四 人ヲ誑惑セシムベキ流言浮説又ハ虚報ヲ為シタルトキ
五 喧嘩口論ヲ為シタルトキ
六 其ノ他所内ノ静謐ヲ紊シタルトキ

第三条 入所患者左ノ各号ノ一ヲ為シタルトキハ謹慎若ハ減食ニ処シ又ハ之ヲ併科ス

一 濫リニ所外ニ出デ又ハ所定ノ地域ニ立入リタルトキ
二 風紀ヲ紊シ又ハ猥褻ノ行為ヲ為シ若ハ媒合シテ之ヲ為サシメタルトキ
三 職員ノ指揮命令ニ服従セザルトキ
四 金銭又ハ物品ヲ以テ博戯又ハ賭事ヲ為シタルトキ
五 懲戒又ハ検束ノ執行ヲ妨害シタルトキ

第四条 入所患者左ノ各号ノ一ニ該当スル行為ヲ為シタルトキハ減食若ハ監禁ニ処シ又ハ之ヲ併料ス

一 逃走シ又ハ逃走セムトシタルトキ
二 職員其ノ他ノ者ニ対シ暴行若ハ脅迫ヲ加へ又ハ加ヘムトシタルトキ
三 其ノ他所内ノ安寧秩序ヲ害シ又ハ害セムトシタルトキ

第五条 一個ノ行為ニシテ前三条中二以上ノ規定ニ該当スルトキハ情状ニ依り共ノ何レカ一ノ規定ニ依ル処分ヲ為スコトヲ得

第六条 懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者其ノ執行ヲ終リ又ハ執行ノ免除アリタル後再ビ第二条又ハ第三条ノ規定ニ該当スル行為ヲ為シタルトキハ第二条又ハ第三条ノ規定ニ拘ラズ第四条ノ規定ニ依ル処分ヲ為スコトヲ得

第七条 二人以上共同シテ第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ該当スル行為ヲ為シタル者ハ共ノ行為ニ付同一ノ責ニ任ズ
人ヲ教唆シテ第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ該当スル行為ヲ為サシメタル者ハ実行者ニ準ズ教唆者ヲ教唆シタル者亦同ジ第二条第三条又ハ第四条ノ規定二該当スル行為ノ実行者ノ行為ヲ幇助シタル者及之ニ対シ教唆ヲ為シタル者ハ実行者ニ準ズ但シ其ノ処分ハ之ヲ減軽ス

第八条 第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ拘ラズ行為ノ情状憫諒スベキモノハ酌量シテ懲戒又ハ検束ヲ減軽又ハ免除スルコトヲ得

第九条 懲戒又ハ検束ハ宣告ノ上執行ス

第二条第三条又ハ第四条ノ規定ニ該当スル行為ヲ為シタル者逃走シタルトキハ其ノ懲破又ハ検束ハ欠席ノ儘宣告シ其ノ執行ハ収容後之ヲ行フ
但シ他ノ療養所ニ収容セラレタルトキハ之ヲ当該療養所ノ長ニ委託スルコトヲ得
前項ノ場合ニ於テ宣告ヨリ一年ヲ経タルトキハ其ノ執行ヲ免除ス懲戒又ハ検束ノ執行中逃走シタル者ニ対シテハ前二項ノ規定ヲ準用ス

第十条 懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者改俊ノ情著シキトキハ其ノ懲戒又ハ検束ノ執行ヲ免除スルコトヲ得

第十一条 左ノ各号ノ一ニ該当スル場合ハ懲戒又ハ検束ノ執行ヲ免除又ハ停止スルコトヲ得

一 大祭祝日,一月一日,一月二日,十二月三十一日又療養所ノ祝祭日並懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者ノ父母ノ祭日
二 懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者共ノ父母ノ訃ニ接シタルトキ
三 懲戒又ハ検束ニ処セラレタル者療養上必要アリト認メタルトキ
前項第二号ノ場合ニ於テハ其ノ停止期間ハ之ヲ三日マデ延長スルコトヲ得


らい予防法法律第214号(昭和28年8月15日施行)

第一章 総則

  (この法律の目的)

第一条 この法律は,らいを予防するとともに,らい患者の医療を行い,あわせてその福祉を図り,もって公共の福祉増進を図ることを目的とする。

  (国及び地方公共流体の義務)

第二条 国及び地方公共団体は,つねに,らいの予防及びらい患者(以下「患者」という)の医療につとめ,患者の福祉を図るとともに,らいに関する正しい知識の普及を図らなければならない。

  (差別的取扱の禁止)

第三条 何人も,患者又は患者と親族関係にある者に対して,そのゆえをもって不当な差別的取扱をしてはならない。

第二章 予防

  (医師の届出等)

第四条 医師は,診断の結果受診者が患者(患者の疑いのある者を含む。この条において以下同じ)であると判断し,又は死亡の診断若しくは死体の検案をした場合において死亡者が患者であったことを知ったときは厚生省令の定めるところにより,患者,その保護者(親権を行う者又は後見人をいう。以下同し)若しくは患者と同居している者又は死体のある場所若しくはあった場所を管理する者若しくはその代理をする者に,消毒その他の予防法を指示し,且つ,七日以内に,厚生省令で定める事項を,患者の居住地(居住地がないか,又は明らかでないときは,現在地。以下同じ)又は死体のある場所の都道府県知事に届け出なければならない。
A 医師は,患者が治癒し,又は死亡したときは,すみやかに,その旨をその者の居住地の都道府県知事に届け出なければならない。

  (指定医の診察)

第五条 都道府県知事は,必要があると認めるときは,その指定する医師をして,患者又は患者と疑うに足りる相当な理由があるものを診察させることができる。
A 前項の医師の指定は,らいの診療に関し,三年以上の経験を有する者のうちから,その同意を得て行うものとする。
B 第一項の医師は,同項の職務の執行に関しては,法令により公務に従事する職員とみなす。

  (国立療養所への入所)

第六条 都道府県知事は,らいを伝染させるおそれがある患者について,らい予防上必要があると認めるときは,当該患者又はその保護者に対し,国が設置するらい療養所(以下「国立療養所」という)に入所し,又は入所させるように勧奨することができる。
A 都道府県知事は,前項の勧奨を受けたものがその勧奨に応じないときは,患者又はその保護者に村し期限を定めて,国立寮養所に入所し,又は入所きせることを命ずることができる。
B 都道府県知事は,前項の命令を受けた者がその命令に従わないとき,又は公衆衛生上らい療養所に入所きせることが必要であると認める患者について,第二項の手続をとるいとまかないときは,その患者を国立療養所に入所きせることができる。
C 第一項の勧奨は,前条の規定する医師が当該患者を診察した結果,その者がらいを伝染させるおそれがあると診断した場合でなければ,行うことができない。

  (従業禁止)

第七条 都道府県知事は,らいを伝染させるおそれがある患者に対して,その者がらい療養所に入所するまでの間,接客業その他公衆にらいを伝染きせるおそれがある業務であって,厚生省令で定めるものに従事することを禁止することができる。
A 前条第四項の規定は,前項の従業禁止の処分について準用する。

  (汚染場所の消毒)

第八条 都道府県知事は,らいを伝染きせるおそれがある患者又はその死体があった場所を管理する者又はその代理をする者に対して,消毒材料を交付してその場所を消毒すべきことを命ずることができる。
A 都道府県知事は,前項の命令を受けた者がその命令に従わないときは,当該職員にその場所を消毒させることができる。

  (物件の消毒廃棄等)

第九条 都道府県知事は,らい予防上必要があると認めるときは,らいを伝染させるおそれがある患者が使用し,又は接触した物件について,その所持者に対し,授与を制限し若しくは禁止し,消毒材料を交付して消毒を命じ,又は消毒によりがたい場合に廃棄を命ずることができる。
A 都道府県知事は,前項の消毒又は廃棄の命令を受けた者がその命令に従わないときは,当該職員に,その物件を消毒し,又は廃棄させることができる。
B 都道府県は,前二項の規定による廃葉によって通常生ずべき損失を補償しなければならない。
C 前項の規定による補償を受けようとする者は,厚生省令の定める手続に従い,都道府県知事に,これを請求しなければならない.
D 都道府県知事は,前項の規定による請求を受けたときは,補償すべき金額を決定し,当該請求者にこれを通知しなければならない。
E 前項の決定に不服がある者は,その通知を受けた日から六十日以内に,裁判所に訴をもってその金額の増額を請求することができる。

  (質問及び調査)

第十条 都道府県知事は,前二条の規定を実施するため必要があるときは,当該職員をして,患者若しくはその死体がある場所若しくはあった場所又は患者が使用し,若しくは接地した物がある場所に立ち入り,患者その他の関係者に質問させ,又は必要な調査をさせることができる。
A 前項の職員は,その身分を示す証票を携帯し,且つ,関係者の靖求があるときは,これを呈示しなければならない。
B 第一項の権限は,犯罪捜査のために認められたものと解釈してはならない。

  第三章 国立療養所

  (国立療養所)

第十一条 国は,らい療養所を設置し,患者に村し,必要な療養を行う。

  (福利増進)

第十二条 国は,国立療養所に入所している患者(以下「入所患者」という)の教養を高め,その福利を増進するようつとめるものとする。

  (厚生指導)

第十三条 国は,必要があると認めるときは,入所者に対して,その社会的更生に資するために必要な知識及び技能を与えるための措置を講ずることができる。

  (入所患者の教育)

第十四条 国立療養所の長(以下「所長」という)は,学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)第七十五条第二項の規定により,小学校又は中学校が,入所患者のため,教員を流通して教育を行う場合には,政令の定めるところにより,入所患者がその教育を受けるために必要な措置を講しなければならない。
A 所長は,学校教育法第七十五条第二項の規定により,高等学校が,入所患者のため,教員を派遣して教育を行う場合には,政令の定めるところにより,入所患者がその教育を受けるために,必要な措置を講ずることができる。

  (外出の制限)

第十五条 入所患者は,左の各号に掲げる場合を除いては,国立療養所から外出してはならない。

一,親族の危篤,死亡,り災その他特別の事情がある場合であって,所長が,らい予防上重大な支障を釆たすおそれがないと認めて許可したとき。
二,法令により国立療養所外に出頭を要する場合であって,所長がらい予防上重大な支障を来たすおそれがないと認めたとき。
A 所長は前項第一号の許可をする場合には,外出の期間を定めなければならない.
B 所長は,第一項各号に掲げる場合には,入所患者の外出につき,らい予防上必要な措置を講じ,且つ,当該患者から求められたときは,厚生省令で定める証明書を交付しなければならない。

  (秩序の維持)

第十六条 入所患者は,療養に専念し,所内の紀律に従わなければならない.
A 所長は,入所患者が紀律に違反した場合において,所内の秩序を維持するために必要があると認めるときは,当該患者に村して,左の各号に掲げる処分を行うことができる。
一,戒告を与えること。
二,三十日をこえない期間を定めて,謹慎させること。
B 前項第二号の処分を受けた者は,その処分の期間中,所長が指定した室で静居しなければならない。
C 第二項第二号の処分は,同項第一号の処分によっては,効果がないと認められる場合に限って行うものとする。
D 所長は,第二項第二号の処分を行う場合には,あらかじめ,当該患者に対して,弁明の機会を与えなければならない。

  (親権の行使等)

第十七条 所長は,未成年の入所患者で親権を行う者又は後見人のないものに対し,親権を行う者又は後見人があるに至るまでの間,親権を行う。
A 所長は,未成年の入所患者で親権を行う者又は後見人のあるものについても,監護,教育等その者の福祉のために必要な措置をとることができる。

  (物件の移動の制限)

第十八条 入所患者が国立寮養所の区域内において使用し,又は接触した物件は,滑車を経た後でなければ,当該国立療養所の区域外に出してはならない。

第四章 福祉

  (一時救護)

第十九条 都道府県知事は,居住地を有しない患者その他救護を必要とする患者及びその同伴者に村して,当該患者が国立療養所に入所するまでの間,必要な救護を行わなければならない。

  (一時救護所)

第二十条 都道府県は,前条の措置をとるため必要があると認めるときは,一時救護所を設置することができる。

  (親族の援護)

第二十一条 都道府県知事は,入所患者をして安んじて療養に専念させるため,その親族(婚姻の届出をしてないが,事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。以下同じ)のうち当該患者が入所しなかったならば,主としてその者の収入によって生計を維持し,又はその者と生計をともにしていると認められる者で,当該都道府県区域内に居住地(居住地がないか,又は明らかでないときは,現在地)を有するものが,生計困難のため援護を要する状態にあると認めるときは,これらの者に村し,この法律の定めるところにより,援護を行うことができる。但し,これらの者が他の法律(生活保護法「昭和二十五年法律第百四十四号」を除く)に定める扶助を受けることができる場合においては,その受けることができる扶助の限度においては,その法律の定めるところによる。
A 援護は,金銘を給付することによって行うもの亡する。但し,これによることができないとき,これによることが適当でないとき,その他援護の目的を達するために,必要があるときは,現物を給付することによって行うことができる。
B 援護のための金品は,援護を受ける者又はその者が属する世帯の世帯主若しくはこれに準ずる者に交付するものとする。
C 援護の種類,範囲,程度その他援護に関し必要な事項は,政令で定める。

  (児童の福祉)

第二十二条 団は,入所患者が扶養しなければならない児童で,らいにかかっていないものに村して,必要があると認めるときは,国立療養所に附置する施設において教育,養護その他の福祉の措置を講ずることができる。
A 第十七条第一項の規定は,前項の施設に入所中の児童について準用する.

第五章 費用

  (都道府県の支弁)

第二十三条 都道府県は,左の各号に掲げる費用を支弁しなければならない。
一,第五条第一項の規定による静察に要する費用
二,第六条の規定による措置に要する費用並びに同条第一項又は第二項の挽定による勧奨又は命令による患者の入所に要する費用及びその入所に当り当該都道府県の職員が附き添った場合におけるその附添に要する費用
三,第八条及び第九条の規定による消毒及び廃棄に要する費用
四,第九条第三項の規定による損失の補償に要する費用
五,第十九条の規定による一時救護に要する費用
六,第二十条に規定する一時救護所の設置及び運営に要する費用
七,第二十一条の規定による援護に要する費用

  (費用の徴集)

第二十三条の二 都道府県知事は,第二十一条の規定による援護を行う場合において,その援護を受けた者に村して,民法(明治二十九年法律第八十九号)の規定により扶養の義務を履行しなければならない者(入所患者を除く)があるときは,その義務の範囲内において,その者からその援護の実施に要した費用の全部又は一部を徴集することができる。
A 生活保護法第七十七条第二項及び第三項の規定は,前項の場合に準用する。

  (国庫の負担)

第二十四条 国は,政令の定めるところにより,都道府県が支弁する費用のうち,第二十三条第一号から第六号までに掲げる費用については,その二分の一,同条第七号に掲げる費用については,その全部を負担する。

  第六章 雑則

  (訴願)

第二十五条 この法律又はこの法律に基いて発する命令の泉定により所長又は都道府県知事がした処分(第九条第五項の規定による補償金額の決定処分を除く)に不服がある者は厚生大臣に訴願することができる。
A 厚生大臣は,前項の訴願がらいを伝染させるおそれがある患者であるとの静断に基く処分に対してその診断を受けた者が提起したものであって,且つ,その不服の理由が,その診断の結果を争うものであるときは,その訴願の裁決前,第五条      第二項の規定に準して厚生大臣が指定する二人以上の医師をして,その者を診断させなければならない。その場合において,訴願人は,自己の指定する医師を,自己の費用により,その珍察に立ち合わせることができる。
B 第五条第三項の規定は,前項の医師について準用する。

  (公課及び差押の禁止)

第二十五条の二 第二十一条の規定による援護として,金品の支給を受けた者は,当該金品を標準として租税その他の公課を課せられることがない。
A 第二十一条の規定による援護として支給される金品は,すでに支給を受けたものであるとないとにかかわらず差押えることができない。

  (罰則)

第二十六条 医師,保健婦,看護婦若しくは准看護婦又はこれらの暇にあった者が,正当な理由がなく,その業務上知得した左の各号に掲げる他人の秘密を漏らしたときは,一年以下の懲役又は三万円以下の罰金に処する。
一,患者若しくはその親族であること,又はあったこと。
二,患者であった者の親族であること,又はあったこと。
A 前項各号に掲げる他人の秘密を業務上知得した者が,正当な理由がなく,その秘密を漏らしたときは,六月以下の懲役又は一万円以下の罰金に処する。

第二十七条 左の各号の一に該当する者は,一万円以下の罰金に処する。
一,第四条第一項の規定による届出を怠った者
二,第五条第一項の規定による医師の診断を拒み,妨げ,又は忌避した者
三,第九条第一項の規定による物件の授与の制限又は禁止の処分に従わなかった者
四,第八条第二項又は第九条第二項の規定による当該職員の職務の執行を拒み,妨げ,又は忌避した者
五,第十条第一項の規定による当該職月の調査を拒み,妨げ,又は急逝した者
六,第十条第一項の規定による当該職員の質問に対して虚偽の答弁をした者
七,第十八条の規定に違反した者

第二十八条 左の各号の一に該当する者は,拘留又は科料に処する。
一,第十五条第一項の挽定に違反して国立療養所から外出した者
二,第十五条第一項第一号の規定により国立療養所から外出して,正当な理由がなく許可の期間内に帰所しなかった者
三,第十五条第一項第一号の規定により国立療養所から外出して,正当な理由がなく,通常帰所すべき時間内に帰所しなかった者。


らい予防法の廃止に関する法律案に対する附帯決議 

(平成8年3月26日 参議院厚生委員会)

ハンセン病は発病力が弱く,又発病しても,適切な治療により,治癒する病気となっているのにもかかわらず,「らい予防法」の見直しが遅れ,放置されてきたこと等により,長年にわたりハンセン病患者・家族の方々の尊厳を傷つけ,多くの痛みと苦しみを与えてきたことについて,本案の議決に際し,深く邉憾の意を表するところである。

政府は,本法施行に当たり,深い反省と陳謝の念に立って,次の事項について,特段の配慮をもって適切な措置を講ずるべきである。

一,ハンセン病療養所入所者の高齢化,後遺障害等の実態を踏まえ,療養生活の安定を図るため,入所者に支給されている患者給与金を将来にわたり継続していくとともに,入所者に対するその他の医療・福祉等処遇の確保についても万全を期すこと。

一,ハンセン病療養所から退所することを希望する者については,社会復帰が円滑に行われ,今後の社会生活に不安がないよう,その支援策の充実を図ること。

三,通院・在宅治療のための医療体制を早急に整備するとともに,診断・治療指針の作成等ハンセン病治療に関する専門知識の普及を図ること。

四,一般市民に対して,また学校教育の中でハンセン病に関する正しい知識の普及啓発に努め,ハンセン病に村する差別や偏見の解消について,さらに一層の努力をすること。

 右決議する。

posted by 藤田孝志 at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハンセン病関連史

明治以降のハンセン病関連の出来事をまとめてみた。これは,以前にあひる企画がHP用に作成したものである。(そちらはPDFファイルにしておいたので,資料として活用していただければ幸いである)

ハンセン病に関する歴史は多くの方々がまとめておられ,HP及び書籍で公開されている。私も詳しくまとめたいと考えている。特に,政府・国家とハンセン病患者・患者組織,さらにその背景となった関連事項,関連する社会状況などと相関させながら年表にしたいと思っている。

あらためて年表を見るとき,ハンセン病問題の根深さと国家による意図的な隔離政策が浮き彫りになってくる。


 1873(明治6)

ノルウェーのアルマウェル=ハンセンが,ハンセン病患者の病巣部から「らい菌」を発見し,ハンセン病は「らい菌」による感染症であるとの考え方が示された。

 1889(明治22)

キリスト教宣教師テストウィード神父が静岡県御殿場富士岡村に日本で最初のハンセン病療養所である私立神山復生病院を開設する。
(1894年に慰廃園:院長ゲーテ・ヤングマン,1895年に回春病院:院長ハンナ・リデル,1898年に待労院:院長ジョン・メリー・コールが開設される)

 1897(明治30)

第1回国際らい会議(ベルリン)において,ハンセンの唱えた「感染症説」が国際的に承認されるが,「的確な治療法の存在しない現在,感染症であるハンセン病の地域への蔓延を阻止,予防するには患者隔離しか方法はない」と決議された。

 1899(明治32)

東京養育院内にらい患者のための回春病室を開設する。院長渋沢栄一,主任光田健輔。

 1900(明治33)

内務省による第1回らい患者に関する全国一斉調査がおこなわれる。北海道を除き3万359人の結果となったが,主に警官による調査のため不正確であった。

 1907(明治40)

第23回帝国議会に,政府案として「らい予防に関する件」が提出され,可決・成立。同3条では,任意入所の規定を置かず,ハンセン病患者の強制隔離を認めたが,扶養義務者が見つかれば患者を引き取らせると規定していた。このことからも,ハンセン病患者が自由に徘徊することを取り締まるという外観的(風俗上)理由からの法律制定であった。

 1909(明治42)

連合府県立病院として五療養所が設立される。
北部保養院(青森:定員90名)・外島保養院(大阪府:定員300)・九州保養所(熊本県:定員150)・大島療養所(香川県:定員200)・全生病院(東京都:定員350)

内務省第45号「らいに関する消毒その他の予防法」を公布する。らい病をコレラ等急性伝染病と同様の厳しい防疫・消毒の対象とする。

 1910(明治43)

全生病院で礼拝堂を教室として入所者を教師にして授業が開始された。


 1915(大正4)

療養所内では自暴自棄になる患者も多く,混乱が絶えなかったため,東京全生病院(のちの多磨全生園)院長の光田健輔が所内の秩序維持のための意見書を政府に提出した。
この光田健輔の判断で,ハンセン病患者への優生手術(断種・堕胎)が開始された。断種(ワゼクトミー)を前提に結婚を認める。独身の男性も対象にされ,手術を医師ではなく看護長や看護士に実施させることもあり,手術の結果,性交不能になったり腰痛などの後遺症に苦しむ者が多数出た。

 1916(大正5)

「らい予防に関する件」と「らい予防に関する施行規則」の改正により,療養所長に対して患者への『懲戒検束権』が付与された。

各療養所に「悪質患者」を収容するための監房が設置される。

入所者の守るべき規律・規範として「患者心得」が施設ごとに制定され,提示された。

熊本菊池恵楓園で,病菌の伝播を防ぐということを理由に,園内のみで通用する通貨,いわゆる園内通用券を発行し始める。のちに,この園内通貨制度は全国の療養所へ広がる。

 1925(大正14)

内務省は全国警察部長会議で「未収容患者」の収容を促すため,各県の患者救護弁償規定を緩和してでも,患者収容を促進するよう指示した。

内務省がらい一斉調査をおこなう。患者数15351人,入所者数2176人


 1927(昭和2)

国立らい療養所設置に関する建議案が国会で可決される。

 1929(昭和4)

熊本菊池恵楓園にて,創立当時からある逃走予防のために掘られた濠とともに,園の西側と北側は,高さ約2メートルのコンクリート塀及び素堀の濠によって患者の居住地区を囲み始める。

愛知県の方面委員数十名が,愛生園で患者の生活を視察し,帰県してから,「愛知県よりらいを無くそう」という民間運動を始めたことが発端となり,その後岡山県,山口県などでも『無らい県運動』が始まる。

 1930(昭和5)

内務省は,全員隔離・終生隔離による患者の絶滅を目指す『らいの根絶策』を策定する。

日本最初の国立療養所として長島愛生園が設立される。園長光田健輔。

 1931(昭和6)

『らいの根絶策』に基づき,「(旧)らい予防法」が制定される。強制隔離の徹底,患者の職業規制,汚染の疑いのある物品の売買禁止などを明記する。
これにより患者の救護費弁償制を廃止し,本籍・本名を申告せず,財産の有無も関係なく入所ができるようになる。

らい予防協会が愛生園と大島療養所に「未感染児童保育所」を設立する。

 1932(昭和7)

国立療養所粟生楽泉園を群馬県草津に設立する。

 1934(昭和9)

室戸台風により外島保養院が壊滅的な被害を受ける。患者173名,職員3名,職員家族11名が死亡する。生存者416名は復興まで各療養所に分散委託される。

 1935(昭和10)

国立療養所星塚敬愛園が鹿児島県鹿屋に設立される。

 1936(昭和11)

皇紀二六〇〇年を期して,政府は「富豪の国家の浄化に向かって一層の力」を惜しまぬようにと,全ての国民を総動員するかたちで「無らい県運動」を組織化・体制化して,その政策を強力に推進する。

長島愛生園において「長島事件」がおこる。患者らは,日頃の不満と相まって,作業拒否などの行動に出た。たまたま逃走を計画していた患者ら4名が監禁室に収容されるという事件も起き,園側との対立が深まった。そして,患者側の会合を職員が,天井裏から盗聴しているところを発見したため,患者は激高し,警官27名が到着するなか入園者大会を開いて,自治制度の確立を決定した。やがて,患者側がハンガーストライキに突入するなどしていったが,園側が,自治会を「自助会」として認め,患者側も作業ストライキを中止し,一応の解決を見た。

 1938(昭和13)

群馬の栗生楽泉園にて『特別病室』(重監房)が設置される。

外島保養院が長島に邑久光明園として再建される。各療養所に委託されていた患者が光明園に復帰する。

国立療養所国頭愛楽園(現沖縄愛楽園)が沖縄県屋我地に設立される。

 1939(昭和14)

この年までに,全国のハンセン病療養所で断種手術を受けた患者は,1,003人に及んだ。
国立療養所東北新生園が宮城県に設立される。

 1940(昭和15)

厚生省(現・厚生労働省)が各都道府県あてに,「無らい県運動」の徹底を指示する。

厚生省が作成して成立した国民優生法には,断種の対象を遺伝病とみなされた疾病の患者に限定し,ハンセン病患者は除外されることになった。

当時の熊本県警察本部長は,本妙寺らい患者部落住民の一斉検挙を断行する。

大島青松園は,医師数5名,看護婦数11名に対し,在園者638名という状態。医療従事者の少なさから,「患者看護」として患者が病棟の患者の面倒を見るということが強制された。

 1941(昭和16)

青森県を津軽地方と南部地方に分け,大々的な患者収容が行われ,松丘保養園には200名近くが収容された。国立に移管された翌年にも一斉収容は実施され,さらに秋田県まで範囲を広げて,3か月で100名以上が収容された。

鳥取,岡山,福岡,山口,宮城,富山,埼玉が「無らい県」となる。

回春病院が経営難のため解散する。入院患者は九州療養所に収容される。聖バルナバ医院も経営難のため粟生楽泉園に収容される。公立6療養所が国立療養所に移管される。

 1942(昭和17)

目黒慰廃園が経営難のため閉鎖される。入園者は全生園に収容される。

大島青松園の「大島学園」が国民学校令に基づき「庵治第二国民学校養護学級」として認可される。

 1943(昭和18)

アメリカで画期的な治らい薬として「プロミン」が開発される。

国立療養所奄美和光園が鹿児島県に設立される。

 1945(昭和20)

沖縄や宮古島で日本軍により在宅患者の強制収容がおこなわれる。

国立療養所駿河療養所が静岡県に設立される。

 1946(昭和21)

東京大学薬学教室の石館教授によってプロミンが合成される。

衆議院議員補欠選挙で入所患者が初めて選挙権を行使する。

 1947(昭和22)

「第二次無らい県運動」に基づき,療養所の拡張や,「未収容患者」全員の完全収容に務める。戦前の『らいの根絶策』が,厚生省にも引き継がれる。

楽泉園で,初めての患者大会が開催されたが,その中で,在園者の生活改善要求のほか,特別病室に対する不満が噴出した。その後,厚生省の調査団が調査に入るも,厚生省が園側を擁護する立場を崩さないために運動はさらに広がり,やがては「特別病室」に対し国会調査団が派遣され,その様子が朝日新聞やNHKニュースで報道されるなど社会問題化する(「特別病室」事件)。

第20回日本癩学会総会において,石館教授によるプロミンの治験効果の研究が3例報告される。

各療養所に中学校が設置され,教育委員会から教師が派遣される。

 1948(昭和23)

断種と人工中絶の対象にハンセン病患者を明記した「優生保護法」が成立する。

多磨全生園で患者自治会が「プロミン獲得促進委員会」を結成し,請願書を提出するなど積極的に政府への働きかけを行った。

 1949(昭和24)

全国ハンセン病療養所所長会議が厚生省で開催される。
尾村療養所課長は,「根絶を常に頭におけ。運営の重点は収容を徹底するにあり,次は治療」と発言し,根絶策を批判した東局長の国会答弁を全面否定した。
これを受けて小川予防課長が「無らい運動を展開しよう」と提案し,その運動による新患者の収容の方法として,「非常に軽快したものは退所させたら如何か,神経型の古い者など出して代わって重いのを入れたら如何か」と発言した。
この小川発言に愛生園の光田健輔園長が激しく反対し,「それは生兵法大けがのもとだ。軽い神経型で皮膚反応+の者の神経に新しい菌をみた例あり,軽快者だとて出してはいけない。遺言しておく」と発言した。

当年度の予算折衝にてプロミンの予算が大蔵省(現・財務省)により大幅に削られたことから,多磨全生園は全国の園自治会に電報で事態を伝えるとともに,ハンストを行うなどの運動を行い,さらに時の大蔵大臣・池田勇人に面談するなどして,要求通りに増額させた予算を国会において通過させた。プロミン予算5000万円が組まれる。

 1950(昭和25)

らい根絶を目指して全国一斉に「未収容らい患者」の実態調査が実施された。その結果,「未収容らい患者」の総数が2526名と把握され,都道府県別の数も明らかにされるに至った。
これを受けて厚生省は,各都道府県に対し,「未収容らい患者」の一掃を指示,その収容状況を毎年報告するよう義務付けた。

 1951(昭和26)

第12回国会参議院厚生委員会が開催され,当時のハンセン病の国立療養所所長であった光田健輔(岡山・長島愛生園),林芳信(多磨全生園),宮崎松記(菊地恵楓園)の三園長が,患者の意思に反しても収容できる法律の必要性,断種の必要性,逃走罪などの罰則の必要性などを証言した。

全国国立らい療養所患者協議会(全らい患協)が結成される。

 1952(昭和27)

全らい患協は,「らい」の名称を排する立場から,組織名も「全国国立ハンセン氏病療養所患者協議会(全患協)」と改めるとともに,「らい予防法」の改正試案を決議した。これを長谷川保議員らによる議員立法として国会に提出することも決定した。

(1)らい予防法は保護法的性格をもったものとする。 
(2)強制収容の条項は削除する。
(3)全快者または治療効果があり病毒伝播のおそれのないものの退園を法定する。この場合,必要とする者に対してはアフターケアー的施設及び就業斡旋を考慮する。
(4)病毒伝播のおそれのない者の一時帰省を決定する。

この動きに対して,厚生省は,当初予防法改正に消極的だった態度を変え,別の予防法改正案を作成し始めるとともに,長谷川議員らに圧力をかけ,議員立法としての法案提出を見送るように説得した。そして同議員がこれを受け入れたため,画期的な「全患協草案」はついに日の目を見ることはなかった。

これに答えて,当時の吉田首相は,(旧)らい予防法は,日本国憲法に抵触しないと明言し,当面法改正を考えていないことを明らかにした。

いわゆる「藤本事件」が発生する。ハンセン病患者であった藤本松夫は,村のある者から患者であることを当局に密告されたとして,同人を惨殺した疑いで逮捕され,熊本地裁出張裁判で死刑判決を受けた。しかし「ハンセン病偏見によるえん罪ではないか」として全国療養所在園者を中心に救援運動が起こったが,それも空しく,患者藤本松夫は異例のスピード裁判で,57年に最高裁で死刑が確定,再審申立を却下する前に1962年,早々と死刑を執行された。

多磨全生園にて,全入園者の総意による決定によって,園内通貨制度が廃止される。

 1953(昭和28)

(新)らい予防法が制定される。このとき「近き将来,本法の改正を期する」との付帯決議がなされている。
法改正の基本理念として厚生省は,国会において,「らいを社会の蔓延から予防し,公共の福祉をはかるためには,患者を施設に隔離することが唯一の方法であると考えている」と述べている。患者らは療養所での作業放棄などの手法で,法制定に激しく抵抗した。

全国唯一のハンセン病患者専用の刑務所として,定員を75名とする菊池医療刑務支所が,熊本・菊池恵楓園に隣接して設立された。

 1954(昭和29)

厚生省は,療養所での「患者看護」を廃止し,病棟の完全看護切替を指示する。しかし,職員の増員自体が極めて不十分であったため,大半の施設において部分的な切替に終わらざるを得なかった。

長島愛生園に入所するために大阪駅からある患者が出発した後,見送りに来た娘に駅員が消毒薬を浴びせかけ,患者の立っていたところすべてを消毒するという事件が起こる。

熊本の菊池恵楓園附属竜田寮児童が,かねて要望していた近くの黒髪小学校への通学が教育委員会に認められ,通学しようとしたところ,PTA会長ら一部父兄によって激しい反対運動が展開された(竜田寮児童通学拒否事件)。彼らは『らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬよう,しばらくがっこうをやすみましょう』等のポスターを多数貼って,児童らに「同盟休校」を呼びかけた。

 1955(昭和30)

長島愛生園内に邑久高校新良田分室が開校。全国の療養所からの生徒の移動は,普通列車に連結した特別貸切車にて行われた(いわゆる「お召し列車」)。この「お召し列車」は1963年まで存続する。

プロミン等スルフォン剤投与の効果によって,国立療養所におけるらい菌陰性者の割合が約74%にまで急増する(1948年には約26%)。

 1956(昭和31)

カトリック・マルタ騎士協会主催「らい患者救済及び社会復帰に関する国際会議」が51カ国の代表によって開催され,日本からも林全生園長,野島青松園長,浜野藤楓協会理事の3名が参加した。この会議は,「らいに感染した患者には,どのような特別法規をも設けず,結核などの他の伝染病の患者と同様に取り扱われるべきである。従って,すべての差別的な法規は廃止されるべきである」として,すべての差別法の撤廃を勧告した。差別・偏見への対処として,啓蒙手段を注意深く講ずべきことも決議された。

 1957(昭和32)

厚生省は,療養所「収容」患者の「軽快退所決定暫定準則」についてまとめる。
しかし,同準則は患者らには「厳秘」にされ,厚生省が同準則に基づいて各療養所に指示することもなく,しかも準則には「積極的に患者の退所を行わせる意図を含むものではない」とも注記されていた。

大島青松園において,24畳の大部屋を12畳の2部屋に分ける作業が行われた。

 1958(昭和33)

厚生省による退所患者の社会復帰支援策として,生業資金・支度資金・技能修得資金について更生資金貸付が始められた。

熊本県で,療養所当局と警察・検察庁による「脱走患者一斉検束」が行われ,農繁期のために一時帰省していた入園者に対して,「らい予防法」第28条の罰則規定(過料500円)を適用するという事件が発生。

菊池恵楓園にて,隔離の壁の外を巡回し,患者の逃走を見張っていた巡視が行われなくなる。

この頃のハンセン病患者数は,推定15,000名であり,このうち施設に収容されている患者数は10,834名であった。未収容の登録患者数は1,098名であり,未登録患者は約3,100名と推定されていた。

 1960(昭和35)

大島青松園にて,「患者看護」が廃止され,全病棟における看護職員への切替が終了した。

沖縄の読谷高校で,愛楽園を退園して地元中学に復学していた元患者が,高校入試に合格していながら,面接で愛楽園退園者とわかり合格を取り消されたことが判明。同校では前年にも同様の取り消しを行っていた。

国民年金が支給される。第1次該当者(生涯福祉年金3670人,老齢福祉年金157人)

 1961(昭和36)

沖縄で,「ハンセン氏病予防法」(病名変更)が公布施行され,これにより退所規定及び在宅治療制度が導入された。

全患協各支部代表が厚生省交渉を実施した。その際,厚生省は,「(療養所からの)外出自体が違法」であると主張し,各支部代表との面会を拒もうとした。

国鉄鹿児島本線の列車に無賃乗車していた浮浪者風の男を駅員がハンセン病患者と誤信し,当該車両の乗客を他の車両に移して大々的な消毒を行うという事件が起こる。

 1963(昭和38)

全患協は,「らい予防法改正要請書」を厚生大臣に提出し,強制隔離政策の撤廃と退所者の保障,在宅医療の充実等,国の政策の全面転換を求める。
これに対し,当時の厚生省結核予防課長は,「この要求は殆ど予防法の改正を前提としているようだが,将来のことは別として厚生省としては現行法に則って運営していかなければならない。どのような施策も法律の根拠が必要である。」としながらも「1964年度にらい予防制度調査会をつくるべく予算要求をしている」,「厚生省としても早く改正したいと思う」と発言して積極姿勢を見せていた。

 1964(昭和39)

厚生省結核予防課が「らいの現状に対する考え方」を取りまとめる。
そこには,「医学の進歩に即応したらい予防制度の再検討を行う必要がある」とし,その方向として「患者の社会復帰に関する対策」,「医療体制の問題」,「現行法についての再検討」の三つを挙げていた。

熊本菊池恵楓園の患者が朝日新聞支局主催のアマチュア囲碁十傑戦に応募したところ,主催者側から「患者さんが会場に来られると,社会人とのトラブルが懸念される」として出場を断られた。患者自治会の抗議によりいったんは出場が認められたが,数日後に本社からの指示として再び出場拒絶を通告してきた。なお,翌年からは患者の出場が認められるようになった。
愛生園で鳥取県出身者の里帰りが実現する。以後,郷土訪問が各都道府県で実施される。

 1966(昭和41)

長島愛生園において不自由独身患者の個室化(一人あたり3.75畳)がなされる。

長島愛生園に授産施設畳工場ができる。

 1968(昭和43)

長島愛生園において軽症患者の個室化が着手される。

全生園付属高等看護学院が設立される。

 1969(昭和44年)

大島青松園にて,患者部屋の個室化が完了する。

敬愛園に回春者授産の大島紬工場が開設される。

 1970(昭和45)

全患者のうち94%の人々が隔離される。

 1971(昭和46)

厚生省は,国立療養所における収容患者がいつ全員死亡するのかについて,調査を行う。

このころ沖縄愛楽園では,病棟でさえ壁には大きな亀裂が入り,雨漏りで病床が水浸しになるほどであった。当時の犀川園長は,「私もかつて台湾,フィリピン,ベトナム,インドの療養所を訪ねたが,こんな惨めな病棟は珍しかった。」と述べている。

 1972(昭和47)

大島青松園では新造船「せいしょう」を造船することになった。ところが,この船の設計において,従来通り職員席と患者席を区別する設計であることが判明した。患者自治会が強く反対したが,結局,区別が維持されたまま造船され,進水した。

全患協は厚生省当局に対して,療養所作業を患者から職員へ返還すべきこと(作業返還)を求めた。この全患協の最終通告に対して,厚生省は,「作業返還を1年間延期してもらいたい」と申し入れた。

長島愛生園の患者団体が県庁を訪問するために,バス会社に配車を依頼したところ,いったん承諾したにもかかわらず3日前になって断られた。前に患者を乗せた際に同乗職員だけ消毒して,運転手には何の手当もしなかったことが組合の問題となったとのことであった。愛生園自治会の抗議の結果,バス会社は全面的に陳謝した。

 1973(昭和48)

厚生省療養所課の課長補佐が,作業返還について長島愛生園を来訪したが,「本省としては作業返還に対応する措置は全くない。」と発言する。

 1975(昭和50)

全患協は全国の支部代表らを集めて,「将来の療養所のあり方研究会」を開催し,予防法改正を基本的にふまえながら,隔離主義による条項(従業の禁止,消毒,質問及び調査,外出制限など)の削除,在宅治療の促進,退所者及び家族に対する援護措置等の具体的法制化を改正要求として取りまとめる。

 1976(昭和61)

台風17号による集中豪雨で,長島愛生園・光明園が潰滅的な被害を受ける。

愛生園新良田教室の生徒が開校以来初めて本校(岡山県立邑久高校)の授業に参加する。

 1977(昭和52)

松丘保養園にて,老朽化した施設が豪雪により倒壊する。

奄美和光園では,2室制の夫婦舎が建てられた。4畳半に2間だけだったものが,2室になったものである。

 1978(昭和53)

厚生省は,国立療養所における収容患者がいつ全員死亡するのかについて,再調査を行う。

 1979(昭和54)

全生園中学校の卒業式が行われる。2名が邑久高校に進学し,全国で最後の閉校となる。

 1980(昭和55)

長島架橋実現に向けて愛生園・光明園から43人が上京し,厚生大臣への陳情と国会誓願を行う。園田厚生大臣が初めて「長島大橋を次年度予算で実現する」と明言する。

 1981(昭和56)

秋田で,軽い皮膚病(シラクモ)をハンセン病と思いこみ,母親が二児を絞殺し,自分も自殺を図り未遂に終わるという事件が報道される。この問題にふれて松丘保養園長は,「従来の国家的偏見を断ち切って本来の医学的理解に基づく新秩序に,軌道修正する法改正が,どうしても必要である」とらい予防法の撤廃を訴えた。

 1982(昭和57)

琉球大学附属病院において外来治療が開始される。しかし,治療の規模もごく小規模で,年間の初診人数は1986年の25人をピークに,以後,年間数人程度に止まった。

 1983(昭和58)

香川県で,自分も娘もハンセン病にかかっていると思いこんだ36歳の母親が小学3年生の娘の布団の中にガスを引き込んで死なせ,自分も意識を失ったが夫に見つかり一命をとりとめるという事件が起きる。

 1985(昭和60)

菊池恵楓園で,「患者作業」が完全に療養所職員に返還される。

長島大橋架橋第一期工事の起工式が行われる。

 1987(昭和62)

療養所所長連盟が,「らい予防法」の改正に関する請願書を厚生大臣に提出する。

邑久高校新良田教室で1人だけの卒業式と閉校式を行う。32年間,卒業生307人。

 1988(昭和63)

「邑久・長島大橋」の開通式が行われる。テープカットが行われ,参列者全員が渡り初めをする。「悲願17年,隔離を必要としない証,人間回復の橋として,この橋は1ヶ月前に開通した瀬戸大橋より意義は大きい。」と山口鶴男議懇事務局長があいさつを行う。


 1989(平成元)

長島〜西大寺間を結ぶ路線バスが運行を開始する。開園以来の園船が廃止となる。

身延深敬園が閉鎖される。光明園に2名,全生園に11名が転入園する。

 1995(平成7)

日本らい学会が,隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して,らいの恐怖心をあおるのを先行させてしまったのは,まさに取り返しのつかない重大な誤りであったと認める見解を示す。

 1996(平成8)

当時の菅直人厚生大臣の決定により,「らい予防法」が廃止される。同時に,廃止措置の遅れを謝罪する。

優生保護法を「母体保護法」と名称変更するとともに「らい条項(断種と人工中絶の対象にハンセン病患者を明記)」を削除する。

 1998(平成10)

元患者13名が,国を相手に「らい予防法」意見国家賠償請求訴訟を熊本地方裁判所に提訴する。のちに,この原告団の構成人数は127名に達する。

 2001年(平成13)5月11日午前10時

熊本地方裁判所においてハンセン病訴訟に原告側の完全勝訴の判決がおりる。国は控訴を断念する。

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ハンセン病とは

ハンセン病に関しては,多くの書籍やサイト上に解説が掲載されている。私もHP上に簡単にまとめている(再度詳しくまとめなおしたいと思っている)が,大阪府のHPに掲載されている『大阪府ハンセン病実態調査報告書』が詳しく,参考となる。ここでは,その一部を転載し紹介しておく。


1 ハンセン病とは

(1)ハンセン病の特徴

ハンセン病は,らい菌によっておこる慢性の感染症です。 らい菌は,結核菌と同じ抗酸菌の一種で1873年にノルウェーのアルマウェル・ハンセンによって発見されました。
らい菌の第一の特徴は,好んで末梢神経に侵入し,そこで増殖することです。第二の特徴は,他の病原性細菌より温度の低いところを好み,低温で分裂することです。このため手足の先や顔,鼻,耳など体温の低い部位,すなわち人目につきやすいところに病変がおこります。第三の特徴は,細菌の増殖する速度が大変遅いことです。そのためハンセン病は,感染から発病まで潜伏期間が長く,数カ月から数十年と,様々に言われています。
このようにハンセン病は,外見に変化をきたす皮膚病の特徴と身体障害を引き起こす神経病の特徴などに加えて,治療法の確立されていなかった時代には,徐々に重症化するために,「特殊な病気」として取り扱われてきました。そのうえ患者を排除しようという国策によりさまざまな社会的要因が加わり,患者とその家族は偏見と差別に苦しめられることになったのです。

(2)感染と病気

ハンセン病は,らい菌による感染症ですが,菌の感染力は弱く,また感染しても発病することは極めてまれな病気です。
感染経路としては,従来,皮膚の触れあいによる接触感染説が有力視されていましたが,最近では,未治療患者の鼻粘膜・鼻汁に存在する菌が排出され,これを吸い込むことにより気道を経て感染するとの考え方が主流となりつつあります。
らい菌の感染力は結核菌よりも極めて弱く,免疫機能が十分に働いていない乳幼児期,あるいは極度に免疫力が低下した場合(たとえば戦争,飢餓,貧困などの社会経済状況)を除いて,発病することはほとんどありません。これはハンセン病療養所に勤務した職員が一人も発病していないことからも明らかです。

(3)治療

ハンセン病回復者に多く見られる手足の変形などの後遺症は,1940年代まで有効な治療薬がなかったこと,療養所での不十分な治療のほか所内で強制された「患者作業」が大きく影響しています。
現在ハンセン病の治療は,化学療法を中心に行われています。1945〜55(昭和20〜30)年代は主として,スルフォン剤による単独治療が行われ,さらに,1965(昭和40)年代後半になって,結核の治療薬のリファンピシンが,らい菌に対して有効であることが明らかになりました。
その後,1981(昭和56)年には,WHO(世界保健機関)が,リファンピシンを中心に複数の化学療法剤を加えた多剤併用療法を提唱し,わが国においても,多剤併用療法が次第に治療の主流となっていきました。
この治療法は,治療結果だけでなく,再発率の低さ,治療期間の短縮などの点で画期的であり,数日間の服薬でらい菌はその感染力を失ってしまいます。
現在では,ハンセン病は早期発見と早期治療により,後遺症としての身体障害を残すことなく,外来治療によって治癒する病気になっています。また発見がおくれて後遺症を残した場合でも,手術を含む現在のリハビリテーション医学の進歩により,その障害は最小限に食い止めることができるようになりました。


2 嫌われた病気 ─ ハンセン病と隔離政策

(1)ハンセン病に関する最初の法律 ─「癩豫防ニ關スル件」

かつては「癩・らい」と呼ばれたハンセン病は昔から洋の東西を問わず“嫌われる病”でした。治療薬のない時代であり症状が顔,手足などに現れ,隠しようのないことも大きな要素でした。
それに加えて,わが国では,“うつる”(伝染する)と考えていた人もいましたが,一般には“血筋の病”つまり「遺伝病」だと考えられたうえ,一部の宗教の影響で前世の因果,悪業の報いとして「天刑病」,「業病」と言われ,社会から排除されていました。
その一方で,仏の生まれ変わり,あるいは福をもたらすものとして地域によっては,少なくとも忌み嫌われるだけではなかったという言い伝えもあります。また,仏の慈悲にすがり病の全快を願って寺をめぐったお遍路さんに救いの手を差し伸べる人たちもいましたし,神社や寺,観光地の周辺に集まって物乞いをする患者たちは,社会の片隅でひっそりと暮らしていました。嫌われ蔑まれても,それなりの居場所を見つけ出すことができたのです。
その背景には,昔から大流行したこともなく簡単に伝染するような病気ではない,とされていたことがありました。ところが1897(明治30)年,ベルリンで開かれた「第一回万国癩会議」に出席した医師二人によって,「ハンセン病は『らい菌』による感染症であり,会議では患者の隔離が必要と決議された」という情報がもたらされると状況は一変しました。
「天刑病だ」,「遺伝病だ」といった従来の概念に加え“うつる病気”というイメージが積み重なり,“危険な病気”“近づかないのが一番”という疾病観が次第に国民の間に広がっていきました。
それと同時にわが国の議会でもハンセン病に対する関心が急速に高まり,患者隔離の方策を探る動きが現れるなど,議員からハンセン病患者の取り締まり,隔離に関する質問や意見書・法案提出があいつぎました。
政府部内でも議会とは少し違った視点から患者対策への関心が高まっていました。

当時,欧米諸国では,ハンセン病に対して医療衛生・福祉の両面から施策を講じ,この病気の予防・治療と貧しい患者を救済するための療養施設を整え,街中で物乞いをするような患者の姿を,ほとんど見かけなくなっていました。

日本では,この病気に対する衛生医療対策,福祉政策は皆無で,わずかに外国人宣教師による慈善的な療養施設が,貧しい患者の治療を行っているだけでした。
この頃の日本は,日清戦争(1894〜5〈明治27〜8〉年)の勝利で世界の注目を集め日露戦争(1904〜5〈明治37〜8〉年)にも勝利をおさめ,“大国”として一目おかれるようになっていました。
しかし,政治,経済,社会生活,どこから見ても欧米の先進文明国のレベルには,遠く及ばないというのが実状で,明治政府にとっては,何としても国際社会の一等国として欧米諸国と肩を並べたい,というのが当面の重要課題であり,街をうろつく患者の姿は“国の恥”を世界にさらす「国辱」的な存在としか映らなかったのです。

議会では,感染力の程度,「患者野放しは文明国の恥」,といった点に議論が集中しました。政府・内務省は,「ハンセン病は感染症ではあるが感染力は弱く,コレラや赤痢のような伝染病と同様に扱うことはできない」と,答弁はしたものの“国の体面にかかわる……”という点では異論なく,1907(明治40)年第23回帝国議会でハンセン病に関する最初の法律「明治四十年法律第十一号 癩豫防ニ關スル件」(資料108ページ参照)を制定しました。“浮浪らい”と蔑称され,物乞いなどで生計を立てている患者を療養所に隔離し,街中の目ざわりな存在をなくすというのが目的でした。

この法律の第三条は次のように規定しています。

癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官廳ニ於テ命令ノ定ムル所ニ從ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ

このように“養生できる資力がなく経済的に面倒を見てくれる者がいないハンセン病患者は療養所に入れて救済する”というのが,この法律の趣旨だったのです。

先に書いたように「第一回万国癩会議」の決議では,予防の最善の策は隔離であるとしています。その隔離の方法は,「らい菌」の発見者アルマウェル・ハンセンの提唱によるもので,「那威ノルウェーの学者ハンゼン氏は極めて寛大なる意見を有し,癩病会議の際提出せし論文に次の如く云えり」として光田健輔東京市養育院医員(当時)がその内容を次のように紹介しています。

(一)癩病は一般清潔法の普及により其伝染を予防し得可し。
(二)癩病の隔離は故郷におい於て充分に行なわれ得可し。
(三)貧民の癩病に罹りたるものにして自宅の隔離不完全なる時は国立病院に救助隔離せらる可し。
(四)癩病院に入院せしむる事は場合によりては絶対的とすべく(貧民浮浪者等)或は任意的とす可し(富者)

「癩病患者に対する処置に就て」『東京養育院月報』五十九号 明治39年,『光田健輔と日本のらい予防事業』財団法人藤楓協会 収録)

つまり,“ハンセン病は衛生状態の向上で,ある程度,感染を予防できる。家庭内で留意すれば,感染の危険のある病状の者を除き隔離は絶対に必要というものではない。資力が乏しく自宅での隔離ができないときは,救助のため隔離入院させればいい。入院は原則任意とし浮浪者や療養する資力の無い者は,場合によっては絶対的隔離も必要”という緩やかな隔離方法=相対的隔離方式(ノルウェー方式)でした。

この病気はめったにうつらない,そのことは当時から専門家の間では,ある程度知られていましたし,政府も議会答弁で感染力は弱いことを認めていました。それでも政府は敢えて隔離政策を採用します。「隔離は必要」という「第1回万国癩会議」の決議を理由に,病気の蔓延を防ぐというノルウェー方式の本質を尊重することなく,その手段である隔離策に重点を置いたためでした。

熊本判決(「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟,熊本地方裁判所判決)は,このようにして生まれた最初の隔離法について「制定当初から感染から発病にいたるおそれが極めて低い病気であることは知られていた。国辱論に引きずられた結果であり,隔離の必要性はなかった」としています。 この法律「癩癩豫防ニ關スル件」制定の際の責任者であった窪田静太郎内務省衛生局長は後年,法律制定の背景を次のように語っています。

自分の考えでは伝染病に相違ないが,思ふに体質によって感染する差異を生ずるので,伝染力は強烈なものではない,古来遺伝病と考えられたのもその辺に存るのであらうと思うたのである。しかし,伝染の点は右の如しとしても,患者の救済を要すること,また風紀外観上相当の措置を要することは差迫った問題であると思って居たのであるが,救済のことや風紀取締りのことは内務省内では自分以外に主管者があること故,かたがた着手に躊躇して居たのである。

世論も大いに放浪患者の救護の必要を認むるようになったので,衛生局長たる自分としてはらいの伝染の予防を主たる理由とし傍ら患者当人の救護も必要なりとの理由を以て,先づ放浪者を一定の場所に収容して,公費を以て救護を与える方針を定めて着手することにしたのである。

(『創立三十周年誌』財団法人藤楓協会)

このことは,熊本判決にも符合する内容です。 そして,この法律を受けて1909(明治42)年,全国を5地区に分け地区毎 に連合府県立の療養所(資料81ページ参照)が設置されます。こうしてハンセン 病医療政策ははじめて具体的に動き出しました。

(2)救護から絶対隔離政策へ

1925(大正14)年,この法律の性格が一変します。法の改正によってでは なく,“浮浪らい患者”に限っていた療養所への隔離対象者の範囲をできるだけ広 げるよう衛生行政を所管する内務省,つまり国が法律の解釈の変更を決めたのです。
その変更は内務省衛生局長名の通知,衛発第一二〇号通牒「癩患者ノ救護ニ関ス ル件」で,この年8月,各地方長官,つまり道府県知事に伝えられました。

癩患者ニシテ療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノハ行政官廳ニ於テ命令ノ定ムル所ニ從ヒ療養所ニ入ラシメ之ヲ救護スヘシ

先に紹介した「癩予防ニ関スル件」第三条の条文です。〈療養ノ途ヲ有セス〉という文言は,従来の“住居も資力もない”という解釈を改め“療養の設備を持たない”とし,〈救護者〉は単なる扶養義務者をいうのではなく,“扶養能力に加え病気治療が可能な者”と理解するように,と指示しています。
いずれも病院の経営者でもないかぎり不可能なことは明らかで,この解釈変更により,事実上すべての患者が入所対象者とされることになりました。
通知の後半部分では,患者の救護費用(患者収容に要した費用)の弁償のことに触れています。このような解釈の変更には,この問題が深くかかわっていたのです。

1907(明治40)年にできた「法律第十一号施行規則」では,扶養義務者が 見つかれば患者を引き取らせると規定していたので,一旦入所しても扶養義務者の 存在がわかれば,引き取らせたうえ入所期間中の費用まで弁償させました。

第三条の規定に合致する入所資格の判定には,とにかく時間がかかりましたし, 患者収容の費用の処理も大変でした。収容地の府県が立て替え,患者またはその扶 養義務者に弁償を求め,弁償が不可能な場合は府県の負担となりました。扶養義務 者確定の作業から始め,居場所探しも必要です。わかったとしてもスムーズに解決 するとは限りません。いろいろな事務処理がうまく運ばず,都市部では入所できな い患者が大勢出ていました。
衛生局長の通知が出される3か月前にも,内務省から指示が出されています。

大正十四年五月二十九日の全国警察部長会議の席上で,…(中略)…指示が出されている。救護費弁償の規定を緩和し,療養所をもっと活用すべしというのである。

(山本俊一『日本らい史』)

通知に至る背景には,公立療養所の拡充など1921(大正10)年に策定した 増床計画に十分な見通しが立ったこともありましたが,患者隔離に重点を置きなが ら救護の建前を持つ法律を制定,救護の建前にしばられ隔離の成果があがらない, といった状況も影響していました。
通知による法律の解釈変更は,すべての患者を隔離できるようにし,患者隔離に 重点をおきなおすためのものだったのです。
そして1929(昭和4)年には施行規則を改正し,申し出による入所を認めることにしたのに続き,1931(昭和6)年,この法律は「癩予防法」(法律第五八号)(資料110ページ参照)として生まれ変わります。

患者の就業禁止,物件の消毒・破棄などの条項が設けられたほか,最初の国立療養所「長島愛生園」が1930(昭和5)年に設立されるなど大幅に収容能力が拡充されたのを機に,入所費や収容の費用など一切を国または道府県の負担とし,第三条で入所対象者を次のように定め,先に書いた解釈変更に,はじめて法的な裏付けが与えられました。

行政官廳ハ癩豫防上必要卜認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ從ヒ癩患者ニシテ病毒傅播ノ虞おそれアルモノヲ國立癩療養所又ハ第四條ノ規定ニ依り設置スル療養所ニ入所セシムベシ

この規定により,家族に累が及ぶのを恐れて,本籍を隠し,住所不定の偽名の患者であっても入所できるようになり,すべての患者を“浮浪らい”と同じ扱いで療養所に収容することが可能になりました。 すべての「らい」患者を療養所に送り込む「絶対隔離政策」の始まりでした。

(3)特効薬登場,新憲法も無視して隔離継続

1930(昭和5)年,内務省は約10年の策定作業を終え「癩の根絶計画」を発表しました。20年計画,30年計画,50年計画の3案があり,採用された 20年計画では10年間で患者の隔離を終え,残る期間内に根絶の目的を達するというものでした。

この20年計画が1936(昭和11)年から実施され,また,1929(昭和4)年に民間から始まっていた「県から気の毒なハンセン病患者をなくそう」という「無らい県運動」は,1937(昭和12)年,日中戦争が始まると共に戦時体制に組み込まれ,この頃から国によって組織的,体制的に推進されます。

1938(昭和13)年,衛生行政は内務省から新設の厚生省の所管となります。 1941(昭和16)年には,連合府県立の療養所も国立となり,管轄は厚生省に変わります。そして,その年,財団法人癩予防協会が「癩豫防に關する根本對策要綱」を策定,国策として「無らい県運動」の徹底が図られることになりました。

…第二 無癩運動の実施 癩の豫防は,少くとも隔離によりて達成し得るものなる以上患者の収容こそ 最大の急務にして之が爲には上述の如く収容病床の擴充を圖ると共に患者の 収容を勵行せざるべからず而して患者収容の完全を期せんが爲には所謂無癩 運動の徹底を必要なりと認む。…

(「癩の根本対策」 『近現代日本ハンセン病問題資料集成<戦前編>』不二出版 収録)

この要綱により,「家族救護」「十坪住宅運動」などと並んで「患者精密調査の実施」に重点がおかれ,「浮浪らい」患者の取り締まり,在宅患者の隔離収容など,1931(昭和6)年の法改正で明確にした絶対隔離政策が「無らい県運動」のかたちで強力に推し進められることになりました。このような「無らい県運動」は戦後も続いたのです。

1946(昭和21)年,アメリカのハンセン病療養所で画期的な効果をあげた治療薬プロミンの合成に東京大学の石館守三教授が成功,多磨全生園を皮切りに試用が始まり,短期間で目を見張るような効果が確認されました。ハンセン病は治る病気になったのです。またたく間にプロミン獲得運動は全園に広がり,それをきっかけに患者運動は大きく盛り上がっていきました。

このような情勢のなかで1949(昭和24)年6月,全国国立癩療養所長会議が厚生省で開かれました。会議の模様を伝える資料(「全国所長会議」 『近現代日本ハンセン病問題資料集成<戦後編>』不二出版 収録)によると,会議では厚生省の東医務局長が「本年は過去40年を顧みて反省し将来の根本策を計画すべき年である。…必要あらば予防法を変えてもいい」と発言しており,また,厚生省の予防課長は「非常に軽快した者は退所させては如何か」という提案をしています。

しかし,絶対隔離政策を推進してきた長島愛生園の光田園長は,「軽快者だとて出してはいけない」と反対しました。
このほか,この会議では,療養所の収容能力の増強,患者の一斉検診の実施などが話し合われたようです。これは単なる戦前からの政策の継承ではなく,新しい憲法,治療薬プロミンの登場という状況の下で,新たな「無らい県運動」(「第二次無らい県運動」)による新規の絶対隔離政策が国によって展開されたということを意味しています。

このように「無らい県運動」は戦前戦後にわたって展開され,あらゆる機会をとらえ「らいは伝染力が強い恐怖の伝染病だ」という偽りのプロパガンダが繰り返されました。そして患者が収容されたあと家中が真っ白になるまで行われた消毒,「伝染病患者輸送中」の張り紙をした患者輸送専用列車などは“恐怖の病”を印象付ける格好の手段でした。こうしてこの病気に対する恐怖,嫌悪,差別の感情は日本の隅々にまで広がりました。

隣近所に情報を流し,国民の差別感情を利用して患者をいぶり出す心理的強制も収容のテクニックとして当たり前のように行われたことは,原告団や在園者の話からも明らかです。

特に「第二次無らい県運動」では,全国の自治体を巻き込み,組織的・機能的に展開されます。判決では,「このような無らい県運動等のハンセン病政策によって生み出された差別・偏見は,それ以前にあったものとは明らかに性格を異にするもので,ここに,今日まで続くハンセン病回復者に対する差別・偏見の原点があるといっても過言ではない」と断じています。

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2010年09月25日

癩者の装い

『歴史のなかの「癩者」』第一章に次の一文がある。

『源平盛衰記』巻44に次のようにある。

鳥羽里の北,造道の南の末に,溝を隔て白帯にて頭をからげ,柿のきものに中ゆひて,桛杖など突いて,十余人別に並居たり。乞食の癩人の法師共也。

癩者の衣装に関する初見史料である。『石山寺縁起』では,癩病の女子が着た「かきのかたびら」を老僧が剥ぎ取ると全快した。柿衣は癩病を象徴している。一休は,『自戒集』の「養叟カ癩病ノ記」において,癩病になった法敵である兄弟子の養叟を法罰だといい,黄衣を脱いで柿帷に換えていると罵倒している。柿衣は癩者の衣服であった。また,火葬したことに対し,「癩ヲヤクコト無法ナリ」と述べて,死までを差別している。
癩者は柿衣以外に青衣系統の衣も着ており,衣装についても,この世ならぬ冥界の亡者や神秘的な聖者の服装とされたり,差別の徴だとされたりもする。覆面についても,穢れを隠すためであり,穢れの象徴とされる一方,癩人法師すなわち非人の出家姿であるとされたりする。両義的である。ただし,信徳丸が弱法師との異名をつけられたように,法師は必ずしも出家法師を意味するとは限らない。

…五条橋から木戸をくぐると清水坂の登り口に小屋があり,頭巾姿の癩者がいる。小屋の後に北山十八間戸に似た「長棟堂」がある。この癩者を管理したのは,同じ服装をして死を管理した犬神人であろうか。癩者の服装が亡者の服装の側面もあったが,それで葬送地鳥辺野の入り口に集められて犬神人に管理されたのであろうか。癩者を亡者とみなす説から生まれた理解であるが,神仏の化身ならばどのように解釈できるであろうか。

小林茂文「古代・中世の『癩者』と宗教」

中世の絵巻では,犬神人の服装は白覆面で柿衣を着た姿で描かれている。

こうした中世被差別民の衣服(装い)が「渋染一揆」の衣服問題と関係づけられて論じられてきた。これについては今後,考察したいと思っている。

posted by 藤田孝志 at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史背景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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