2010年09月11日

聖と賤の両義性

別冊歴史読本『歴史の中の聖地・悪所・被差別民』に所載されている「善光寺と差別」(笹本正治)に「病者と聖性」と題された一文があり,癩病に纏わる伝説がいくつか紹介されている。

光明皇后伝説

皇后は悲願のため,奈良法華寺において1000人の俗人の垢を洗い流すことを決めた。最後の1000人目にあらわれたのは,全身に血膿をもつ悪疾の患者だった。しかし,皇后は厭うことなく,背中を流し,さらに患者に乞われるままに膿まで吸い出してやった。その瞬間,浴室に紫雲がたなびき,患者は立ち上がって黄金の光を放ち,「我は阿閦仏なり」と言葉を残して消え去った。

説経節「をぐり」

毒酒を飲まされて死んだ小栗判官が,病み崩れた癩の身となってこの世に戻され,餓鬼阿弥といわれながらも妻照手姫の引く土車に乗せられ,熊野湯の峰に浴したところ,神々の功徳のおかげで,元の偉丈夫に戻ったという奇跡譚である。

説経節「しんとく丸」

継母に呪いをかけられて癩病になったしんとく丸が熊野の湯に向かう。その後,乙姫が清水寺に連れて行き,観音の力によって元の姿に平癒した。

八幡浜市白石の姫塚

癩病にかかった京都の公家のお姫様がうつぼ船に乗せられ,流れ着いた。姫は白石で暮らしていたものの,漁村で賑やかなため,静かな山村を望み,三瓶町鴫山に移住したという。鴫山では,姫のために小屋を建て,食べ物をかわりがわる差し上げた。姫はこの地に癩病がおきないよう,法華経を石に書写しながら,ついには亡くなったとされる。

松虫皇女(摩尼珠山医王院松虫寺)

聖武天皇の第三皇女の松虫姫が癩病になって,千葉県印旛郡印旛村に捨てられたが,薬師如来の力で平癒した。その後,彼女は都で死んだが,お骨をここに納めたと伝えられる。

笹本氏は,これらの伝説を紹介して「癩病(者)そのものが聖と賤の両義性を持っている」が故に,中世における寺社の聖性は被差別民に支えられてきたが,時代とともに神仏への恐れが消え,彼らの聖性は忘れ去られたと述べている。


こうしてみると,差別された人々は元来神と人の中間に位置する聖なる者と意識されていたといえよう。それ故に,社会的風潮として神仏との接点となる祭礼や市において,彼らが必要とされていたのである。一方,善光寺としても聖性を示すのに彼らの存在は大きかった。聖なる者に対する畏怖が,聖と反対の賤にもつながった。ところが,そうした聖性が忘れられると,彼らの役割は置き去りにされ,賤の部分が強調され,生計のための手段としてのみ市役が周囲から意識された。実態として,善光寺のような大きなお寺で,経済力があり,人が多く集まる場だからこそ,施しという形でも生きていくことができるという,病者に対する経済的側面も存在した。

つまり,現在における差別意識は時代の中における人々の社会的役割の変化を前提とする結果である。近世・近代に住んだ人々は,中世の人々が着目していたあの世とこの世といった世界観,神仏を絶対的なものとする世界観から離れたために,差別された人々の持っていた両義性のうち,聖の部分が忘れ去られ,賤なる部分だけが増大したものだといえよう。そしてこれは,人々の神仏に対する考え方の変化,神仏への恐れの減退と軌を一にするものなのである。


この「聖と賤の両義性」という考えは従来より述べられてきた。たとえば,「敬われながらも畏れられた人々」という表現で,「キヨメ」という神秘的な異能の力と「ケガレ」という忌み嫌われ排除される要因を言い表してきた。

笹本氏は,この両義性が崩れた要因を「時代の中における人々の社会的役割の変化」によって「聖性が忘れられた」ことに求めているが,私はそれだけではなく,職業の専門化・社会的分業の細分化・生活圏の拡大と交流・社会集団の形成と固定化,等々の要因が背景にあると考えている。

聖性が忘れ去られた要因は何か。聖性そのものは寺社と僧侶・神主に残り,賤だけが被差別民に残った。つまり聖と賤との分化・分業化がおこなわれたのではないだろうか。中世から近世にかけて,賤民もまた彼らが担った社会的役割や職業が分化・分業化される中で,社会や人々による「賤」であるかどうかの再認識が繰り返され,脱賤化した賤民もいれば,さらに強く賤視されていった賤民もいたと考える。

賤民の担っていた社会的役割と賤民の呼称が各地域によって様々であることは,地域の独自性と時代性に関係している。中世における中心は京都であり,朝廷・公家であり,寺社であり,これらのネットワークを通じて「賤民による社会的役割」が各地域に伝わっていくとともに,各地域の実情に対応した形になっていったと考えられる。特に寺社においては,本寺−末寺の関係などから寺社に属している賤民の担った社会的役割は各地域においても同様に扱われたと考えていいだろう。

近世,江戸時代における中心は,江戸であり,幕府・武士であり,寺社である。幕藩体制では各藩はそれぞれの実態に応じた支配体制を構築していったが,それらは幕府の政治体制に範を求めながらである。特に,参勤交代制の確立以後は江戸在住の留守居役が見聞したり,幕閣や他藩重臣から聞いたことなどが各藩に伝えられての政治改革や制度改革につながっていると考える。被差別民の社会的役割が制度化・固定化されていく背景もこれに要因があると思う。

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2010年09月09日

自覚なき差別意識

療養所制度の発足以来多くの療養所で大小さまざまの紛争が発生したが,昭和11年に起こった長島愛生園での紛争(長島事件)は,原因が患者側と療養所側との間にわだかまっていた根本的な対立関係に根ざしており,当時の療養所が背負わされていた矛盾が一度に露呈してきた事件,すなわち起こるべくして起こった事件といえる。

長島愛生園でも,職員の不足を補うため,患者が園内の労働に従事していたが,8月10日,園当局が抜き打ち的に患者作業を総点検し,不正を摘発したことに患者側が抗議して翌日から作業を拒否,待遇改善を求めてデモをおこなうなど園側と対立を深めた。8月13日,患者側の会合を職員が盗聴しているところを発見され,患者は激昂,翌14日,岡山県警察部の警官27名が到着するなか入園者大会を開き,自治制度の確立,園長光田健輔ら四名の職員の辞職勧告を内務省に嘆願することを決定した。8月18〜19日には患者側はハンガー・ストライキに突入するなどたたかいはエスカレートし,結局,8月28日,園側は自治会を「自助会」として認め,患者側も作業ストライキを中止し,ここに事件はいちおう解決した。

(藤野豊編『歴史のなかの「癩者」』)

なぜこのような事件が起こったのか。

当時(1935年),愛生園は890名の定員に対し,1163名を超えるという定員超過の状態であった。内務省の治療費や食費の予算は定員分しか用意されていないから,患者関係経費は実質3割も低下し,入所者の生活条件や医療は悪化の一途をたどり,居室も12畳半に8名から10名,夫婦舎も6畳1間の部屋に2組の夫婦を同居させるという非人道的な状態であった。それにもかかわらず,園は根本的な解決を図ろうとはしなかった。
また,定員超過により,患者作業の作業賃の支出が3倍以上の増となり,作業賃も低下させられていた。そのため,患者の不満は蓄積し,8月10日,夏期早朝作業のはじまる午前5時半,職員による作業場の総点検を実施したことや,同じ日,逃走を計画していた4人の患者が検束され,監禁室に入れられたことを機に一気に爆発したのである。


長島事件については,別項にて詳しく検証したいと考えている。ここでは,長島事件が決着した後,事件の全責任を一部の「不良患者」「社会主義者」に押しつけ,患者への弾圧強化を強めたことで,逆にハンセン病関係者の間から患者への非難が集中したことを取り上げたい。

井の中の蛙大海を知らず,とか。実際井の中の蛙の諸君には,世間の苦労や不幸は判らないのであります。随って,如何に諸君が幸福であるか,如何に患者が満ち足れる生活をさせて貰ってゐるかを知らないのであります。蛙は蛙らしく井の中で泳いで居ればよいのであります。生意気にも,大海に出様等と考へる事は,身の破滅であります。又,大海も蛙どもに騒がれては,迷惑千万であります。身の程を知らぬと云ふ事ほど,お互いに困った事は無いのであります。(中略)患者諸君が,今回のごとき言行をなすならば,それより以前に,国家にも納税し,癩病院の費用は全部患者において負担し,しかる後,一人前の言ひ分を述ぶるべきであると。国家の保護を受け,社会の同情のもとに,わずかに生を保ちながら,人並みの言い分を主張する等は,笑止千万であり,不都合そのものである。

( 「長島の患者諸君に告ぐ」『山櫻』18巻10号 1936年)

この一文は,関西MTL(mission to lepra という当時の「救癩」団体)の理事で童話作家の塚田喜太郎が多摩全生園の機関誌に寄稿したものである。
MTLの理事がこのような嘲りを患者に向けて浴びせる当時,世間がハンセン病患者に対してどのように考えていたかは伺い知ることができるだろう。

隔離にじっと甘んじている限り,患者は「同情」されるのであるが,隔離に少しでも不満を表明すると,その「同情」は非難や嘲笑に取って代わるのであった。

(『歴史のなかの「癩者」』)


このような世間の認識は決して昔のことではない。まったく同じ反応が最近でも起こっている。それは,「アイスターホテル宿泊拒否事件」に関連した世間の反応である。

今回のアイスター事件については,ハンセン病と回復者に対する差別の二重構造が明らかになったという指摘がある。ホテル側の表面的な差別の背後に,社会の広範で深刻な差別構造が存在している。菊池惠楓園自治会がホテル側の形式的な謝罪を拒否したところ,抗議の手紙やファックスが殺到した。こうした抗議の存在こそが正面から見据えるべき問題の本質だと考えられる。

回復者たちが同情されるべき存在としてうつむいて控えめに暮らす限りにおいては,この社会は同情し,理解を示す。しかし,この人たちが強いられている忍従に対して立ち上がろうとすると,社会はそれに理解を示さない。それが差別・偏見であることに気づいていない。このような指摘である。差別意識のない差別・偏見といえようか。深層に入ったものだけに,根が深く,その是正は必ずしも容易ではないが,人の手で作ったものを人の手で壊すことができないはずはない。この差別意識のない差別・偏見も,自然発生的なものではなく,人為的に,それも「無らい県運動」等によって政策的に作られたものだからである。

(『ハンセン病問題検証会議最終報告書』)

最初は宿泊を拒否されたハンセン病回復者に好意的だった人々が,ホテル側の謝罪を拒否した途端に回復者に向かって投げかけた侮蔑的な言葉と攻撃は,まさに「同情」の裏に潜んでいた「差別意識」を露呈させたものであった。

「汚い, 人前へ出るな」
「人間と同じ行動をとるからホテルに迷惑かけやがったんだ」
「豚の糞以下」
「化け物」

恵楓園の自治会に寄せられた中傷文書は4月末までに 117通. 電話はゆうに 200件を超えた. 多くは無記名だった。.

「お前らはぬくぬくとしていて, ホテルは廃業に追い込まれたんだぞ」

自治会の役員たちは一件ごとに丁寧に説明する。40分も受話器を離さない相手もあれば, 一方的に話して, 切ってしまう人もいる。北海道, 東京, 大阪 …… 発信元は全国だ.。これほどあからさまな憎悪が向けられたのは, 園が始まって以来のことである。そこまでの憎悪がなぜ向けられることになったのか。
「紋切り型の謝罪文を読み上げただけ. 事前に『本社の決定事項』と言っていたのに, 総支配人は『私の責任』と言うばかりで事実と違う。 トカゲの尻尾切りのような状態では, 謝罪文を受け取ろうにも受け取れませんでした」
太田明・自治会長は振り返る。
この時, いらだった入所者からヤジが飛び, テレビの生中継が声を拾った.。新聞には, 深々と頭を下げるホテル側の写真とは対照的に, 自治会は「謝罪文を受け取り拒否」などとする見出しが躍った。
自治会への誹謗中傷が始まったのは翌日からだった。

「謝罪されたら, おとなしく引っ込め」
「同情していたが, それほど偉いのか」
「病気を盾に, あまりいい気にならないでください」

自治会の真意は伝わらなかった。 「弱者が弱者でいるうちは同情されるが, 少し頭を持ち上げると,『生意気』とたたかれるのが今の世の中」と受け止めた入所者は多い。
だが, それ以上に,
「恐ろしい伝染病の患者ををそう簡単に平等扱いする人は絶対にいないことをあなた方は自覚してください」
などと無知丸出しの中傷が少なくなかった。

こんな手紙も相次いだ。

「気持ち悪いのは事実でしょ. 断ったホテルに拍手. 権利と騒ぎなさんな. 調子に乗らないの」
「身も心もいやす旅なのに台無しだ」
「湯船の中に元患者が何人かつかっていらっしゃったら, 私は風呂の中には 100% 入らず, シャワーをして引き揚げると思います」
「ホテルを潰して何がうれしいのか」

逆に自治会には, 何か動きがあるごとに手紙や電話が押し寄せ, 入所者たちは社会から集中砲火を浴びたのである。
「一通の手紙がこれほど心に刺さるのか。この痛みは一生消えないでしょう。宿泊拒否よりもその後の方がこたえた」という太田会長が, 胸をえぐられる思いで見つめたはがきがある。

「仏が与えた罰は一生や二生では贖罪できるものではない」などと書かれた真ん中に, テレビの画面が複写して張ってあった.。それは, 詩人としても有名な入所者が初めて里帰りしたのを取り上げた番組の一コマだった.。東北地方の農家に生まれ, 後遺症で失明し, 両手両足も不自由になってしまった。 しかし, 入所 60年にして, ようやく里帰りを果たし, 雪深い故郷で同級生の町長に迎えられた.。その笑顔が張ってあったのだ.。

「そこまでやるか」
太田会長は涙を抑えられなかった。


飲食店に行ったら欠けた食器で出され, 食後は一切合切を捨てられた -- などという体験を少なからず持つ入所者は「拒否自体は案外慣れていて, 身のかわし方は上手」という。むしろ入所者が気を使ったのは, 息子ほどの世代の県の担当者だった。
「参加した全員が慰めてやろうと思ってね. 夕食ではお酒を飲まない人まで歌ったり, 職員とダンスをしたりでした. 高齢の方まで誰一人中座しなかった」
入所者たちは, 自らは拒否されても, なお他人を心遣っていたのである.。
そうした入所者たちに浴びせかけられた中傷は, あまりに的外れだった.。

「今度は金銭の要求ですか !」という手紙があった。自治会が要求したのは, 金銭ではなく, 名誉だった。金銭と言えば, 国家賠償訴訟で勝った原告は「園外の家族に迷惑をかけたからと, 連絡もない家族に右から左へと渡した人が多かった。それさえ拒否された人もいた」という。

「税金で運営される施設で生活していますね。差別 (区別) されて当然です。自己中心的な現在の日本の形をあなた方の行動で感じました」との文面もあった。
園の運営は不自由者の 24時間の世話から, 食材生産, 清掃, 火葬, 理髪とあらゆる業務が「患者作業」という超低賃金の強制労働で賄われていた。
「税金で運営」どころか, 入所者の労働で維持されていたのだ。清掃に至っては98年まで続き, 一部の事務は今も残っている。重労働が後遺症を悪化させた人もいる。事実はまったく逆である。

「無菌者なら社会のために働きなさい」これは入所者の胸を貫く言葉だ。

平均年齢 76歳. 恵楓園で障害を持っていない入所者は約500人のうち 40人程度しかいない。

【葉上太郎】 我々は再び「人間抹殺」の愚を犯すのかハンセン病・元患者の宿泊拒否事件 大量の誹謗中傷文書が示す「無知と実像」
『サンデー毎日』2004/05/30 毎日新聞社 より抜粋して転載

彼らの「同情」「憐憫」の本質は,自分は彼らとは「ちがう」という意識である。自分はハンセン病ではないという意識である。それは,ハンセン病に対する差別と偏見を内包している。

ハンセン病の実態を知らず,隔離政策の歴史を知らず,一面的な報道から判断する。自分の無知に気づかず,しかも自らを「正義」「善」「弱者の味方」と思っている。
感情的な文章が,攻撃的な言葉が,いかに的外れであり,入所者の心を傷つけるか,さらには「人権侵害」であるかなど思いもせず,彼らは発言している。

「自覚なき差別意識」がもっとも恐ろしい。「正義」「正しさ」という判断があれば,目的のためには手段は選ばない。相手にダメージを与えることが「目的」であれば,最も有効な「手段」を選択する。

その際,自分の「確信」は決して問い直しはしない。自分は正しいことをしているのだから。
あるいは,自分の「感情」を肯定する。「生意気だ」「〜のくせに」等々の発言が,自分をどの立場においての発言であるかなど考えもしないだろう。自分を「上」に置いているということに気づきはしない。

「同情」「憐れみ」の対象として「みてあげていた」のに…である。


「同情」「憐れみ」「いたわり」の感情の欺瞞について鋭く指摘したのは,『水平社宣言』である。

…種々なる方法と多くの人々とによってなされたわれらのための運動が,なんらのありがたい効果をもたらさなかった事実は,それらのすべてが,われわれによって,また他の人々によって,つねに人間をぼうとくされていた罰であったのだ。そして,これらの,人間をいたわるかのごとき運動 は,かえって多くの兄弟を堕落させた…

われわれは,かならず,卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって,祖先をはずかしめ,人間をぼうとくしてはならぬ。そうして人の世の冷たさがどんなに冷たいか,人間をいたわることがなんであるかをよくしっているわれわれは,心から人生の熱と光を願求礼讃するものである。


北条民雄の反問が,人間としての唯一の救いであるように思う。

諸君は井戸の中の蛙だと,癩者に向かって断定した男が近頃現れた。勿論,このやうな言葉は取り上げるにも足るまい。かやうな言葉を吐き得る頭脳といふものがあまり上等なものでないといふことはもはや説明の要もない。しかしながら,かかる言葉を聞く度に私はかつていったニイチェのなげきが身にしみる。「兄弟よ,汝は軽蔑といふことを知ってゐるか,汝を軽蔑する者に対しても公正であれ,といふ公正の苦悩を知ってゐるか」全療養所の兄弟諸君,御身達にこのニイチェの嘆きが分かるか。

しかし,私は二十三度目の正月を迎えた。この病院で迎える三度目の正月である。かつて大海の魚であった私も,今は何と井戸の中をごそごそと這い回るあはれ一匹の蛙とは成り果てた。とはいへ,井のなかに住むが故に,深夜沖天にかかる星座の美しさを見た。
大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚にこの星座が判るか,深海の魚類は自己を取り巻く海水をすら意識せぬであろう,況や−

( 「井の中の正月の感想」『山櫻』19巻1号 1937年)

北条民雄の全集では読んでいたが,長島事件との関連があったことは知らなかった。北条のこの切り返しは見事である。塚田喜太郎の一文と対比させれば,塚田の軽薄な高慢さと差別意識が浮き彫りになる。

「大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚」という表現は,当時の隔離政策への痛烈な批判である。

posted by 藤田孝志 at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 長島愛生園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月31日

目的と手段

わが国のハンセン病隔離政策を考えるとき,光田健輔の影響は絶大である。だが,光田一人の責任を問うことで,ハンセン病隔離政策の全容も問題性も解明できるものではない。

たとえば,なぜ隔離がありえたのかを,光田の個人的資質に還元して説明する立場がありえるが,僕はこの立場に与したくない。個人一人の力で成し遂げられるものはそう多くない。たとえ一人の貢献が大きいように見えたとしても,それはその人を必要とした時代と,その活躍を許容した共同体の「質」あってのことだろう。ハンセン病隔離医療の成立を巡って,光田が果たした役割はまさにこうしたものだったと僕は考える。光田はたしかにいくらかは時計の針を進めたかもしれないが,彼があらわれずとも隔離するメカニズムはいつかは作動し,病者を排除収容しただろう。

『「隔離」という病い』(武田徹)

些か光田の貢献(責任)を過小評価しているように思うが,確かに光田を「必要とした時代」があり,彼を支えた(賛同して協力した)人間や組織,彼を受け入れた社会風潮があり,これらがマッチングしたからこそ,光田イズムが絶大な力を持ち得たのだと思う。そして,それはハンセン病患者にとって最大の不幸でもあった。


『ハンセン病 これまでとこれから』には,国賠訴訟によって明らかにされたハンセン病問題を総括するために,さまざまな角度からの課題が提起がされている。
近代国家そのものがもつ「歪み」をハンセン病問題が象徴していると感じた。
その「歪み」とは,近代化・文明化・人類の福祉などの美名・大義名分によって「劣等なるものへの排除・排斥」が正当化されてきたことだ。

光田健輔は「救癩の父」と尊敬される一方で,絶対隔離政策を強引に推進し,患者を全滅させることがハンセン病の撲滅であると,解剖・断種・中絶を断行した。この両極の評価が,彼もまた人間である証左である。人間であるから独善性の落とし穴に陥ることもある。しかし,本人はそのことに気づきもしなかっただろう。
光田の悲劇は,誰の声にも耳を貸さなかったことだと思う。それだけ第一人者としての使命感と自負心があったのだろうが,彼の偏狭な考えがわが国のハンセン病政策を誤らせたのも事実だ。


…戦後はとくに人類の福祉が重んぜられ,また人権が尊重せられるようになって,まことに結構なことである。ただ人類の福祉のためにライを予防するのであり,予防の手段として隔離をするのである。

気の毒なライ者とライ者の家族を国家がめんどうをみるのは当然のことである。私も生涯を打ちこんで,ライ者の生活を好転させるよう努力を惜しまなかったつもりである。

光田健輔『愛生園日記』

あらためて私は,Der Zweck heiligt die Mittel(目的は手段を正当化する)ことの恐ろしさを痛感している。
光田は「人類の福祉」という<目的>のために,<手段>として「隔離」を最適と考え実行した。
<手段>の適切さの検証が十分になされなかったこと,何よりも光田の独善性や傲慢ともいえる頑固さ,偏狭さが他者や世界の声(手段)を黙殺したのだ。

ハンセン病者を探し出し,強制隔離をしておきながら,そして自分たちでハンセン病者が危険な存在であるという偏見を植えつけ,勝手にハンセン病者を「不幸」だと決めつけておきながら,それを隔離政策の犠牲者の福祉や生活のためだというのである。「国家がめんどうをみるのは当然」という光田の言葉が端的に示すような,自分たちはハンセン病者のために尽くしている,「不幸な」ハンセン病者のめんどうをみてやっているなどという傲慢な「自意識」こそが,権力者の思想である。こうした傲慢な権力者の思想が「福祉」というシンボルによって,その実態を暴露されることなく,憲法違反の隔離政策を長きにわたって継続させてきたのである。

「ハンセン病訴訟と権力者の思想」(石埼学)

もし光田健輔が生きていれば,なお彼は頑強に自らの信念を主張しただろうか。

posted by 藤田孝志 at 17:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 責任と課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月23日

ハンセン病呼称の変遷(3)

『証言・ハンセン病−療養所元職員が見た民族浄化−』(森幹郎)に,ハンセン病呼称に関する言及があった。

…1951年,第十二回国会参議院厚生委員会に参考人として出席した長島愛生園園長・光田健輔は「癩病をハンゼン病と変えたらいいではないか」という質問に対し,「病名をハンゼン病というふうに日本で変えるということについては,子供みたいな話ではないかと私どもは考えるのであります」と証言しました。また,何かのとき,私に向かっても「ハンセン氏病か!」と吐き捨てるように言いました。「ハンセン氏病」という言葉の裏に患者運動の「胡散臭さ」を感じ取り,アレルギー的な拒絶反応を示したのです。光田の意見に配慮してか,1953年,らい予防法案の真偽に当たっては,衆参両院とも「病名の変更については,十分に検討すること」という付帯決議が付けられました。

光田健輔はなぜ「子供みたい」と思ったのか。
森氏の言う「胡散臭さ」を感じた背景にあった「患者運動」を自分に対する反発ととらえていた彼のパターナリズム,さらには彼自身の中にあった「ハンセン病」への差別意識がみえてくる。「ハンセン病の撲滅」という使命感とともに,彼の中にはハンセン病患者を「救済」してやっているという意識,ハンセン病患者への「座敷豚」に象徴される蔑視観があったと思う。ハンセン病専門医としての自負心と高慢さ,自信過剰とも思える自己正当性が感じられる。


森幹郎氏が「らい病」を「ハンセン病」へと言い換えることに反対したのは,次の理由からだという。

偏見と差別は言葉を換えることぐらいでなくなるものでないからです。

発見者の家族や同姓の人の気持ちを考えたら,星や植物の学名ならいざ知らず,偏見と差別にまみれた疾患の病名に発見者の名前など付けないほうがいいというのが私の主張でした。

もし,古くからのらい病が鈴木病と命名されたら…鈴木先生の家族や全国に二百万人もいると言われる鈴木さんの気持ちはいったいどうなのであろうか?きっと<らい病>を<鈴木病>とは呼んでほしくない,というのが本音ではないだろうか?

私は,森氏の考えは矛盾していると思う。「偏見や差別は言葉を換えたくらいで…」には同感するが,「偏見と差別にまみれた疾患の病名に発見者の名前など付けないほうがいい」とはどういうことだろうか。
この森氏の考えには「らい病」という病名ではなく「ハンセン病」という病気そのものが「偏見や差別にまみれた」病気であるという,それこそ病気そのものに「偏見や差別」があるように受け取れる。いかなる病気であっても,その病気そのものが「偏見や差別」されるということはあってはならない。「らい」「らい病」という呼称に,そう呼ぶ人間の「偏見や差別」が込められているのであって,「偏見や差別」を受ける病気があってはならない。

森氏の論理では,<鈴木病>であろうが<ハンセン病>であろうが,「らい病」は「偏見や差別」を受ける病気であると言っていることになる。「川崎病」は人名を付けてもよくて「ハンセン病」はいけない,など病気によってちがいがある方がおかしいだろう。私は彼の考えには賛同できない。

「偏見や差別」で見られていた病気の名前に「人(自分)の名前」を付け(られ)たことが問題という森氏の発想はおかしい。なぜなら,問題は「人名を付ける」ことではなく,病気を「偏見や差別」のまなざしで見ることだからだ。

「らい病」を「ハンセン病」に換えることは,単に病名の変換ではなく,病気に付随してきた「偏見や差別」そのものを払拭させようとする願いと活動が込められているのだ。

「らい病」という言葉が持っていた偏見と差別を「ハンセン病」という言葉が受け継がないよう努力することが重要です。

上記の森氏の言葉にも違和感を感じる。誰が「らい病」に「偏見と差別」を持っていたのかであり,なぜ「偏見や差別」を持つようになったのかを考えるべきだ。

「ハンセン病」という病名になったら,「Hansen」さんは「偏見や差別」で見られるようになるのだろうか。この論理や発想では,いつまでも「らい病」そのものが「偏見や差別」をもたれる病気であることのまちがいが払拭されることはない。

病気の呼称が問題なのではなく,病気に対する「偏見や差別」の意識(認識)が問題なのである。


同書に,日本政府がハンセン病を「国辱」として対応し始めた原因が書かれている。

1906年のことです。ひとりのハンセン病患者がイギリス大使館の門前で行き倒れになっていました。早速,大使館の館員は外務省を訪れ,「日本のような一等国の町のなかでハンセン病の患者が浮浪しているのは国の恥です」と言いました。

1905年,第二回日英同盟が協約され,駐日公使館は大使館に昇格しました。その翌年,イギリス大使館の門前でハンセン病の患者が行き倒れていたのです。
我が国政府は富国強兵策をとり,先進国にキャッチアップすることに総力を挙げていましたから,同盟国イギリスの大使館から「日本の恥」と言われると,慌てました。わが国のメンツは丸潰れだったからです。また,1899年,亜米利加(アメリカ合衆国)との修好通商条約が廃止されると,五つの開港地にある居留地は開放され,市中を歩く外国人の数も増えてきました。当局は「日本の恥」を外国人に見せてはならないとの思いを一層強くしました。

「国辱」と指弾された政府にとって,ハンセン病対策は急務となった。だが,隔離政策を訴えたのは光田健輔であり,彼の意見を採用したのは当時の政府関係者である。国家の責任を糺弾するよりも,当時のハンセン病対策に関係した人間及び彼らの考えこそを解明する必要がある。国家もまた人間の集合体である。

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2010年08月20日

『特殊部落調附癩村調』

1916年,ハンセン病療養所全生病院は,北海道庁および各府県に対して,市郡単位で「私宅療養癩患者調」ならびに「特殊部落調附癩村調」の調査を依頼・実施している。

藤野豊氏の論文『ハンセン病問題と部落問題の接点―「特殊部落調附癩村調」の意味するもの―』をもとに,まとめておきたい。 この調査が意味するもの,実施された時期,その歴史的背景をみていくとき,国家による「民族浄化」が国策として実施されていく過程がわかる。

「癩予防ニ関スル件」(1907年)が制定された背景として,1899年に外国人の「内地雑居」を認めたことが大きい。藤野氏も「註」として紹介しているが,小熊英二氏が『<日本人>の境界』で述べているように,「北海道旧土人保護法」(1899年制定)も同じ背景(理由)であり,監獄法や精神病者監護法の整備も同じである。つまり,「欧米人の視線から<野蛮>ないし<汚濁>とみなされかねない存在を隔離し被いかくす対策」であった。この延長線上に本調査もあったと考えられる。
このようなに見てくると,光田にとり,1916年に全生病院でおこなった「癩村調」では,「癩決闘部落」としての「癩村」についてのデータが不十分であり,そのため,保健衛生調査会四部で,あらためて「癩部落,癩集合地等ノ状況調査」をおこなわせ,より詳しいデータを得る必要があったとみなすことができる。すなわち,光田は,1915年に内務省に提出した意見書を具体化させるため,1916年にまず全生病院として「癩村調」をおこない,さらに1919年には保健衛生調査会として再度,調査をおこない,より正確な実態を把握しようとしたのである。 …将来の絶対隔離に向けて全国の患者数と分布を確認するため,そして,「癩村調」については,絶対隔離のための候補地を確認するためであり,いずれも絶対隔離を実施するうえでの準備となる調査であったと結論付けることができる。
本調査が実施された当時の全生病院長は光田健輔である以上,光田の意向により調査がおこなわれたのは自明のことである。 当初の光田は,島への絶対隔離を即座に実施することは無理と考え,全国にある癩村・癩部落を「癩病療養区域」に設定して周囲と厳重に隔離しようと考えていた。
従来癩患者ノ集合シ若クハ多数ノ癩病ノ発生スル区域ニ於テ健康人トノ区画ヲ厳重ニシ,予防設備ニ注意シ。茲ニ移住土着スル癩患者ニシテ各種ノ職業ヲ営ム者ニ対シ国税及地方税ヲ免除シ。此レ迄附属シタル市町村ヨリ独立シテ一箇ノ自治制ヲ許シ。医療機関ヲ,特設(する)
光田は,これらの調査の項目に「癩部落,癩集合地」だけでなく「現在癩患者ナキモ口碑伝説等ニ存スル癩部落,集合地等」も報告するように求めている。

しかし,患者の絶対隔離の場所は「島」が選ばれる。光田は保健衛生調査会委員として島の調査をおこない,沖縄県西表島を最適と報告している。 なぜ「島」(離島)が選ばれたのか。それは患者の逃走を防ぐのに有効であったからである。


当時,被差別部落には近親結婚・血族結婚により「天刑病」(ハンセン病)が多いという俗説が流布していた。本論文で,藤野氏が引用している資料を転載しておく。
往日封建ノ世ニハ士農工商穢多非人各階級ヲタテテ容易ニ相婚スルヲ許サズ穢多非人ニ至リテハ之ト火ヲ一ニセズ況ンヤ結婚ノ沙汰に於テヲヤ階級ノ区別斯ク厳重ナルニ…(中略)…今日ニテハ旧時ノ穢多非人モ既ニ平民ニ列シテ人間並ノ交際ヲ為スニ至リタレバ此輩ノ血糖モ亦社会ニ広マル可キナリ 下流ノ人民中ニハ癩病遺伝ノ家少ナカラズ

高橋義雄『日本人種改良論』(1884年)

明治四年穢多非人の称を廃し,平民に列せられて,常人と雑居するに至れりと雖も,祖先以来不潔なる生活に甘ぜし彼等の習慣は,清癖なる日本人種の擯斥する所となる,且や彼等は一村内近親結婚をなせし結果として,又丐社会の不潔なる食物を食ふ結果として,穢多乞丐間には往々癩病の血統あり

森貞三郎「穢多と戦敗者」(1905年)

癩病患者の生するは其源因確ならざれども近時専門家の唱ふる所によれば同族最近の血族結婚又は早婚或は花柳病患者の子孫等に多しと云ふ

徳島県内務部編『特殊部落改善資料』(1910年)

被差別部落には血族結婚によってハンセン病患者が多いということは,ハンセン病を「遺伝病」とみなしていることになり,恐ろしい感染症であるから絶対隔離が必要であるとする光田の考えと矛盾するように思える。藤野氏はこの疑問について,「体質遺伝」の考えが光田にあったとする。つまり,光田はハンセン病に罹りやすい体質が遺伝すると考え,それを理由の一つとして「断種」手術の必要性を述べている。

このような俗説が世間にある中で,被差別部落を「癩病発生の病竈地」とする全生病院教誨師であった真宗大谷派僧侶本多慧孝の報告は,絶対隔離を目指す光田に大きな影響をあたえた。だから,彼は本調査をおこなったのである。 この結果,ハンセン病と被差別部落を結びつける偏見はより強く人々に広まり,被差別部落との婚姻忌避は助長され,ハンセン病患者の絶対隔離が正当化されていったのである。


『部落解放研究』に掲載された宮前千雅子氏の論文「前近代における癩者の存在形態について」は,前近代におけるハンセン病者の実態を概観しながら,近代のハンセン病隔離政策を支えた「差別意識」の歴史的背景を明らかにしている。特に,古代から近世までのハンセン病者がどのような存在として社会の中で位置づけられていたか,近世の身分制においては「穢多」「非人」身分との関わりはどのようなものであり,身分としてどのように社会的に位置づけられていたかを考察している。 光田健輔が「特殊部落調附癩村調」を実施した背景について,宮前氏は次のように述べている。
おそらく癩者を見つめる人々の眼差しは,…癩者と接点のあった「穢多」身分や「非人」身分に向けられたものと同質のものであったのではないだろうか。その眼差しが近代以降の部落差別につながっていったのと同様に,その眼差しがあったからこそ,そしてその眼差しが厳しかったからこそ,近代に入ってからのハンセン病者の徹底的な隔離政策も可能であったのではないか。 …「偏見と誤解」を生んだ背景に,近世における癩者と「穢多」身分,「非人」身分の接点があったとしたらどうであろうか。「穢多村」を調査すれば,かつてその支配下にあった「癩村」の実態がつかめる―そのような調査者側の認識が存在したのではないか。
支配者・支配構造・政治形態などは時代の変遷によって変わっていくだろうが,人々の認識や意識はなかなか変わるものではない。それが偏見や先入観であれば尚更だろう。差別意識が払拭されにくい理由の一つもそこにある。 光田がハンセン病患者を救済したい,ハンセン病を撲滅したいと決意・実行したことは称賛すべきことである。だが,その方法論に大きなまちがいがあった。その方法論の背景には彼のハンセン病に対する認識の中に差別意識がなかったとは言えないだろう。
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2010年08月13日

対岸から

長島を対岸より初めて眺めた。

先日,友人と「岡山いこいの村」を訪ねた。このレジャー宿泊施設の裏山には野鳥観察コースがある。散策のつもりで歩いてみた。日差しが強く,日中の暑さに汗が流れる。

夏の暑さ,太陽の光,汗をかくことも必要と思い,自然の中で過ごそうと思ってここに来たのだからと,山の中の散策にチャレンジしたのだが,さすがに日中の山登りは堪えた。しかし,標高300m近くになると,吹く風も清々しく,実に心地よい。木陰で,木々の間を吹く風に身を任せていると,流れる汗がひんやりとさえ感じるほどだ。


山の中程まで登って,少し開けたところで振り返ると,そこに「長島」があった。

目の前に広がる小豆島の姿,快晴だったのですごく近く感じられた。その手前に小さく,2つに分かれた「長島」の全景が見えた。私は,長島をこのように対岸から,その全貌を眺めるのは初めてのことだ。今まで,このように「対岸」から見ることは一度もなかった。

しばらくの間,漠然と眺めていたが,そのうちに何とも言えぬ違和感が心に広がっていった。長島の職員棟,礼拝堂,医療棟,不自由者寮舎など患者住宅が緑に覆われた山の狭間から見えるのだが,そこに生気が感じられない。まるで無機質な工場のようにも見える。

たぶん私は,そこが「愛生園」であることを知っているから,そう思うのかもしれない。何十回となく通い,長島のほぼすべてを歩いている私にとって,静寂ではあっても生活の気配を感じる愛生園なのに,対岸から見る愛生園はまったく別の世界に感じてしまう。人の気配,生活感がない。動きがないのだ。そして何よりも強く思ったのは,人工物の感覚だった。

『「隔離」という病い』の中で武田氏も書いているが,まず最初に「建物」があり,そこに人々が住み着いたのであって,人間が住むために切り開き住居を建てたのではない。

…どこでも同じような長屋が並ぶ風景が延々と続いた。…風景はいかにも退屈だった。この差異の乏しさにこそ,僕はここを設計した人たちの意識が示されているように感じられた。
少なくともそれは,そこに暮らすここの人びとの生活の個性を尊重する姿勢ではなかった。はじめから「かた」にはめようとする意志,どんな暮らしぶりの人でも同じ「かた」にはめられると信じて疑わない暗い傲慢さのようなものを僕は感じはじめていた。

知らない人にとっては,リゾート地のように感じるかもしれない。宿泊客の何人かに聞いてみても,そこが国立ハンセン病療養所であることを知っている人はいなかった。島に住む人の住居かバンガロー,倉庫,あるいはホテルかペンションのように思っていたそうである。
ホテルの前庭に,一望できる島々の展望案内板があるが,島の名前のみが記されているだけで,どこにも療養所とは記されていない。ホテルのパンフレットにも,ブルーラインの道の駅にある周辺の景勝地を記した案内図にも,長島は書かれていても療養所の名はない。

ひっそりと静まりかえった対岸の島,建物だけが見える。十数年後,住む人のいなくなった長島,施設だけが残る島として,変わらぬ風景となるような気がする。
これが光田健輔の望む長島の未来像であり,国家が望むハンセン病撲滅が成し遂げられた姿だったのだろうか。

ハンセン病という「病」が地上から消え去ることは,ハンセン病患者が消滅することである。これが光田健輔の信念だった。完全隔離・終生隔離・絶滅隔離の信念である。

私は,2日間,幾度となく長島を見続けていた。部屋から,前庭から,ロビーから,様々な角度から長島を眺め続けていた。


写真を撮ることさえ忘れていた。翌日,デジカメを持ってきていたことを思い出して数枚を写した。しかし,昨日のような快晴ではなく,雲が重く空を覆っていた。まるで,らい予防法のため島内から出ることができず,終生隔離されていた当時の彼らの心を投影しているかのようだった。


対岸から「長島」を見て,あらためて「隔離」の意味を考えている。そして私は,自分自身が「対岸」に生活している人間であることを強く感じている。隔離や差別においても,私は「対岸」にいるのだ。この「立場」の自覚が重要である。

眼前にある島で何が起こっていようとも,隔絶された島の対岸に生きるかぎり,我々は無関係であっても無関心であっても生きていくことができる。知ろうとしなければ,見ようとしなければ,そこが何であっても,何が起こっていても,対岸から眺めるだけで生きていくことができる。

そう考えたとき,このような政策を実行した国家の責任ばかり追及することの欺瞞を感じる。国家も人間が創りだし,政策も人間が作り出し,それを黙認しているのも人間なのだ。責任追及や犯人捜しのような批判に終始することよりも,歴史的教訓としての検証作業の方が重要であると,私はそう思う。そして,現在を生きる人間の一人として,私自身の生き方と在り方もまた検証すべきと思っている。
自己の正当化と他者の批判からいったい何が生まれるというのだろう。虚しい自己満足しか残らないように思う。私はそんなもののために,自分の人生を生きようとは思わない。

光田健輔や彼の後継者たちを断罪することや責任を問うこと,彼らの言動の誤謬と影響を批判すること,私はそれらを目的とはしていない。外国との関係からハンセン病対策を終生絶対隔離政策とした明治以後の近代国家の誤謬と責任を批判することも目的ではない。批判が目的となってはいけないと思っている。批判のために「検証」作業があってはならないと思っている。
批判が目的となれば,目的のために手段が正当化される。いかに傲慢で独断的であっても,辛辣な表現であっても,揶揄・愚弄する言説であっても,それらが「批判」であることで正当化されるというのは,まちがっていると私は思う。

私が問い続けるのは,「なぜ」である。なぜ隔離政策が生まれたのか,なぜ「らい予防法」がつくられ,それが今日まで改正も廃止もされなかったのか,等々の「なぜ」を明らかにしていく「検証」作業を通して,関わった人間の考え,その当時の国家を取り巻く情勢,歴史過程が解明され,今日の様々な課題を解決していく「視点」が見えてくると考えている。


長島愛生園の対岸に立つことで,今まで見落としていた視点を知ることができた。愛生園の中,ハンセン病療養所の中に入らないと見えないものもある。しかし,「木を見て森を見ない」と同様に,愛生園を外から見ることも大切である。

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2010年08月08日

排除のメカニズム

書棚奥に忘れていた『「隔離」という病い−近代日本の医療空間』(武田徹)を読み始めた。十年ほど前に買って読んだときはそれほどに心が動かなかったのだが,今は武田氏の視点にとても共感を覚える。それは,彼の問題意識に共鳴するからだろう。
本書より彼の問題意識と視点が述べられている部分を抜粋してみる。

…まず僕は感染力が弱いのに強制収容され,治療法があるのに終身隔離されたひとが「かわいそうだ」という論理を採用したくない。その論理の裏側には感染力が強く,治療法がない病気の患者は強制収容,終身隔離されてもしかたがないという論理が貼りついているからだ。

…患者や関係者が長きにおよんだ運動の果てに勝ちえた予防法廃止の時点で「かわいそうな患者たち」が新たに「発見」され,悪法が「非難」されるだけでしかないというところにこそ,ハンセン病問題の本当の根深さがあると僕はあらためて思ったのだ。

…事実を知らされれば,なるほどだれでも「かわいそうだ」と思う。ひどい法律だったと批判もする。しかし,そんな反応をする人が,ハンセン病隔離は,隔離医療という近代医学が語句日常的に採用している方法の一適用例であり,その意味で自分達の生活の地平に属するものなのだという認識を持っているとは僕には思えなかった。だから,感情の高まりが消えてゆくにつれて,問題も遠く感じられるようになり,やがて忘れてしまう。

…これまでも患者たちの実情を知って「かわいそう」と思う人はいたし,法律の不備を指摘する声もあった。しかしそれが広がりを持ち,強く持続する世論を形成することはなく,結局,「らい予防法」は延々と生き延び続けてしまった。

僕は「哀れな被差別者」を中心に挟んで,「無知のうちに差別に与している大衆」と,「差別撤廃に積極的な一部良識派」が対立している構造での議論を行うつもりはない。そうではなく,まさにそうした対立を包み込む「質」を有して近代日本という名の共同体はありえたのであり,ハンセン病患者へのひどい隔離医療が行われたのも,その現実をほとんどの人が知らずに来てしまったのも,実は同じ根を持つ問題なのだと考えたいのだ。

ハンセン病者は病原菌を有するという差異によって共感できない非・身内的存在=他者となった。彼らは病者として見下され,「皆に迷惑を掛ける」から絶滅収容所的な療養所に排斥されてもしかたがないと結論づけられてしまう。こうした他者に不寛容な社会の「質」が,ハンセン病者への非人道的な処遇を黙認してしまった土壌としてあったのだと思う。
そして,その土壌は今もなお自覚されずに残っているのではないか。

…僕はハンセン病患者達の人権が,感染力が弱く,隔離が不必要な病気にかかっていたのにもかかわらず,療養所の中に閉じ込められていたから蹂躙されたとは考えない。というのも,その論理の裏側には,感染力が強い病気にかかった患者は強制的に隔離してもしかたがないという論理が張り付いている。そんな論理が潜在的に生き延びている以上,ハンセン病を巡って多くの問題を孕んだ隔離はなんどでも繰り返される。

病者は「やはり自分とはちがう」と差別的に考える。そんな意識が深層に巣くっている以上善意と寛容をもって相手に接し,それが破綻したところに相手を人間あつかいしないひどい隔離が発生することは避けがたい。そのようなものとして近代日本共同体の「質」はありえるのだ。

武田氏は,本書の「主眼」を次のように述べている。

ここでの主眼は日本という共同体の「質」に関する議論であり,その内部の存在としてのハンセン病療養所に触れることで共同体全体の輪郭を描き出したいのだ。…隔離という医療行為は,多かれ少なかれ単純な感染予防の実効面に留まらず,差別や排除のメカニズムを潜ませているが,その極端な例が日本のハンセン病隔離だった。近代日本は排除の実践の結果,みずからの内部にハンセン病療養所を生んだのである。なぜそのようなものが生まれ,育ってしまったか。ハンセン病療養所という特殊な場所についての議論をとば口として排除のメカニズムが作動する仕組みとその特性を解析すること―。それは「病んだ」近代日本共同体の相貌を描き出すことになる。

「排除のメカニズム」の解明こそ,私が部落問題に関わり,部落史を研究テーマにして考察していることである。部落問題とハンセン病問題の根本的な共通性は「排除の被害者」である点にある。
なぜある特定の病者が,なぜある特定の集団(に属する人々)が「排除」されたのかという理由や論理よりも,特定の集団や人々を「排除」する「メカニズム」を考えたい。


人が人を攻撃したり排除したりするメカニズムは,国家や社会のシステムの影響下にあるとともに,個人の人間性や人格にも起因している。この両者は相互に影響し合い,時に相反し,時に相補しながら時代を形成してきた。

posted by 藤田孝志 at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハンセン病呼称問題

Googleのアラート「ハンセン病」に,Blog【ぶんやさんち】の「聖書におけるハンセン病についての表現」 という興味深い一文が紹介されていたので,転載させていただく。

筆者は,キリスト教に関係されている方のようで,聖書の訳語が「らい病」を「重い皮膚病」と改められたことについて簡潔にまとめておられ,私見も述べられている。

聖書から「らい病」という言葉を無くそうという要望が1996年4月に日本カトリック司教協議会から日本聖書協会に寄せられ、続いて同年5月に日本聖公会総会の決議により、同じく7月には日本基督教団宣教委員会等からも訳語の変更要望が提出されました。それらの要望に応えるという形で、1997年4月以後日本聖書協会から発行される聖書について、「らい病」という言葉は「重い皮膚病」に改められた。

「らい病」という表現が暗い歴史を背負っているということは事実である。その場合に、「らい病」という病気に対する間違った認識が、多くの人々に不条理な人生を強制してし、そのことによって「らい病」と呼ばれた人々も、あるいはその家族や、さらには全ての人々にも不快な思い出になっていることも事実である。その意味では「らい病」という言葉は不快語であり、その病気を正しい認識に基づいて新しい表現が要求された。「ハンセン病」というのが、その新しい表現である。

宗教とはあまり縁のない私なので,聖書の訳語が改められたことは知っていたが,その経緯について詳しくは知らない。この改称の経過をみると,ずいぶんと早い決断と対応であったことに驚く。その理由は2つある。

1つは,我が国においてもハンセン病との関わりが古く,そして深いキリスト教会にあって,なぜ「1996年」なのかという疑問からである。明治以降,ハンナ・リデル女史やイギリス人宣教師コンウォール・リーなど熱心なキリスト教宣教師や信者によって「救癩活動」がなされ,その流れの中で日本人のキリスト教関係者も,個人や組織として深く広く関わってきたと聞いている。ハンセン病患者の精神的な救済に大きく貢献したのは宗教である。それはまぎれもなく事実である。ハンセン病患者でキリスト教の信者となっている方は多い。そのような深い関わりがあれば,患者が「癩病」「らい病」の改称を願っていることは知っていただろう。にもかかわらず,何の行動も起こさなかったのだろうか。(寡聞にしてよく知らないので,勝手なことを言っているかもしれない)

もう1つは,要望から1ヶ月ほどで「決議」し,約1年間で改称されたという,その早さから論議は十分になされたのだろうかという疑問からである。キリスト教会の世界では議決権は誰にあるのか知らないが,最も重要な聖書の訳語を改めることはそれほど簡単なことなのだろうか。もちろん,改称すべきことに異議を唱えるものではない。

つまり,ハンセン病患者からの長きにわたる要望には耳を貸さず,「らい予防法」廃止の後に,あっさりと改称したという感を否めない。(キリスト教だけではないのだが)


聖書で使われているハンセン病を示す言葉は、旧約聖書では「ツァーラト」というヘブル語で、新約聖書では「レプラ」というギリシャ語である。これらの言葉が指し示している事柄は今日でいうハンセン病とは重なる部分もあるが、異なる要因も含んでいる。その意味ではこれらの言葉を単純に「ハンセン病」と翻訳する訳にも行かない。同時に、これらの言葉を「重い皮膚病」と翻訳してしまうことにも問題が残る。そもそも旧約聖書においても、新約聖書においてもこれらの言葉には差別的な意味合いが強い。それを「重い皮膚病」と翻訳してしまったら、人間が根源的にもっている差別構造が見えなくなってしまう。イエスに対して「あいつはサマリア人である」と批判し連中に対して、「イエスはサマリア人ではない」と反論したとしても、差別する人間の本質を告発したことにはならない。また、サマリア人という言葉を別の言葉に言い換えても同様である。ただ単なる言葉の言い換えでは、差別の構造を隠してしまうことになる場合もある。結論として、現在のところ「重い皮膚病」という翻訳でよしとしておき、解釈によってその不備を補うしかしょうがないであろう。

聖書の「レプラ(lepra)」(古代セム語で「ツァーラアト」)がハンセン病のみを指していたのではない。病理学成立以前に「らい」「レプラ」と呼ばれていたものが,すべてハンセン病だったと断定はできない。
現在では『旧約聖書』当時のイスラエルにハンセン病は存在しなかったと考えられている。
このような考えに立てば,ヨブなどが罹った病気は「重い皮膚病」と表現する方が適切かもしれない。

私は,筆者が問題とされる意味がよくわかる。私も同感である。
「言葉」「表現」だけの呼び換えや言い換えでは,その言葉の歴史的背景や人々の意識の中にある「差別構造」が隠されてしまうだろう。だからといって,「らい」の言葉を使い続けることには疑問があるし,何より患者の立場(思い)から反対である。

言葉の背景を的確にとらえて,その意味する本質を理解することが重要である。言葉や表現を言い換えても,その本質が隠されたり消えたりするのでは本末転倒である。だからこそ,我々はハンセン病問題も部落問題も学ぶ必要がある。差別の本質に迫る学習が必要なのである。

私は,厳密な学としての「言葉」や「表現」の重要性は認めるが,それ以上に「差別の解消」を第一の目的とする「言葉」「表現」を大切にしたいと思っている。

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2010年08月07日

ハンセン病呼称の変遷(2)

まだ十分に整理できていないので,詳しく「呼称の変遷」「改称の経緯」に関して述べることはできないが,いつの日にか「ハンセン病問題の歴史的背景」をまとめたいと考えている。その際に呼称と改称についても言及したいと思っている。


1995(平成7)年4月に開催された日本らい学会総会においてが「らい予防法」検討委員会より1年間の検討を経た結果報告が行われた。その報告書の前文に,次のような一文が書かれている。

…なお,「旧法」に関連する論述と医学用語には“らい”を用い,その他には“ハンセン病”を用いる。

この日本らい学会の反省表明を受けて,厚生省から委託を受けている「ハンセン病予防事業対策調査検討会(座長大谷藤郎)が「中間報告書」を作成し,厚生省に提出している。その「V 社会的見地から」に,呼称の問題が書かれている。

ハンセン病はかつて癩病あるいはらいと呼ばれ,現在も学名や法律用語としてはらいが使われている。ハンセン病の特色は,医学的なこともさることながら,「らいを病む人とその家族」に対して社会から加えられた仮借なき差別の存在である。
らいという言葉そのものが「怖いもの」「卑しむべきもの」「汚いもの」などと連想され,本人だけでなく家族,親族までが結婚,就学,就職,交際等社会生活のあらゆる分野において陰に陽に不当な差別を受けてみた。病気を秘密にしようとして数多くの悲劇がみられ,遂には自殺,一家心中にまで至った例もある。

ここ十数年来関係者の努力により,ハンセン病と通称されるようになってきて,若い世代にはハンセン病に対する偏見差別は少なくなったといわれている。しかし,それは必ずしも「真実を理解し差別を克服した」というものではないから,なにかのきっかけによって思いがけない問題は起こっている。らいについては,日本社会の深層において今なお根強い嫌悪感・差別意識が存在している。

このような人権侵害と思われる間違った偏見・固定観念・社会的烙印(スティグマ)を生じさせた原因は,病気そのものの悲惨な症状に対する蔑視的な感情に加えて,かつて遺伝病であり,血統病であるという昔ながらの誤った因習的な固定観念が拭いきれなかったこと,近代医学の名によって不治の伝染病というこれも過剰な恐怖感があおられたことなどがあげられる。いずれも医学的社会的に合理的ではない。
                   (中略)
ハンセン病差別撤廃の啓発普及の活動を行っていくことはもとより重要である。しかし,同時にTに述べた医学的見解を象徴する「らい予防法の廃止」と「らいの呼称をすべてハンセン病に変更する手続き」をとることこそが,らいの固定観念,社会的烙印(スティグマ)を払拭することに大きく寄与するものと考えられる。

この報告書の提言を受けて,厚生省内に「らい予防法見直し検討会」が設置され,1955(平成7)年12月に「報告書」が提出された。

4 社会的考察
(2)疾病の呼称の取扱

「らい(癩)」という病名には,古くからの偏見などがつきまとってきたことから,関係者の強い要望とその努力により,らい菌の発見者にちなんだ「ハンセン病」という呼び名が一般的になっているが,法律用語及び学術用語には,依然として「らい」の語が用いられている。国は,らい予防法の見直しに際し,法令における「らい」という言葉を「ハンセン病」に改めるべきである。また,学術用語についても,関係機関の積極的な対応が望まれる。

これらの提言を受けて,「らい予防法の廃止に関する法律」が国会で成立した。この法律において,「らい」が「ハンセン病」に変更された。

第八条 国立病院特別会計法(昭和二十四年法律第百九十号)の一部を次のように改正する。
 第一条第二項中「らい療養所」を「国立ハンセン病療養所」に改める。

第十三条  厚生省設置法(昭和二十四年法律第百五十一号)の一部を次のように改正する。
 第五条第三十九号中「らい」を「ハンセン病」に改める。


こうした呼称問題,病名変更の経緯を知らず,今もなお「らい」「癩病」を平然と使い続け,しかも偏見・差別の意で使用している人が多い。実際に「癩筋」「らいの家系」等々の話を耳にすることがある。ハンセン病について昔ながらの知識や巷説,流言の類に左右されている人が多いのも事実である。
啓発と教育の必要性を痛感する。


…日本語の世界で「ハンセン病」は戦後の呼び方にすぎない。これは言葉が自然に成長変化したのではなく,意識的な呼びかえが行われた結果だった。新聞,雑誌などでもはや「らい」の語は使われなくなったし,日本らい学会も日本ハンセン病学会に名称を変えている。「らい予防法」だけが,法律用語だということで例外的に「らい」の名を使いつづけていたが,予防法も改正され,歴史的な文章以外で「らい」の言葉は消えていくだろう。
こうした呼びかえが必要とされたこと自体,ハンセン病という病の特異性に起因している。

『「隔離」という病い−近代日本の医療空間』(武田徹)

「意識的な呼びかえ」がなぜ行われたのか,なぜ必要とされたのか,そして「癩病(患者)」「らい病(患者)」と呼ばれてきたハンセン病患者がなぜ改称を要望したのか,そこに「ハンセン病という病の特異性」がある。

ハンセン病は「癩者,レイパー」というように,「病」ではなく「人」に結びつけた名詞で呼ばれることが多い。このことも「特異性」を表している。

この「特異性」に理解を示すこともなく,自分の内面の問題に気づくこともなく,ハンセン病へと改称されたことを知りながらも,開き直ったかのように「らい」「癩病」の言葉を平気で使う人間がいることもまた「特異性」の証左だと思う。

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2010年08月06日

パターナリズム(paternalism)

この言葉は,先日のハンセン病市民学会の交流集会,総括座談の中で,ハンセン病国賠訴訟西日本弁護団代表の徳田靖之氏と前九州大学大学院教員の内田博文氏からハンセン病問題を考えるうえで重要なキーワードとして提起された概念であった。

この概念について以前より知ってはいたが,それほど気にも留めていなかった。今回,両氏より「熊本県の黒川温泉ホテル宿泊拒否事件」を例に,このpaternalismの問題性が指摘され,さらに光田イズムの問題点との関連も含め,今後のハンセン病問題解決に向けた人々の意識改革を考えるうえで,さらには共生社会の実現にとって重要なキーワードであるとの提起を聞きながら,実に納得できた。

宮坂道夫氏の『ハンセン病 重監房の記録』に,次の一文がある。少し長いが抜粋して引用する。

「強制隔離」「強制労働」「断種」「懲罰」という四つの権力は,それぞれを取り出して考えてみると,患者を弾圧する,人道に反する類のものに見える。なぜそのようなことを思いつき,実行したのだろうか。
ここで,個人が,これを「善行」として−よかれと思って−行っていたと,仮定してみよう。そのようなとらえ方をするための鍵が,医療倫理学のなかにある。…「パターナリズム」という概念である。パターナリズムの「パター(pater)」は「父親」を意味することばであり,まさしく父親と子供のような関係が出来上がっていることをいう。つまり,当事者のあいだに力の不均衡があり,「強者」は「弱者」に対して「恩恵」を与えるように振る舞うべきだという価値観のことである。
                     (中略)
これに対し,日本における「医は仁術」のニュアンスは,専門知識を有し,社会的地位の高い医師が,患者にかける憐れみの情を含んでいるように思える。特に,「救らい」ということばで語られてきたハンセン病政策については,それに関わる医師。看護師,あるいは宗教家や社会事業家,政治家,学者,文化人,そして皇族までもが,皆「恩恵」を患者に与えようとしている。これは当の本人が自覚しているにせよそうでないにせよ,「目上の者から目下の者へ」というパターナリズム本来の意味に近い構図のもとで成り立つ倫理観である。
                     (中略)
光田健輔は「救らいの父」と呼ばれた。…しかし,「救らいの父」といわれるとき,そこには弱い立場に置かれたハンセン病患者たちを子供に見立て,それを「庇護」する父親のような光田のイメージがある。
                     (中略)
パターナリズムということばの通り,光田は自分を「家長」に,患者を「子供」になぞらえている。家族のような慈愛に満ちた世界を構築したいというのが彼の理想であった。しかし,光田は,親が子供を罰することができるように,家長たる自分も患者を罰する権限を持つ,と述べている。

光田健輔に関しては,彼の理想と現実,功罪については検証したいと考えているが,パターナリズムから彼の言動を考えるとき,強制隔離・断種・中絶など彼が推進したハンセン病対策が理解しやすい。「懲戒検束」の必要性や草津の重監房の設置も彼の思考の延長にあったことは容易に理解できる。

だが,彼の「光田イズム」が各療養所の職員にどれほど正しく伝わっていただろうかと思う。
「草津に行くか」「頭を冷やしてくるか」の言葉を安易に発することができた彼らの意識を考えるとき,各療養所の園長や職員のハンセン病患者に向けられた理解と「まなざし」はどのようなものであっただろうか。「光田イズム」の負の部分が誇大に伝わっていったように思える。


『ハンセン病とともに心の壁を越える』(熊本日日新聞社編)に,「黒川温泉ホテル宿泊拒否事件」について次のような一文が載っている。これもやや長い引用になるが,今後の差別問題を考えていくために重要な示唆であるので,抜粋して書き残しておく。

事件発覚から二日後。ホテルの総支配人が菊池恵楓園を訪れた。入所者が謝罪文の受け取りを拒否すると,園には誹謗,中傷の手紙や電話が殺到した。事件は,宿泊拒否のような確信犯的差別の背後に,広範な差別感情が横たわっている現実を突き付け,差別の「二重構造」を浮かび上がらせた。
…「温泉に入るよりも骨つぼに入れ」「鏡を見たことがあるのか」。この中には,差別感情をむきだしにしたものも少なくない。
しかし,最も悩ましいのは,「苦労は知っている」と前置きした上で,非難に転じるパターンだ。「いままでの長期間の苦労については同情します」「あなた方が過去に受けた差別的処遇は,同情の念を禁じ得ません」。そして,「しかし…」と続く。
「同情」の最大の弱点は,対等な関係を築けていないということだ。同情されるべき人たちが控えめに生きている間はよき理解者だが,彼らが権利を主張して立ち上がったりすると態度を一変させ,「身の程を知れ」と攻撃に転じてしまう。今まで理解を示してきたことなど忘れ,排除の対象としてしか見えなくなる。しかも,自分が差別者だと自覚していないから,なおさら手ごわい。

…「ねたみ」から来る差別も深刻だ。「税金で運営されている施設で生活しているあなたたちは,差別されて当然です」「不満があったら,働いて納税の義務を果たせ」。国立の療養所で生活を保障された入所者たちは,ややもすると「うらやましい」だけの存在に映ってしまう。なぜそこで一生を過ごさなければならなかったかという,歴史的理解が欠如しているためだ。

                      「おわりに」

「光田イズム」の本質であるパターナリズムは,人々の意識の「二重構造」にも潜んでいる。「同情論」の背景にも潜んでいる。そして,時として「教条主義」とも結び付く。これらに共通しているのは,自分の問題ではない(ハンセン病患者ではない,部落出身者ではない)という「他人事の意識」と,自分は彼らの理解者であって差別者ではないという「自己正当(正論)化の認識」である。そして,「対等」「平等」と自分では思っていることである。

価値(判断)基準(尺度)は,彼らではなく「自分」なのだという意識がない。「同情する」ではなく「同情してやっている」に立っている。パターナリズムは,容易に自己正当化を肯定する。

加えて,宿泊拒否事件に絡む誹謗,中傷は「第二,第三の差別の存在をクローズアップさせた」と国賠訴訟弁護団の徳田弁護士は指摘する。
「被害者が控えめにしている限りは同情的だが,不当性を訴えて立ち上がった途端,手のひらを返したように非難に転じる人がいる」。謝罪文の受け取りを断った後に顕著になった入所者への非難,中傷がこのタイプだという。
「国の隔離政策にこそ問題があって,ホテルを責めても問題解決にならない」と,高見から忠告する人たちもいた。二つに共通するのは,自らを差別者として意識していない点だ。
宿泊拒否したホテル幹部と,それを指示する層。その背後に広範に存在する第二,第三の層。これを「差別の二重構造」と徳田弁護士は分析する。

「被害者が控えめにしている限りは同情的だが,不当性を訴えて立ち上がった途端,手のひらを返したように非難に転じる」のは,光田健輔と同じパターナリズムである。自分の言うとおりに従順であれば「恩恵」を受けることができる。だが反発する者に対しては「懲罰」が命じられる。


これらの差別をどう克服していくのか。
もちろん,ハンセン病問題を正しく知ることから始まるのは言うまでもない。だが,偏見は誤解とは違う。いくら正しい知識を得たとしても,差別がそれですべてなくなるとは限らない。要は,当事者たちが味わった痛みや苦しみをどこまでわが身に置き換えられるかだ。
日本では,隔離政策が長く続いたため,療養所に暮らす入所者だけでなく,ハンセン病問題そのものが忘れられてきた。ハンセン病問題が語られるようになったのは,らい予防法が廃止された以降。今まで意識の外にあった人たちだけに,社会の目には「特別な人たち」「異質な存在」と映った。
しかも,当事者が語る隔離被害はどれも苛烈を極め,にわかに信じ難い話ばかりだ。日本の隔離政策を理解する上でも個人史を知ることは不可欠だが,その部分だけにスポットが当たりすぎると,いつまでたっても,入所者は「かわいそうな存在」から抜け出すことができない。
もちろん,つらい過去への理解は必要だ。だが,「同じ人間なんだ」ということを忘れてはならない。…彼らの人生にリアリティーを感じてこそ,「特別な人」「かわいそう」という同情の克服にもつながっていく。そのためにも,今までのような一方通行的な啓発ではなく,感情を共有できる心の交流が必要だ。

                                          (同上)

ハンセン病問題だけでなく部落問題,人権問題すべてに共通する解決・克服への提言と思う。

あらためて「知識」だけでは差別問題の解決には不十分であると痛感する。正しい知識を教えれば,新しい知識が伝われば…幾度となく聞いてきたことだが,部落史の見直しにより「知識」も改められたり新しくなったりしてきたが,未だに部落問題の解決に光明は差していない。

「頭ではわかっているのだが…」「知識では理解できるのだが…」と,どれほど聞いてきたことだろう。人間は「知識」だけで自分の生き方や在り方を変えることができるほど単純ではない。最もやっかいなのが「感情」である。感覚・感性・感受性である。

…「人々のあいだに差別感情がある限り,旅館経営者として宿泊を断るのもやむを得ない」というホテル側のいい分の背後には,私たち国民の「感覚」の世界が広がっていた。そこには「見た目が気持ち悪いのだから,差別意識を抱くのも仕方がない」とか「楽しい旅行の最中に,ホテルであんな人たちが一緒の風呂にいたらイヤだ」という感覚を抱く人たちがいた。
もちろん,国や自治体,あるいは医療,教育,報道などに関わる人たちが,この病気の正しい知識を国民に持たせる教育的施策を怠ってきた,という無策の責任もあるだろう。しかし,私たち人間の心のなかに,差別や無知の根本的な原因があるのは間違いのないことだった。

                   (宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』)

差別や偏見を払拭するために正しい「知識」が必要ことは当然である。しかし,それだけで人権問題が「解決」しないことも,差別や偏見が「解消」しないことも事実である。
「知識」を万能と思い込むのは,「象牙の塔」の住人か「たこ壺」のような世界から首だけ出して世の中を見ている人間たちだろう。狭い交流範囲でしか日常生活を過ごすことのない彼らの理想論など机上の空論である。

「知識」と「感情」のギャップを克服するためには,自らの生き方やあり方を多くの人々との交流の中で問い直すしかない。

重監房を一つの極とする日本のハンセン病政策は,世界のハンセン病の歴史の上でも,また医学の歴史の上でも,これまでに十分に記述されていない新しい歴史的事実を提示する。それは,社会的差別が根強い病気の対策として,病気ではなく患者を消し去る政策が,一つの近代国家のなかで実現したことであり,その手段として,医療にたずさわる人間が患者に懲罰を与え,死なせたという歴史的事実である。
これは,世界の人々にとって,貴重な学習の機会となるはずのものだ。

                                           (同上)

差別や人権侵害は現実の日常生活の中で行われている。人との関わり・交わりの中で差別や偏見が生まれる。その「歴史的事実」を学び,自分の生き方・あり方,自らの内にある差別意識を克服していく以外に,この「感情」を変革することはできない。

posted by 藤田孝志 at 10:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 責任と課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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