2010年07月29日

ハンセン病と被差別部落

『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』(日弁連法務研究財団)の「社会に流布したハンセン病観」に,ハンセン病と被差別部落を結びつけた俗説に関する記述がある。
なお,上記『最終報告書』は
「財団法人日弁連法務研究財団」HPもしくは厚生労働省のHPに掲載されているので,膨大な報告書ではあるが,是非とも読むべきと思っている。

1.民衆のハンセン病観

…被差別部落にハンセン病患者が多いというのは,事実ではない。しかし,そうした俗説が存在したことは事実である。ハンセン病を遺伝病とみなしたうえで,差別による婚姻忌避で被差別部落には「近親結婚」が多いため,ハンセン病も多発するという論理である。

実は,この論理は近代初期から存在する。福沢諭吉の門下生で,福沢が発行する『時事新報』の記者であった高橋義雄は,1884(明治17)年,『日本人種改良論』を著わすが,そのなかで「往日封建ノ世ニハ士農工商穢多非人各階級ヲタテテ容易ニ相婚スルヲ許サズ穢多非人ニ至リテハ之ト火ヲ一ニセズ況ンヤ結婚ノ沙汰ニ於テヲヤ……(中略)……今日ニテハ旧時ノ穢多非人モ既ニ平民ニ列シテ人間並ノ交際ヲ為スニ至リタレバ此輩ノ血統モ亦社会ニ広マル可キナリ」「下流ノ人民中ニハ癩病遺伝ノ家少ナカラズ」と述べている(『明治文化資料叢書』6巻,風間書房,1961年)。高橋義雄は,1871(明治4)年の「賤民廃止令」により,旧賤民と平民との通婚が可能になり,「癩病遺伝」などの「血統」が社会に広まることを憂いている。

さらに,1905(明治38)年,九州帝国大学講師で古代史学者の森貞三郎(三渓)は,『東京経済雑誌』1272号〜1274号に「穢多と戦敗者」を連載し,そのなかで「明治四年穢多非人の称を廃し,平民に列せられて,常人と雑居するに至れりと雖も,祖先以来不潔なる生活に甘ぜし彼等の習慣は,潔癖なる日本人種の擯斥する所となる,且や彼等が一村内近親婚姻をなせし結果として,又乞丐社会の不潔なる食物を食ふ結果として,穢多乞丐間には往々癩病の血統あり」と述べている。被差別部落には,劣悪な衛生環境と外部との通婚禁止による「近親結婚」とにより「往々癩病の血統」があるという趣旨である。

この他,社会学者の高木正義は,滋賀県下の被差別部落を調査した際,ハンセン病患者がいなかったことについて「奇なるかな」という感想を漏らした事実(「滋賀県南野貧民窟」2,『社会』1巻8号,1899年10月),徳島県が県下の勝浦郡のある被差別部落を調査した際,やはりハンセン病患者がいなかったことについて「専門家の研究を要する好資料ならんか」と評価している事実(徳島県内務部編『特殊部落改善資料』,1910年)など,被差別部落にはハンセン病患者が多いということを前提にしたうえでのものである。さらに,東京朝日新聞の記者大庭柯公も,「近親結婚」により被差別部落にハンセン病が多いと記している(「所謂特殊部落」,『大観』1巻6号,1918年10月)。

社会的には,ハンセン病を遺伝病とみなす認識が広く流布していたことは疑いえない。1937(昭和12)年に刊行された小松茂治『癩の社会的影響』(診療社出版部)にも,被差別部落にはハンセン病が多いが,その一因は「血族結婚」によると説明されている。このようなハンセン病を遺伝病とみなす認識は,被差別部落への婚姻忌避を正当化するものであったことは明らかである。

2.本多慧孝の認識

こうした,被差別部落にハンセン病患者が多いという偏見に満ちた俗説のなかで,無視し得ないのが,全生病院教誨師であった真宗大谷派僧侶本多慧孝の認識である。本多は,1912(大正1)年9月より全生病院の教誨師となり,1913(大正2)年3月から5月まで大谷派の命により,「全国の癩病療養所と私立癩病院と癩村とを視察して,西は鹿児島県より北は北海道に至る迄,大小隈なく巡歴せり。此際特に地方に就て癩病発生の病竃地を調査し」,その結論として「一に落武者の土著せし者及び遠来の帰化人の土著せし特殊部落にして自ら他と婚姻を避けて血族結婚をのみ為せるを以て同族間に伝染したれども,幸に穢多と称せられて社会より度外視せられしを以て,社会に伝染する事少なかりき」と述べている(本多慧孝「国家的解決を待つ癩病問題」,『国家医学会雑誌』330号,1914年7月)。本多の視察には全生病院長池内才次郎,同病院機関士中野辰蔵も同行している(本多慧孝「癩探」,『救済』3編5号,1913年5月)。本多の視察は単に真宗大谷派の命じるところだけではなく,全生病院の活動の一環でもあったと考えられる。そうであるならば,「癩病発生の病竃地」として被差別部落を特定する本多の認識は,光田健輔らハンセン病患者の絶対隔離を目指すひとびとにとり,無視し得ないものとなる。全国の被差別部落の所在地を把握しておこうと考えるのは自然であった。

1916(大正5)年5月12日,全生病院は,北海道庁と各府県に「特殊部落調附癩村調」を照会した。「特殊部落」とは,19世紀末に成立した被差別部落に対する差別的呼称である。なぜ,全生病院がこのような調査を照会したかと言えば,被差別部落にはハンセン病患者が多いという俗説があったからである。絶対隔離に向けて,俗説であろうとも,被差別部落の所在地を確認しておこうというのが,この調査照会の目的であったと考えられる。

また,ここにある「癩部落」とは,実際にハンセン病患者がいるかどうかではなく,「癩血統者」の村として婚姻忌避などの差別を歴史的に受けてきた集落である。

被差別部落が周辺からの差別によって婚姻を忌避され「近親結婚」を繰り返してきたためにハンセン病を多発したという俗説である。まったく根拠のない俗説であるが,一部の偏見と差別意識をもった学者や新聞記者がその俗説を作り上げて流布したとは考えられない。むしろ当時の民衆の中に,そのような俗説や論理の背景となるような被差別部落やハンセン病患者に対する意識があったと考えられる。
もちろん,学者や新聞記者がそのような俗説を「事実」として文章化して公言したことによって社会に広まり,人々がそれを信じたことで「事実」化したのである。当時の民衆の中にあった偏見や差別が学者・新聞記者によって助長され固定概念化されたのである。相乗作用が働いたのである。

このような歴史的背景,民衆の中に浸透していた偏見や差別がハンセン病患者に対する排除を,そして光田らによる絶対隔離政策を容易にさせたのである。長きにわたる絶対隔離政策に対して民衆が無関心・放置してきた理由もここにある。


明治初年にこのような俗説が流布された事実をどのように考えるべきか。

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検証文化

『差別とハンセン病』(細谷史代)に収録されている内田博文氏へのインタビューの中で,内田氏は次のような興味深い説明をしている。

検証会議では,「検証と裁判の関係」「研究と検証のちがい」について整理しなければいけないと発言しました。裁判は,法的責任を追及する限りにおいて過去の事実に光を当てるので,法的責任になじまないものは扱わない。一方,検証は歴史の事実を明らかにする目的なので,法的責任の有無にかかわらず重要な事実は事実として解明しなければいけない。また,検証は再発防止に結び付かなければいけません。
多くの研究者にとって,研究は第三者の立場に立つことです。これに対して,検証に第三者の立場はない,と私は思う。徹底的に被害者の立場に立たない限り,検証はあり得ません。だから,机の上で考えていては検証にならない。被害の現場でものを考えなければいけない,というのが私の考えです。

「検証」の前提は「批判」ではないと考えている。「批判する」ため(目的)に,「検証」するという考えには賛成できない。「検証」とは事実の解明である以上,その検証作業の前提として特定の考えや結論に導くために検証をすすめていけば,事実を正しく考察することはできない。まして他説を「批判」し自説を正当化するために「検証」するなど本末転倒である。
あくまでも「事実」を科学的に「解明」する作業が「検証」であると私は思っている。それゆえ,「批判」することが目的となる「検証」には違和感を感じてしまう。
事実の解明を目的とした検証作業の結果,従来の学説や社会通念,世論を批判することになる場合もあり,また新しい学説や認識が生まれる場合もある。しかし,それらは検証過程で生まれたり,結果として生まれるものであって,最初から「批判」が目的の検証作業から生まれることはない。


内田博文氏に『ハンセン病検証会議の記録−検証文化の定着を求めて』という大作がある。その「おわりに」に次の一文が述べられている。

検証作業に実際に携わってみて考えたことは多かったが,そのなかでも重要なことの一つは,人権侵害の側に走った専門家等をもって「悪い専門家」,人権侵害を糺弾する側に向かった専門家等をもって「良い専門家」というような固定的な図式では,今も続く被害の回復,救済には繋がらないのではないかという点であった。すでに指摘されているように,人権侵害の側に走るということは自分自身の人間性をも失うということで,その意味では,被害者も加害者も共に人間性の回復が図られなければならない存在だという視点こそが,人権侵害状態を形成している加害者−被害者という固定的な関係を変えていくことになるのではないか。

この視点は,私がずっと言い続けてきた「被差別−加差別の対立構造を克服する展望」である。善悪・正邪の二律背反的発想や犯人捜し,あるいは「しんどさ比べ」からは何の解決にもならない。
同様に,批判することで正否が決まるものでも,また正否を明らかにしたとしても,それだけで差別問題や人権侵害が解決できるものでもない。なぜなら,目的が「人間性の回復」であるからだ。裁判のように正否を決めることが目的ではないからだ。

「差別の重層的構造」ということが言われている。その根本には「無関心」と「無関係」の意識がある。そのことに気づかなくても,直接に「差別」しなければよいという安易な自己肯定感がある。
情報化社会である現代,マスコミやインターネットによって多くの情報が伝えられている。学校教育においても教科や道徳,人権教育において部落問題や人権問題が取り上げられている。それらの不十分さは否めないが,それでも昔に比べれば情報発信や知識の伝達としての役割は進歩している。
しかし,その一方で昔と変わらない問題が残り続けている。ハンセン病について,部落問題について,多くの人権問題について,多少の知識や関心はある。差別がいけないのもわかっている。でも,「自分とは関係ない」という意識がある。

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ハンセン病呼称の変遷(1)

2005年1月,「南野法相,ハンセン病の差別的表現繰り返す」と題した記事が読売新聞に載った。
当時の南野知恵子法相が島根県平田市で開催された島根県議(自民)の新春の集いで,ハンセン病に言及し,「法務省でも『らい』の問題について啓発が必要なので予算をお願いしました」などと,旧病名の「らい」との差別的表現を3回繰り返したという。ハンセン病元患者団体などから「人権問題を扱う法相として認識不足だ」との批判を受けて,南野法相は「看護職にあった長い期間,ずっと使われてきた名称だったので使ってしまったが,差別や偏見の意識は全くない。今後はハンセン病という名称に統一したい」と釈明している。


伝染性が強いとの誤った考えからハンセン病患者を隔離してきた「らい予防法」は1996年に廃止され,「らい」という表現も法律上,消滅している。
しかし,今もなお「ハンセン病」ではなく「らい」という呼称を使用している人も多く,偏見・差別の意味で使われることも多い。「らい筋」「らいの家系」という言葉を聞くこともある。
さらに,インターネット上においては,「らい」どころか「癩」「癩病」「癩病を煩った人々」「癩病患者」という明らかに「差別呼称」を平気で使用している文章を見かけることもある。何らかの「意図的理由」によって使い続けているのか,それとも「呼称変遷の意味」を知らないのか,その本意はわからないが,人権問題やハンセン病問題に関わるのであれば,使用する表現については責任をもって使い分けるべきである。
知らなかったではすまされない問題であり,知った以上は「訂正」すべきである。たとえ,知る以前に書いた文章であっても,私は「訂正」すべきであり,少なくとも「注解」を付加すべきである。

「らい」「癩病」という病名に心を痛めてきたハンセン病回復者たちが「病名の改称」にどれだけの思いをもち,闘争を続けてきたかに思いを馳せるならば,安易に使うことなどできないだろう。そして,「らい予防法」廃止に伴って,長く彼らの要求を公然と無視してきた国や厚生省(現在の厚生労働省)がようやく改称したことも考えれば,これらの表現の使用に際にして注意を払うことは当然のことと思う。
実際,図書館など公的機関が「らい」の標記を残していたことを指摘されて改称している。また,そうした改称問題に取り組んできた多くの人々がいる。

歴史的用語・学術的用語として使用する場合においても厳密な配慮を必要とする。私は史料等の考察の場合において,その当時に使用されていた表現として使い分けることにしている。現在との関係で論述する場合は,ハンセン病という病名を使用している。


ハンセン病の「病名の変遷」については,大槻雅俊(リベル)氏のHP『ハンセン病のリンク集』「日本での病名の変遷」に詳しく説明されている。
大槻氏はHPのトップページ「お願い」で,ハンセン病の呼称について次のように述べている。

このサイトではサイトの性格上,「癩」,「らい病」などの表現が出てきますが,いずれも現在は使われていない言葉です。「ハンセン病」が正しい言葉ですので,ご注意くださるようお願いします。

手元にある『らい予防法廃止の歴史』(大谷藤郎)「凡例」にも,「すべてハンセン病とするべきかも知れないが,本書の歴史的性格にかんがみ,癩,らい,ハンセン氏病,ハンセン病などその時代に応じて使いわけしたことをお許し願いたい」と書かれている。

あらためて,大槻氏のHPにある解説から「病名の変遷」をまとめておきたい。

1953年
「全国国立癩療養所患者協議会」は「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会」と改称,また略称「全癩患協」を「全患協」に改称した。しかし,厚生省は「癩」から「らい」とひらがなに修正しただけである。以後,患者側は「ハンゼン氏病」と呼び,厚生省は「らい」と呼ぶ状態が続く。

1959年
全患協は原語(ドイツ語)の発音に合わせて「ハンゼン氏病」を「ハンセン氏病」に改称した。協議会も「全国国立ハンセン氏病療養所患者協議会」と改称した。

1983年
全患協はドイツ語読みからより一般的な英語読みにするため「ハンセン氏病」を「ハンセン病」という一般的な病名に改めたが,厚生省や日本らい学会は「らい」という病名を使い続けた。協議会も「全国ハンセン病患者協議会」と改称した。

1996年
「らい予防法の廃止に関する法律」ができたため厚生省や日本らい学会も「らい」を「ハンセン病」に改めた。「日本らい学会」も「日本ハンセン病学会」と改称した。

何よりも重要なことは,ハンセン病への改称は「患者側(当事者)」からの強い要求であったという事実である。ハンセン病患者自らが「癩」「らい」と呼ばれることを拒否したこと,改称を求め続けてきた歴史的背景を重く受けとめ,「癩」「らい」という表現が使われていたそれぞれの時代背景とそれぞれの呼称に込められた偏見・差別,そして「癩」から「らい」,「ハンセン病」へと改称された歴史的経緯について真摯に考えるべきである。
そして,なによりも「ハンセン病」という病名に改称された意味を考え,「癩病」ではなく「ハンセン病」を使用すべきである。

病名として改称されたのである。現在では「癩病」という病名は存在しないのである。

posted by 藤田孝志 at 13:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史背景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死者達の沈黙が語るもの

ハンセン病問題に関する検証会議が明らかにした成果と課題,これを我々も自らの課題として受けとめなければならない。

『検証会議−ハンセン病と闘った人達に贈る書』の「終章」が「検証会議」の成果と課題についてまとめている。


ハンセン病問題が人間の尊厳を踏みにじった人権問題であることは,遺体解剖・断種手術(ワゼクトミー)・強制堕胎(中絶)手術に象徴されるように明白な事実である。そして,その証拠がすべての療養所で製作された「胎児等標本」であり「病理標本」である。

本書の終章に,検証会議最終報告書「胎児標本等についての検証」に関して「死者達の沈黙が語るもの」と題した要約がある。抜粋して掲載する。

この題名にこそ,検証会議に託したハンセン病回復者の思いが込められている。彼らが声を上げなければ「死者」は無念の中でなおも沈黙の時を過ごしているだろう。
「死者」が長い沈黙の時を経て,療友によって蘇ることができ,そして語り始めた声に耳を傾けなければならない。知らなかったでは,同じ時を生きてきた責任,国家の政策に疑問を投げかけ,彼らのために行動しなかった責任が許されるものではない。

「知ったことに対する無責任は,悪ですらなく人間の物化である」という高橋和巳の言葉が心を打つ。あらためて自分には何ができるか,問い続けなければならない。

「『かわいい女の子だよ。髪の毛もふさふさしてあんたに似てるよ』看護婦はこういうと声が出ないように赤ん坊の顔を押さえた。顔にガーゼがかぶせられ足をばたばたさせるのを見た。それが我が子を見た最後だった。」

全国の国立ハンセン病療養所などには,こうした人工流産か人工早産などによる一胎児または新生児のホルマリンにつけられた標本がたくさん保存されている,とする「胎児等標本についての検証」の結果を報告書として検証会議は1月27日,厚生労働省に提出するとともに記者会見を行い,その内容が明らかにされました。


ハンセン病療養所は患者の隔離・撲滅を基本理念とし,所内での出産・育児を認めず,そのため妊振中絶・人工早産を実施。時には生まれてしまった新生児の命が,職員の手によって無理やり奪われた悲惨な光景も想像に難くなく,それを裏付ける相当数の証言が「らい予防法違憲国賠訴訟」において見られました。今回の検証事項の中で,この問題ほど,入所者の人間としての尊厳を傷つけ続けたものはないし,何故こんなことが起こったのか,厳しく検証する必要があった,ということです。


現在,胎児標本の残っている施設は六ヵ所,一施設あたり数量は一体から四十九体,合計百十四体であること,標本製作の時期は1924(大正13)年から1956(昭和31)年までの約32年であり,標本の製作年月日に関しては,不明が50%と半数を占め,明らかなものは昭和十年代が最も多く,昭和二十年代がこれに続くこと,ホルマリンに長期に保存されると胎児等の体重は大幅に減少し,産科学的胎齢とは合致しないと推測され,これに反し,体長はほぼ充分に保たれているように思われるので,体長を用いて胎齢を推測し,解析を試みたこと,その結果,二十九体は妊娠八ヵ月(32週)を過ぎ,そのうちの十六体は三十六週以後に産まれたと推測され,少なくとも25%以上が妊娠中絶ではなく,人工早産もしくは正期産であること,従って入所者の訴えのなかでの「出て来た赤ん坊が泣き,看護婦が『元気な男のお子さんですよ』と知らせ,そしてしばらくすると遠くで赤ん坊の泣き声が止んだ」などという証言が真実性の高いものであることが裏付けられた,ということです。

なお検証していくと,その多くは何ら人工的操作が加えられていない。研究または実験をしようと思えば切開瘡が残り,臓器を摘出した痕跡が残るはずであるが,残された胎児等標本の約80%にそれが認められない。さらに人工的操作の加えられたものには,胎児等に加えられた切開瘡が解剖の常識を逸脱したものが多く,なかには無慘にも両眼のみがくりぬかれたものもあり,胎児の尊厳,考え方によっては生命そのものの尊厳をいたく冒涜するものである,と。

胎児等標本を検証している間に,同時に保存されている病理標本および手術摘出材料に関しても検証する必要のあることが明らかになった。なぜなら,胎児標本等と類以の問題を有しているかである,ということです。

胎児等標本と同様,その保存管理の杜撰さが目につくが,その環境は至って不完全で,複数の施設において一つのポリバケツに多くの材料が雑然と保存されていた。


ハンセン病医学の歴史のなかでその中心に君臨しつづけた光田健輔が病理学者であった事実は大きな影響を与えたが,ハンセン病の病理を研究することで医師としてのスタートをきった光田は,常に精力的に病理解剖をこなしながら全生病院医長,同院長を経て愛生園園長に昇進。この病理学者・光田を慕って多くの医師がハンセン病にかかわるようになった。その光田の生涯を記した文章の中には,病理解剖の情景を賛美した記述がきわめて多く,たとえば「なかでも結核,腎臓,肺炎などの死亡率が高い。その遺体の一つ一つが私たち医局員の重要な研究材料として提供された。それは日曜日だろうと祭日だろうと敢行された」(桜井方策編「救癌の父・光田健輔の思い出」リーガル社刊)
先生(光田)は言われた。「ここには研究材料が無限にころがっているのですからね。ただそれを使う人がいないばかりにむざむざ放って置くだけなのだ」(神谷美恵子「新版人間を見つめて」朝日選書)など枚挙にいとまがない。

入所者には「解剖承諾書」への署名が強要され,半数以上の療養所で1980年頃まで,ほぼ全死亡例への病理解割が継続されている。これらの文章から読み取れるのは精力的に病理解剖がなされたが,亡くなった患者はあくまでも研究対象物として扱っている。病理解剖の目的の一つは,その成果を発表して医学,医療の発展に寄与することであるが,果たして膨大な数に上る解剖結果が,医師たちによってどれくらい発表され,世に問われたかを考えると大きな疑問が生じて来る。

また,病理解剖であれば,死亡の原因となった疾患を研究するため,主たる病変の認められる臓器およびその影響が及んだと考えられる臓器が切り出され,保存されるのが医学的常道であるが,ハンセン病療養所に保存されているのは体のほぼすべての臓器であり,保存の目的が全く理解不能で,この点でも医学的常識を極めて逸脱している。このあたりの倫理感の欠除も充分指摘されねばならない,ということです。

胎児標本のうちの生産児の死亡の可能性のある例については,検証結果をもとに在園者,全療協などの意見を踏まえ,厚生労働省が関係当局に対し検視の申し出か異常死体の届け出をするよう意見を述べるべきであること,国立ハンセン病療養所における倫理水準の低下は否めず,医療倫理の改善は当然要求されなければならないし,特に医療の中心にある医師たちの倫理面での教育は重大な課題であること,そして百十四体の胎児等標本,多くの手術摘出材料,二千体をこえる病理標本は何を物語っているのであろうか。今日まで我が国のハンセン病医療にかかわって来たすぺての者に対して「何をしたのか」と強く問いかけているのではないだろうか。たとえ,これらの遺体が丁重に供養され,懇ろに葬られたからといって,この事実は決して風化させ,忘れさせてはならない,と結ばれています。

「解剖天国」とさえ言われたハンセン病療養所の実態を生み出した源は,光田健輔である。彼のハンセン病撲滅への「善意」が「悪魔的な精神」を肯定する論理を生み出したのだ。目的が手段を正当化したのだ。
光田が正当化した方向と論理が,彼に続く医療従事者にも「自己正当化」を容易にさせたのである。何ら疑うことなく,すべては「ハンセン病撲滅のため」という大義名分によって「善意による肯定」が罷り通ってきたのである。解剖も断種も,堕胎そして殺人すら罪に問われることなく「肯定」された。

私はあらためて独善的な思考の恐ろしさを痛感する。思い込みによって麻痺させられる精神の歪みを恐ろしいと感じる。
医療従事者が何ら疑いをもつことなく遺体を解剖し,病理標本を作製したことも,中絶により命を絶ち,生まれた生命さえ抹殺し,さらにはホルマリンに漬けて保存し続けたことに,彼らは良心の呵責さえ覚えなかった。

自分の行為が他者にとって如何なるものであるかさえ気づかない「独善性」と「自己正当化」に終始する人間がいる。他者の声を聞こうともしない。傲慢さは,他者を傷つけても痛みさえ感じないのだろう。独善による独断的な批判など正当な批判ではない。

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『日本のアウシュヴィッツ』証言

高田孝さんの証言に耳を傾けていただきたい。栗生楽生園につくられた「特別病室」(重監房)がどのようなものであったか,そこで何が行われたか,証言を通して歴史の事実を知ってほしい。


「特別病室」(重監房)の平面図を載せておく。これは『ハンセン病 重監房の記録』(宮坂道夫)より転載する。

高田さんはハンセン病により明かりを失い,いまはほとんど伏せっています。ベッドのそばで高田さんの証言をききました。(谺雄二)

らい療養所は病人が病人をみとる仕組みで成り立っているところで,患者でありながら,みんな園内の仕事をさせられていた。おれは医局で薬局の手伝いをしてたんだ。
一九歳だったからものごとの見極めは十分できたし,そこで出会ったことはすさまじく,ほかにはないことだからよくおぼえている。
そのころ,小学校高等科を卒業したぐらい,いまで言えば,中学の三年か中学卒業くらいの男の子が看護手の見習いにきてたんだ。歳で言えば,14〜15歳,おれより4〜5歳下だった。医局にいる上の人たち,看護婦,看護手なんかは嫌な仕事はみんな見習いの少年たちに言いつけるんだよ。

特別病室へめしをもって行く者が見つけ,「死んでいる。」と医局に知らせてくる。知らせがあると,9時か10時ごろに遺体を迎えに行くことになる。
「担架をもって行ってつれて来い。」言いつけられた見習いの連中も二人や三人で行くのは嫌だもんだからおれたちに「行ってくれ。」って言うんだ。そうなると,見習いだって医局側なんで,医局が言うわけだからおれたちは逆らえない。おれや門脇金次さんなんか行かされた。

担架をもって坂道を正門の方へのばって行くんだ。死ぬのは主に冬なんだよな。だから雪道をのぼって行くわけだ。いまのようにしっかりしたプラスチックではなく,竹でできているんだ,担架の棒が。竹の棒が二本ズックのキレに金属で固定されている。それをおれたちが担いでのぼって行く。正門のところには門衛所があって,門衛所におねがいする。門衛所のすぐ手前の左側に細い道があって,雪でうずまった林の中へ入って行くんだ。
林を入るとすぐ,右手から小さい山が下っていて,その小山の裾を越えると,少し開けたところがある。だからそこは正門の通りからは見えないんだ。7〜800メートル離れた官舎から正門を出入りして通う職員もそんなところに“なにかある”なんて気づきもしないし,足を入れるなんてこともない。
小山をまわると,コンクリートの場があり,カンヌキのついた入口があって,そこに大きな櫛形錠がかかっていた。カギは門衛がもっているんだが,門衛も嫌がって,塀のカギをあけるところまでしか行かず,帰ってしまう。

塀を入ると,少し隙き間があって,こんどは建物の錠がある。その錠を開け,入ったところが一つの区域になっている。右側にコンクリートたたきがあった。その奧が宿直室で,四畳半か六畳ぐらいの部屋に押入れがある。畳は黴びて,ほこりだらけ。その上にもち物が放り出してあって,荷札に名前がついていた。左側に医務室があって,高い足にのった洗面器があった。昇汞水とクレゾールを入れる洗面器のわけだが,かざってあるだけ。その向こうに診察用のベッドがあるが,使ったことは全然なく,ほこりだらけだった。機械戸棚もあるんだけど,なにも入れちゃあない。<特別病室>という名前だからそういうみてくれになっていたわけなんだ。

その先は仕切りで,南京錠がかかっていた。錠を開けて,バールをおこすと,戸が開く,バールは押しこんで寝かせると,帯び鉄に3ミリと5ミリくらいの切り込みがあって,そこから錠をかける輪が下に出る,という厳重な扉だった。
その先は屋根がなくって,空が見えていた。山のまんまで,冬は雪が積もっていた。両側は壁で,1メートルくらいふみこむと,右と左にさっきと同じようにに錠があり,それをおこして引いて,中へ入ると,一番先の独房があるわけ。その奧もまた壁で,錠がついている。
まん中の通路の先も壁で,そのまん中に扉があって,錠がある。それをバールかテコで開けて行くと,またさっきと同じように右と左に錠がある。その奥もまた壁で,錠がっいている。
要するに全体が田の字になっていて,独房はみんな野天の通路(荒れ地)で切り離されていて,超えも気配もわからないようになっていた。

外のカンヌキを開けて,宿直室,治療室のカギを開けて,バールを引いてカギを開けて,一番奥の独房へ行くには7つのカギを開けないと,ならなかった。
外のカンヌキを開けてから一番奥の独房へ行くには,7つカギを開けなければ,入れないんだよ。扉は外から中へ押すと,開くんだけれど,中から外へ押しても,開かない仕組みになっていた。
宿直室の戸はガラス戸だけど,あとの扉は厚さが10センチくらいあった。いったん入れられたら絶対に出られないよ。

カギは厳重だったけど,建物は粗雑だった。独房に向かってすぐ下にめしを入れる口があり,同じ面の反対側にある扉を開けるとすぐ便所がちょっと切り込んであった。その上の方に3〜40センチの,はめころしの窓があった。中は四畳半くらいの広さで,光ははめころしの窓とめしを入れる口から入るだけ。天井に電気の傘はあったけど,球はとっくに切れたままで,壁が三重だから中は昼間でも真っ暗だった。

死んだのはほとんどが冬のあいだだった。おれは5〜6人出しに行った。

板の間に敷きぶとん一枚にかけぶとんが一枚あるだけ。両手を上げ,干乾しだか凍死だか,干からびた蛙のように凍りついて死んでいる。寒いときは敷きぶとんが下の板に凍りついちやっている。だれもさわりたくないよ。ふとんごともって行こう,と思うんだ。2〜3人が中に入って,1人が敷きぶとんの裾をもち上げ,工事のときに捨ててある板きれをつつこんでこすり,こじってはがすんだけど,光がないところで掻くんだから戸がしまったらよけい暗くなるし,扉が閉まったら,そりゃあ絶望的な気分におそわれる。

「閉めるな!閉めるな!」って叫びながら,やっと氷をはがす。苦しんで死ぬんだから,まっすぐばかりに死んではいない。90センチほどの出口からなかなか出せないこともあった。
4人ぐらいでやっと通路に引っばり出して,担架にのっける。血管に力がないからみんな出血しちゃうんだろうなあ。遺体は紫がかった黒っぼい色だった。まえを1人,うしろを1人で担架をもち,ほかの者は宿直室にころがっている,死者の私物ももって,あの坂を下ってくるんだ。そして解剖室のまえへもって行く。

9時か10時ごろ迎えに行って,つれてくるんだけれど,解剖室の扉が開いていれば,解剖室へ入れる。午後にならなければ,医者は解割しないからたまに手違いで解剖室の扉が開いていないことがある。そのときは庭の土や雪の上に担架ごとおいてふとんをかぶせておいてくるんだよ。
園内で死んだ人はほとんど解剖された。入園するときの書類に「解割していい」という欄があって,名前を書いてハンコを押させられていた。

おれは5〜6回行き,いろんな恰好で死んでいるのを見たよ。ふとんからはいだして死んでる人もいた。戸を開けたら,そこに頭があって,びっくりしてとび上がったこともある。出口の戸に頭をおっつけて死んでいた。出たかったんだろうなあ。

ほかには門脇金次さん,木村誠さん,村田勉さんなんかが行った。

なんの手当ても受けずに,食事もひどいもんだったんだから。五日会(患者会)の人たちが「もうちょっと食事を多くしてやったら。」って言ったら,「よけいにやると,太って体によくない。」って加島が言ったそうだ。ふつうの分だって十分でないのに,小さいにぎりめし一つ分くらいと梅干し一個,それも一日二回きり,飢え死にさせたようなもんだ。
看護手見習いの佐藤君だったか,山田君だったか,どっちかがうしろをもち,前を松野君がもったことがある。坂を下りるとき,担架の竹竿が折れて,死体がころがり落ちてしまった。松野はまっ青になって担架を放り出し,坂の下にあった看護学院の陰でふるえているんだよ。おれたちは手伝わされてはいるけど,遺体の運び出しは看護手の仕事だから見習いでもやらなければ,叱られる。やっとなだめて,別の担架をもってきてもらって,のせてきたことがあった。

特別病室に入れられている人は夏の間は二ヵ月に一度ぐらい出されたかなあ。そのとき,髪の毛を刈ったり,風呂に入れた。冬は全然出さなかった。いまみたいに舗装はしてないし,雪が溶ければ,泥道だし,あんなところにろくに食わせずに入れておいたんじゃあ,下へつれ出しても,歩いて帰れないもの。
春,暖かくなると,門衛の人と分館の人が風呂場までつれ出してくる。患者作業の床屋に髪を刈らせるんたけど,首すじまで髪の毛がのびていたよ。
いま考えてみると, 特別病室は熊本の本妙寺集落を解散させるために急遽つくったんじゃあないかなあ。

(谺雄二=当時,長島事件,大島青松園のラジオ事件などがあちこちでおこった。それで光田健輔ら所長連中が話し合い,各園にある監禁室のほかに特別病室を栗生楽泉園につくった。)

特別病室に入れられた人が栗生楽泉園に残り,いまも健在でいる……名前は言えないけれど。しかしだれがききに行っても,絶対に言わない。

熊本の本妙寺集落にいた中村利登治さんが友愛会という会をつくり,県知事が許可したという書類をもって,いまの韓国のソウルあたりの,大きな会社へ寄付を集めに行った。それを県知事は文書偽造だとかなんとか言った。罪をなすりつけるにはよかったんだろうけど。その親方が利登治さんで,主だった人が特別病室につれてこられた。特別病室が全部いっばいになったのは本妙寺集落の人たちがきたときくらいだ。
あのときは四畳半に2人入れた。1人が死んだんだが,だまっていて,二人分のめしを食っていた,という事実があった。それが印南さんだった。あとで知った印南悦八郎さんはなかなか頭のいい,若い衆だったよ。冬だったから一週間ぐらい死人といっしょにいたんだろうなあ。夏だったら,とてもできない。残酷なもんだよ。守衛が一日に1回はまわって歩く,なんて言ってたけれど,そんなことは絶対になかったんだよ。

本妙寺からきた中に,満八十山(みつる・やそやま)の奥さんで,夫といっしょに投獄され,じつに一年以上,390日間も入れられていた境テイさんという人がいた。

(谺雄二=境テイさんはのちに患者大会で証言し,92名の投獄者中いちばん長期の533日間にわたって拘束された末に獄死した夫のことなどを語った。そのようすはニュース映画のフィルムとしてNHKに残っている。)

境テイさんが医局にきたとき,おデコがまっ黒なんだよ。おれは知らないから「おばさん,どうしたんです,おデコ。」って言ったら,「監禁所で死のうと思って,なんぼ打ったけど,死ねなかったよ。」って言ったよ。テイさんが言った監禁所は特別病室のことだけど。

沢田五郎さんが『とがなくてしす』で言っている首つって死んだ。」というのはないんじゃあないか。「中はトタン張り。」って書いてあるけど,板張りだったよ。壁も板張りだった。五郎さんはまだ子どもだったからきいた話なんだろうけど,納骨堂の脇にあった監禁所ば二部屋トタン張りだったからそれが伝わったんかも知れない。

特別病室の中は暗いからよく見えないけど,ひもをひっかけるところはなにもなかったよ。その板に日付が横棒で刻んであった。一本づつ引いたんだろうねえ。「かあちゃん」「おれはだれだ」「ウラミ」「加島はオニ」などが書いてあった。

(谺雄二=昭和26年にはまだ残っていて,「出たらただじゃあおかねえぞ。」また同じ字で「加島さん,許してください。」って書いてあるのを見てびっくりした。悲惨な,気持ちの変化が書いてあった。)

五郎さんが『とがなくてしす』に書いた鈴木義夫のことはおれは知らないんだ。

監禁室でも一人死んだ人がいるんだよ。
郵便通帳を二人で偽造する事件があって,金を下ろして逃げた者はつかまらず,石川という人がつかまって,監禁所へ入れられた。「タべずいぶんうなっていたぞ。」って妙義舎の一号の連中が言い,朝めしをもって行った人が「返事をしねえ。」って言うんで,医局だの世話人で行って見ると,ブリキで張ってある壁に血がとんで,髪の毛を両手でつかんで死んでいた。どっか悪かったんだろうなあ。それを松本友太郎さんだの,中島省吾さんだの世話人がひきずり出してきたけど,この人は楽泉園に籍があったから葬式をやってもらえたんだよ。楽泉園に籍がなくて「特別病室」で死んだ人は葬式もなく,解剖室で棺桶に入れて,荒縄でしばって棒を通して世話人がかついで行って,焼き場で焼いたんだ。線香一本立ててもらったわけではないよ。人ごとながら,震えたよ。

楽泉園の者は「特別病室」へ入れられても,外にいる者が嘆願してくれるけど,よそからつれて来られた者はだれも知らないし,嘆願してくれる人もない。

湯の沢部落でバクチを打って警察につかまり,3〜4人「特別病室」へ入れられたことがある。朝鮮人だったけどね。傷があるもんだから治療に何回も行って,“頼んでくれ”“出してくれ”って。あの当時,協親会(朝鮮人の親睦会)があったかどうか,知らないけど,藤原さんや顔役が口をきいて,朝鮮人たちは一ヵ月ぐらいで出たんじゃないか。

名前は出せないけど,患者の父子が楽泉園へきて,子どもの方は目が悪かった。その二人が諏訪の原へ行ってジャガイモを掘って盗んだ,って農家の人につかまってしばられて,分館につれてこられた。目の見えない子どもはかまわないが,父親が一週間ぐらい特別病室に入れられた。特別病室へ着くまでなにかしゃべっているんだが,秋田のなまりがひどくて,なにを言いわけしているのか,わかんなかった。おれと門脇金次とふとんをかついでもって行かされた。新しいふとんなんかやらず,再製のふとんだった。死んだ人のふとんを打ちなおしたふとんが解剖室のとなりにおいてあった。

夏なんか特別病室へ行くと,小説に出てくるように南方で戦死した人に姐がさがっている,まったくあのとおりだよ。あんなせまいところからどうして蠅が入ってタマゴを生みつけたんか,包帯をとると,ぼろぼろ姐が出てくる。一週間か二週間に一回,看護婦が包帯を交換するわけなんだけど,嫌がってなかなか行かないんだ。行くときはおれたちがついて行く。

医者は一回だって診察に行ったことはない。

ひどいもんだったよ。においがすごいんだ,足の裏傷から。出口に腰かけさせて,足を出させて,幽霊みたいな人間の治療するんだから看護婦だってたいへんだよ。
入れられている人たちはおれたちに言うんだ。「おらあなにもやってねえ。」「頼んでくれ。」「出してくれ。」「ここへ手紙を書いてくれ。」って。
おれたちは分館に伝えるしかないんだよ,だけど,加島は全然相手にならなかったよ。「金はあとから払うから手紙書いてくれ。」ってずいぶん言ったよ。もう名前は忘れちゃたけど,九州の人が多かったな,九州の方言が多かったから,九州の人だな,ってわかるんだ。本妙寺あたりの。
本妙寺からきた人でも下っぱの人もみんないっしょにいたけど,指導者じゃあない人は入れられなかったんだよ。

五郎さんも「お風呂につれてきたのを見た。」って書いている。おれは薬局で作業をしていて,診察がおわるまでいるから帰りがおそく,いつも12時ごろになっちゃうんだよな。そうするとく藤の湯>のまえにゴザ敷いて髪の毛の伸び出したのが2−3人きていて,床屋作業の左内さんなんかが髪の毛を刈っている。そばに分館の加島だの本館の職員が見張っている。「風呂は勝手に入れ。」って。昼休みに患者はほとんど行かないから。そこで着がえさせて,また職員が二人つき,坂をよろけながら,上がって行くだよ。
だから冬なんか絶対につれてこなかったよ。すわらせて,髪を刈るところがないんだもの。ひと冬おいとくんだから髪の毛が肩まで伸びて,ひげだって垂れるほど伸びて,目だけギョロギョロ,している。

見張りは職員がやった。焼き場の仕事は世話人だったけれど。

楽泉園の分館職員は海軍上がりが多かった,海軍の看護手上がりが。〇〇さん,〇〇さん,みんな海軍なんだ。海軍の衛生兵がここにつとめた,看護手として。
多磨全生園みたいに守衛がお巡り上がりというのはなかった。
守衛は昼間は二人で,夜は一人で,タイムコーダーをもって,朝,昼,夜に一回,園内,各作業場―ミシシ場,印刷場,裁縫場をまわって歩いた
門衛には手錠が二つぶらさがっていた。それはむこうから患者にかけてきた手錠をはずしておいて行ったんじゃあないか。
門衛には二部屋あったから夜は一人で泊まっていたんかなあ。食糧運搬などみんな患者がやっていて,出入りがあったから。馬が二頭いて,冬は馬橇で草津の電鉄駅までネギだのジャガイモだのコメだのとりに行ってたんだ。

堕胎は多く,胎児が標本室に残っている。

多磨全生園で不倫をして子どもができたとか,よその療養所でいっしょになってこっちへ逃げてきた人なんかで,堕胎した人がいた。木村三郎さんと高尾安次さんは異常体質で,局所麻酔の注射を打つと,気違いみたいになっちゃう。木村三郎さんは局所麻酔の注射を打ったら,物干し竿をふりまわしたり,夜とび出しちやって,大さわぎしたことがある。そういう人以外は断種しなけりゃあ,夫婦舎に入れてくれない。十二畳半に五人も六人も雑居しているより四畳半に二人でいられる方がいいから。断種は嫌だ,って言えば,分館へ呼びつけられて,結婚は許可しない,部屋やらない,となる。

ほかの園には通い婚で,夜は大部屋に夫婦が何組も雑居,というのがあった。楽泉園には湯の沢部落が移転してきた事情で自由地区があったり,四畳半があったので夫婦で雑居はなかった。鈴蘭地区に服部ケサ医師がっくった病院を楽泉園に移築してあった。それは六畳だったり,八畳を二つに縦に割ったりして夫婦舍にしていた。

特別病室の問題はこんどの裁判で重大な問題になるだろうが,あんなに厳重にしといて,しかも療養所でありながら,医者が全然行かない,なんてひどいもんだたったよ。矢嶋さんは長らく医務課長だったけど,「特別病室」へ行ったことは一回もない。おれは医局にいたから薬が出れば,カルテがまわってくるのに,「特別病室」の分がきたことは一回もない。「苦しんでいる。」っていうので病棟に担ぎこまれた人は何人かいるけど。
苦しんでるのは飯とりが発見して,各務さんだの佐川君あたりが「おかしい。」って言うと,「じゃあつれてこい。」って医者が言って,病棟へ入れたことがある。

「特別病室」の温度は正確な記録はないけど,マイナス15度になったことはうんとあったろうな。保育所が火事になったとき,消火栓が凍っていて開かなかったことがあり,湯の沢からきた消防団がおこった。水が出ないとはなにごとだ。愛川宏が消防団の親方で,園長に食ってかかったのを見た。消火栓まで凍つちゃってるんだいな。「特別病室」は保育所と山ひとつで,ほとんどちがわない。あそこは日は当たらないし,赤松林の中だから寒かつたろう。ひどいもんだよ。

やせて,汗かいて,病んで,尿や糞をたれ流し,それがふとんにしみ通り,凍ったふとんに寝てる。死んで凍るんじゃあなく,生きているうちに凍っちやうんだもの,むごい話だよ。

看護婦が一週間に一回くらい外科治療に行くんだが,こわがってなあ,「ついてってくれ。」って言うから,しょうがねえついて行くんだ。春先,屋根の上からザザーッと音がしてチョコレートの厚いような,変なものが落ちてくるんだよ。トタン屋根の上にコンクリートがぬってあって,それに水がしみて,冬のあいだに凍ってひび割れて落ちてきたんだ。おどろいたなあ。

建物はずいぶんひどいもんで,だからよけい厳重にしたんだよ。
あの塀は鉄筋じゃあないよ。あんなに早く壊せるわけないもの。板で作って,それにラスを張り,鉄の網の目を張って,コンクリートをぬりつけたもんだ。国会の調査団がきたとき,2〜3日まえに塀をこわしたんだから。ふつうなら,鉄の玉やなにかで叩き壊さなけりゃあ,壊れるわけないんだよ。あの中にはめしを運ぶ人しか入らなかった。守衛はカギを開けてやるだけ。ひどいもんだったよ。死ねば,遣体を解割室へ運ぶ。解剖室が開いてなけりやあ, 解剖室のまえに担架で半日もおいておく。解剖室からは火葬場へ世話人にもって行かせた。線香の一本も上げない,お経の一つも上げてやらない。あとに残った患者としても,恥ずかしいよ。神経が麻痺しちやった,っていうんか。言えば,こんどは自分が「涼しいところへ行くか。」って言われる。

水沢定作さんが故郷(くに)へ行って,帰ってくるとき,軽井沢で草軽電鉄に乗車を拒否され,道を知らないから軽井沢から60キロ線路づたいに歩き,工夫が道具を入れておく小屋に泊まり,二日かけて帰ってきた。足に傷をつくり,くたびれきってやっと楽泉園の天城舎へたどりついた。
加島が天城舎の世話人だった久保田保夫さんとおれを呼び出し,「水沢を特別病室へ入れる」ってきかないんだ。窓のところにあったノコギリで水沢さんをたたこうとしてふりまわしたよ。おれと久保田さんはとにかく謝った。「勘弁してやってくれ,こいつは子どもがいて,心配で心配でしょうがなくって,行ったんだから。」って。
加島は怒って怒って「(汽灌場の)高い煙突に二日三目吊るしておけ。」って。おれたちは平謝りに謝って帰ってきた。加島は「めしなんか食うな。」って言ってたから定作さんにはめしを一週間ぐらいくれなかったんじゃあないかなあ。

嬬恋村の三原からこっちの線路の上に血が点々とついているんで線路工夫が「なんだろう」って不審に思ったそうだ。国の方へ通知されれば,監禁所へ入れられるからとにかく一生懸命帰ろう,と思って帰ったんだろうなあ。
市川さんも同じように歩いた。

(谺雄二=水沢さんと市川さんの話は『風雪の紋』にのっている。)

「特別病室」へ行くのはやだったなあ。行かないわけにはいかないし。

時効だから訴えるわけにはいかないんだろうけど,国の責任者は認めなければならない,と思うよ,こういう事実を。ひどいもんだった。楽泉園の患者はそんなに大勢入っていないから園内ではあまり知らない人が多い。特別病室がいつ建ったのか,知らない人もだいぶいたようだよ。 こっそり建てたんだなあ。
あんなところに窪地がある,なんてわかんないものなあ。ある程度整地したんだろうけどな。

あれは日本のアウシュウビッツだよ。

「特別病室」(重監房)については証言も少なく,何より実際に入れられた人からの証言がない。高田さんや沢田さんのように実際に見聞きした人でも証言する人は少ない。
歳月も流れ,当時を知る職員や看護師で存命している人も数少ないだろう。まして加島正利など直接に重監房に拘わった人たちは,もはや亡くなっていることだろう。


私は若き日にアウシュヴィッツ収容所を訪ねたことがある。
ガス室の前に立ち竦んだこと,薄暗い監禁室の前で背筋に悪寒が走り,この世の地獄を垣間見た記憶は,今も鮮明に残っている。

この残酷な事実,無法地帯の中で行われた人を人と思わない残虐な行為を指示・実行したナチス・ドイツの感覚や意識とは如何なるものであったのか。今まで多くの学者や研究者が多方面からさまざまに研究し解明しようとしている。

私にとって衝撃であり,追究したい課題の一つは,アイヒマン裁判における彼の言葉が,加島正利の言葉と重なったことである。

裁判を通じてアイヒマンはナチス率いるドイツによるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べながらも,自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張した。この公判時にアイヒマンは「一人の死は悲劇だが,集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉も残している。

1947年,自治会が待遇改善に加えて「特別病室」の撤廃を求めて立ち上がった「人権闘争」のとき,厚生省調査団を交えての話し合いの席上で,加島正利は「俺は悪いことはしていない。忠実に服務してきただけだ」と述べたのである。(その後,加島は懲戒免職の処分を受けているが,罪を問われてはいない。)

彼らの証言を無責任と詰ることは容易い。彼らの行為を当時の国家体制や洗脳教育のせいにすることも簡単だ。だが,本質は別のところにあると考えている。
この問題に関しては,しっかりと検証してみたい。

本書を読み終えて,その非人間的行為が平然と行われてきた事実に,やり場のない怒りと無念さを強くする。ただ唯一の救いは,次の言葉だけである。

どのような境遇の下でも人が生きている限り,そこには人生がある。また,その人生が過酷であればあるほど,それに負けずに生き抜く人が輝くのである。
 抑圧の歳月に歪みし身を絞りらい者とて人間なるぞと叫びき

『とがなくてしす−草津重監房の記録』(沢田五郎)

posted by 藤田孝志 at 13:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『日本のアウシュヴィッツ』刊行にあたって

「特別病室」(重監房)に関する貴重な証言である本書は,ぜひとも多くの方々に読んでいただきたい。それが本書を献本してくれた谺雄二さんの願いである。
私は本書をもとに,重監房とは何であったのか,国家におけるハンセン病とは何であったのか,ハンセン病の歴史的背景を明らかにし,教材化したいと考えている。そして,生徒だけでなく我々教師はもちろん,多くの国民に伝えていきたいと思っている。

以下に転載する谺雄二さんの文章は,「特別病室」(重監房)の歴史的背景及びその問題性を的確に,そして簡潔にまとめている。

刊行にあたって

らい予防法人権環害謝罪・国家賠償請求訴訟
草津原告団長谺 雄二

あなたは「特別病室」をご存じですか? それはらい予防法の「患者懲戒検束権」という所長に与えられた警察権に基づき,1938年,群馬県草津町にある国立ハンセン病療養所栗生楽泉園内に建てられた殺人獄舎の名です。

かって「らい」とよばれたハンセン病は,細菌による単なる感染症に過ぎず,その病菌はいまだに培養ができないぐらい弱く,したがってきわめて感染しにくい病気なのです。しかしその症状が目で見てわかる顔や手足に醜く現れ,またこれといった治療薬がなかったため,「不治の病」や天の罰があたった「天刑病」などとよばれ,むかしから嫌われていました。

明治維新後「富国強兵」をめざした日本は,1894年の日清戦争と1904年の日露戦争に勝利し,いよいよ世界の列強に割り込む勢いでした。しかし同時に政府は,国の体面上,それまでまったく放置していたハンセン病対策に乗り出さざるをえなくなったのです。維新後の新条約によって外国人が日本のどこにでも自由に住み,旅行できるようになったことから,そんな外国人の目を通して,神社やお寺で物乞いなどしているハンセン病患者の救済が問題化してきたためです。当時患者は家族を偏見・差別から守るため,自分からすすんで家を出,遠い旅の空のもと路上生活をよぎなくされていました。結局政府は1907年,法律「癩予防二関スル件」を制定して,“患者救済”とは反対の「患者取締り」に着手したのです。いわば政府にとってハンセン病は「国辱」でしかなかったのです。
したがってその患者収容施設は,表向き「療養所」の看板をかかげていても,内実は最初から刑務所以上だったのです。警察官らに追い立てられて強制收容された患者を待つていたのは,まず強制労働でした。患者に患者を看護させ,死ねばその火葬まで患者にやらせる。看護ばかりではありません。施設運営に必要な仕事はすべて患者の労働でまかない,そのうえ子孫を根絶やしにする断種や中絶を強要するなど無法のかぎりをつくして,ごくごく安上がりに患者の隔離撲滅をはかったのです。
そして当然起こる患者の不満をおさえつける必要から,1916年に先に述べた所長の「患者懲戒検東権」を導入,所内に「監房」を設けて威嚇もしたのです。

日本が中国東北部へ侵略戦争を開始した1931年,この年政府は「癩予防法」を制定,官民一体の本格的な“患者狩り”を強行しました。強制収容・終生隔離の患者撲滅政策は,ますます凶暴をきわめ,収容施設内には人間の尊厳の一かけらも認めようとしない,そのあまりにもむごい仕打ちに患者たちの怒りが常に渦巻いていました。じじつ一1930年代には単発的ではありましたが,各施設でつぎつぎといわゆる「患者暴動」が起こったのです。
つまり「重監房」ともよばれる殺人獄舎「特別病室」は,そのような患者の決起を経験した政府と施設側が,いっそう弾圧を強化し,いっさいの自由をうばう手段として,全国の患者対象に設置したものなのです。

これに比べれば一般刑務所の重屏禁でさえ人間的に思える―そんな「特別病室」について,栗生楽泉園患者五〇年史『風雪の紋』(同園患者自治会)や沢田五郎著『とがなくてしす−私が見た特別病室』(ぶどうぱん通信)などでは,およそ次のように説明しています。

「建坪32・75坪(約108平方メートル),周囲は約4メートルの鉄筋コンクリート塀を巡らし,また内部も同じ高さの鉄筋コンクリート柵によって幾重にも仕切られていた。そして八房にわたる獄舎は,各房(便所を含めて約四畳半)ともくぐり戸式の出入り口は厚さ約15センチの鉄扉で固められ,明かり取り窓といえば縦13センチ,横75センチしかない半暗室で,しかも寒冷地の草津高原にあって厳冬期には零下18度〜20度にも下がる極寒に,暖房はなく,破れ布団が二枚だけ。 さらに食餌の差し入れ口はわざと足もとに設けられ,やっと椀一つが通る程度という厳重さ。このように『特別病室』は,一般監獄でもその例を見ないまでにおぞましい造作がなされていたのである。そのうえ収監者の食餌は,減食の刑も課せられているので日に二回。朝は薄い木製の弁当箱に握り飯一つ分ほどの麦飯と梅干し一個,それに具のない汁が一椀。昼に配られる二食目は,朝のものより五割方大きい弁当箱に麦飯とやはり梅干し一個,あとは白湯一椀だけ」と。

「特別病室」への投獄が開始されたのは,設置の翌年1939年からで,それは敗戦後の1947年まで続きました。この間の収監者数はじつに92人。当然弁護士はつかず,拘留期間もあくまで施設側の意のまま,いわば「無期限」ということです。なぜなら前出『風雪の紋』によると,拘留期間の最も長い記録は533日で,その533日目が即ち本人の獄死した日ということだからです。同時にこの「533日」について,「特別病室」がどんなところか知る者は,だれもが一様にこんな驚きの声をあげます。「あんなところで,よくそんなに長い期間…」と。収監者92人中,獄死者22人。そして釈放後間もなく死んだ人も30人に及ぶと聞いています。では,いったい施設側裁定のどんなr罪」で,この療友たちは投獄されたのでしょうか。ここでいくつかの事例をあげてみますと,それはこうです。

まず拘留533日」で獄死したその人の名前は,「満八十山」(みつるやそやま)。三宅一志著『差別者のボクに捧げる!』(晩聲社)によると,満八十山という人は,1930年代にまだ存在していた浮浪患者集団の親分で,主に四国・大阪方面で病人宿や古物商など営みながら,施設を逃げ出してきた患者の面倒をみたり,重症な浮浪患者の世話をしたりしていたとのこと。また妻の境テイという人はこの病気ではありませんでしたが,施設にも出かけて行って,よく入所患者の頼みを聞いてやっていたそうです。こうした満八十山夫妻のような人は,いわば政策阻害者であり,警察も施設側も手のつけられない「不良患者」としてマークしていたところ,1941年,「盗品の自転車を買った」という容疑で大阪府堺市からはるばる草津の「特別病室」まで送致されてきたのです。健常者の妻も「不良患者のつれあい」という理由で同罪,夫といっしょに投獄されました。ただし彼女の場合,拘留390日で釈放されるのですが,それは衰弱のあまり体が動かなくなってしまったため,もう死んだものとみなされて出されたとのことでした。なおこの境テイさんは,後日患者大会の場で「特別病室」告発の証言をしています。

同じく1941年,東京・多磨全生園から送られてきた山井道太という人の投獄理由もじつに酷いものです。『倶会一処−患者が綴る全生園の七十年』(多磨全生園患者自治会)によれば,それは「患者作業の洗濯場主任である山井が,長靴の支給を要求。長靴がなければ傷や神経痛に悪いから仕事はできないと作業をさぼり,汚れ物の包帯,ガーゼ等をくさらせてしまった」―だから「特別病室」だというのです。洗濯場も施設運営上欠かせない作業の一つです。当時どの患者作業も一日の賃金はやっとタバコ一個分程度。しかも作業にアナをあけると,患者全体に迷惑をかける仕組みになっているため,事実上の強制労働でした。

事件のいきさつをもう少し詳しく記しますと,こうです。「水を使う洗濯作業に必要な長靴の支給がない。以前支給された長靴は破れて役に立たない。作業員の多くは足裏にこの病気特有の傷があって常に包帯が離せない。長靴がなければその包帯も水に濡れて傷ばかりか神経痛にも悪い。山井は主任の立場から作業の責任をはたすためにもぜひ長靴の支給を!と施設に願い出た。しかし施設側は患者作業に支給する長靴はないという。ほとんどの職員が『感染予防』と称し,ピカピカの長靴で歩き回っているのにである。山井が施設側の回答を作業員たちに伝えると,次の日から皆は作業に出て来なくなった。それで再生して使う汚れ物の包帯やガーゼ等がくさってしまった」というわけなのです。施設側は自分のことは棚に上げ,作業員のサボタージュは主任の「煽動」ときめつけて,この山井道太という人を同年6月5日“草津送り”つまり「特別病室」に投獄したのです。これを泣いて抗議した妻に,施設側は「お前も草津へいきたいか」といっしょに連行して投獄。そして拘留44日目の7月18日,夫の方が重態におちいり,妻もともに出獄をゆるされるのですが,結局山井というこの人は楽泉園の病棟で9月1日に亡くなってしまったのです。

「特別病室」のある栗生楽泉園の入所者では,鈴木義夫という少年の事例があります。「特別病室」に投獄された者の多くは施設側に睨まれた結果ですが,この少年の場合は異例で,それは殺人の嫌疑でした。前出沢田五郎著『とがなくてしす』によって,まずはその経過をたどってみましょう。

1942年5月,14歳で楽泉園に収容された鈴木少年は,その年の11月,家恋しさに故郷に逃げ帰っています。そして二年後の1944年5月25日,その故郷の小都市で若い女が路上で刺殺されるという事件が起き,当夜外出していた鈴木少年に嫌疑がかけられたというのです。同年10月23日,警察は少年に嫌疑をかけたまま楽泉園に送り返し,施設側も少年をさっさと「特別病室」に投獄してしまったのでした。以後取り調べなど一切なく,闇地獄,孤独地獄にさいなまれた鈴木少年は,やがて錯乱状態となり,拘留444日目の1946年1月4日,まだ一八歳の若いその命を無残にも奪い取られたのです。

『とがなくてしす』の著者は,捜査の網に偶々かかった鈴木少年がハンセン病に対する偏見から殺人の嫌疑をかけられ,そのうえ殺人罪に仕立て上げられている惧れがあるとして,現在日本共産党瀬古由起子代議士の協力を得,この事件の調査に着手しています。 .

このほか熊本'本妙寺の周辺にあった患者部落が,1940年7月9日早朝,警察官と施設職員220人の急襲をうけ,「検挙」された146人の患者は,全国の各施設に分散収容されるという事件があります。ここ楽泉園にも同月16日,男17人,女10人,そして附属保育所へ児童10人,以上37人が収容され,そのうち男17人は直ちに「特別病室」に投獄されたのです。しかし「特別病室」はすでに記したように,四畳半ほどの狭い獄房が全部で八房ですから,他に投獄する場合のスペースの心配があったのでしょう,17人中8人は二〜三日で拘留が解かれ,患者部落の幹部と見られた9人が9月11日までの57日間にわたって「特別病室」の暗黒と飢餓に苦しめられ続けたのでした。

1945年日本は敗戦し,翌年には平和・民主主義・基本的人権を保障した新しい意法が公布されました。その意法の下,1947年“人権闘争”に起ちあがった栗生楽泉園の患者たちは,不良職員の追放とともに「特別病室」の撤廃をかちとりました。そして1949年には化学治療薬“プロミン予算獲得闘争”をたたかい,ハンセン病を「不治の病」から「治癒する病」に変えました。人道にはもちろん,もはや医学にも反する予防法の全面改正をめざし,1951年各施設の患者は運動促進のために全国組織を結成。ところが政府はその全国組織あげての患者の予防法改正要求を逆手にとり,1953年,明治以来の患者隔離撲滅政策を引き継ぐ「らい予防法」を改めて制定したのです。

化学治療薬プロミン開発以後は, 国際的にも患者の社会復帰を推進する開放外来治療政策が主流になっていたにもかかわらず,政府は頑迷にその考えを変えようとしなかったのです。当然そのような日本の誤ったハンセン病政策に,国内外から批判が集まったのですが,政府はそれを無視し続けました。いうまでもなく,その間も患者の苦難のたたかいは止むことなく,ついに1996年,やっと希代の悪法.「らい予防法」の廃止をかちとったのです。

ところが菅直人厚相(当時)は,患者代表を前に「予防法の見直し(廃止)の遅れ」について謝罪したものの,国のこの誤ったハンセン病政策によって,じつに一世紀にわたり患者とその家族が受けた被害については,一言の謝罪もなく,またいまだに何らの賠償もありません。

人間の尊厳を踏みにじっておきながら,謝罪も賠償もしょうとしない国に目をつぶることは,まさに自らの人権放棄を意味します。人間である以上,このままでは死んでも死に切れない―そんな思いから私たちは国を被告席に引き出す裁判をおこしたのです。この裁判で私たちは,国のハンセン病政策における犯罪の数々を国民の前に明らかするとともに,まずは私たちとその家族に対する国の謝罪を求めずにはいられません。

その重大な国家犯罪の一つが「特別病室」です。すでに書証としては文中で紹介済みの沢田五郎著『とがなくてしす−私が見た特別病室』がありますが,このたび同じく栗生楽泉園の療友高田孝より「特別病室」に関するきわめて貴重な証言が得られましたので,ここに『日本のアウシュヴィッツ』と題し,法廷と国民のみなさんにお届けしたいと存じます。アウシュヴィッツは,ご承知のとおりポーランド南部の一都市のドイツ語名で,第二次大戦中ナチス・ドイツの強制収容所が置かれ,ユダヤ人など多数が虐殺されたことで有名です。証言者は,「特別病室」がそのアウシュヴィッツの強制収容所と同じだというのです。

なお,この高田孝証言『日本のアウシュツヴィッツ』刊行にあたり,1953年の“予防法闘争”時に施設側が証拠隠減をねらって取り壊した「特別病室」の跡地を実測,その平面図ができあがりましたので,紙面のなかで紹介したいと思います。この実測は,私たち国賠訴訟を支援する会の中野泰さん(群馬),小林若子さん(北海道),中川義雄さん(東京)の手によるものであり,作製されたその図面から「特別病室」の各房の隔絶のすさまじさ,投獄された者の底知れぬ絶望感がじかに伝わってくる気がいたします。

題字は国賠訴訟の原告鈴木幸次さんの筆をわずらわしました。
これらの方々に厚くお礼申し上げるしだいです。

1999年5月

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『日本のアウシュヴィッツ』

栗生楽生園の在園者で,ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会(全原協)会長代理の谺雄二さんが同じ栗生楽生園の療友である高田孝さんから聞き取った「特別病室」(重監房)に関する証言集がある。『日本のアウシュビッツ』という小冊子である。

私が本書を知ったのは,宮坂道夫氏の『ハンセン病重監房の記録』に一部が載録・引用されていたのを読んだからだが,どうしても本書そのものが読みたくて,著者(インタビュアー)である谺雄二さんに連絡をとってお願いしたところ,ご厚意で献本していただいた。
一読したその衝撃はあまりにも強烈で,私の脳裏に深く焼き付いた。こんな歴史的事実が闇に埋もれていたことが信じられなかった。確かに,金泰九さんやハンセン病回復者の方々から「草津送り」「頭を冷やしてくるか」「涼しいところに行くか」等々の威し文句とともに草津重監房のことは聞いてはいたが,彼らも直接に見聞したわけではなく,話として耳に入ったことであった。私自身も想像の域であった。だからこそ,書かれている内容に愕然とするだけであった。
以後,ハンセン病関係について文献や資料などを調べる中で,特に重監房に関する資料や証言には注意深く収集している。


本書は,昨年刊行された谺雄二・福岡安則・黒坂愛衣編『栗生楽泉園入所者証言集』に再録されてはいるが,本書はもともと自費出版であり,一般書店からは入手不可能であり,なかなか目にすることができない。そこで,抜粋ではあるが,重要な証言の部分を転載させていただこうと思っている。(谺雄二さんには転載の許可をお願いするつもりでいる。)


「知る」ということの重要性,正しい「知識」(情報)の必要性を痛感している。
実際に,直接に見聞できない過去の歴史的事実(史実)に関して,その正しい解釈がなされなければならないが,その前提は第一次資料であり,何よりも当事者の証言である。
そして,その証言と歴史的事実をどのように理解し認識し,解釈するかの検証と考察が重要である。その場合,独断的な解釈と偏向した理解からは曲解や歪曲が生じるだけである。

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新良田教室

以前,教師の予防着のことで少し問題になったことがあったが,ここにはまだ厚い白衣の壁がある。・・・・・我々は生徒である前にH氏病患者であるという意識を植え付けられている。それは,若い魂の余りにも重い負担である。しかも,我々は教師に対する時,先生と生徒という以前に,健康者と患者ということを深く意識する。・・・・・新良田教室の先生の中に<季節風の彼方に>に出て来た先生のような人が現れないとは,私は思わない。しかし,現実にあれだけの情熱を持った先生がいるとは,残念ながらいい切れない。先生の情熱を阻む何かが,この島の中にも,生徒自身の中にも存在する,生徒にとって異邦人である先生たち・・・・・。白ずくめの予防着,予防ズボン,予防帽。そこには厚い白衣の壁が厳然と存在する。行き帰りに校門で逢う背広姿の先生たちに,我々は自分の知らない,どこか遠い処の人間を考える。そして白衣の先生に始めて近づくとこができる。が,その距離は限られている。

posted by 藤田孝志 at 13:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 長島愛生園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「らい予防法」の背景

○第1回国際らい会議

1872(明治5)年,ロシア皇太子の来日を前に,東京浅草において物乞いをしていたハンセン病患者が,本郷加賀屋敷の長屋に強制収容された。これは,近代日本が欧米諸国に列するために,首都東京でハンセン病患者が物乞いする状態を見せたくないという政府の方針に沿ったものであった。

近代以前,為政者は患者が神社仏閣の門前で物乞いをしていても何ら関心を示さなかった。ハンセン病は業病であると考えられており,一般国民からの嫌悪感はあっても,恐怖心は少なかった。

1897(明治30)年,ドイツのベルリンで第1回国際らい会議が開かれた。ハンセンによるらい菌の発見を受け,世界のハンセン病の現状を把握し,その対策を確立することが,会議の目的であった。

この会議では,ノルウェー方式として次の政策が報告された。

一般法の枠組みで予防活動を行い,病状の悪化している者を居住地の病院に隔離し治療にあたらせていること。その場合も,放浪している患者に対する強制隔離と,他の者に対する任意隔離の二本立てを採用していること。病院等での看護は家族が行い,患者の病状が改善したら家に帰していること。

これを踏まえて,次のことが決議された。

ハンセン病はらい菌による伝染病であること。伝染病の程度は顕著ではなく,各型によって異なっていること。隔離はハンセン病が地方疾患的,あるいは流行病的に存在する地方では望ましいこと。隔離については,絶対隔離方式のハワイ方式ではなく,相対的隔離方式のノルウェー方式が有効であること。

この国際らい会議の決議を受けて,医学者を中心に,ノルウェー方式による隔離政策の有効性が強調されるようになっ

○「癩予防ニ関スル件」(法律第十一号)1907年(明治40年)

1905(明治38)年に日露戦争が終結すると,光田健輔,ハンナ・リデル,一部の代議士らは,渋沢栄一,大隈重信の支援を得て,ハンセン病予防の方策確立とハンセン病療養所に対する経済的援助を求めて,世論を喚起するための宣伝活動を行った。
この集会において,渋沢は「これまではただ遺伝病だと思っていたらいが,実は恐るべき伝染病であって,これをこのままに放任すれば,この悪疾の勢いが盛んになって,国民に及ぼす害毒は計り知れないものがある」と発言した。
光田健輔も,ハンセン病が恐るべき伝染病であること,日本は世界第一の「らい国」であることなどを述べて,渋沢の発言を医学面から裏付けようとした。

国際らい会議で決議された「相対的隔離」が「絶対隔離」にすり替えられたのである。決議では伝染性の程度が顕著ではなく各型によって異なっているとされたにもかかわらず,ハンセン病は恐るべき伝染病であるとされた。

政府は,どうして渋沢・光田らの国際的な見解に反する独自の見解を採用したのか。

内務省内に設置された中央衛生会においてハンセン病予防法案が検討され,そして「癩予防ニ関スル件」が審議された衆議院本会議において,内務次官吉原原三郎はこの点を次のように説明している。

ハンセン病は伝染病であるが,その経過ははなはだ緩慢である。したがって,ハンセン病患者を取り締まり,隔離するのは医療・治療的観点からではない。日露戦争に勝利し,日本は一等国になったので,外見上よほど厭うべきハンセン病患者が神社等で浮浪していたり,路上で物乞いをしたりすることは国の恥であり,これらの取り締まりが必要である。

同じく,衛生局長窪田静太郎も貴族院の癩予防ニ関スル法律案特別委員会で「本案ニ於キマシテハ主トシテ浮浪徘徊シテ居ル者デ病毒ヲ散漫シ,風俗上ニモ甚ダ宜シカラヌト云フモノヲ救護イタシテ此目的ヲ達スルト云フコトヲ第一ニ致シテ居リマス」と,隔離に対する風俗取締上の理由を述べている。

この明治政府の考えの背景には,日英通商航海条約が発効し,欧米人の内地雑居が開始されていたことが深く関係している。すなわち,内地雑居により,日本国内を自由に居住し,旅行できるようになった。これにより,神社仏閣で物乞いをする浮浪らいの姿を欧米人に見られることは「国家の屈辱」と考えられるようになったのである。

日清戦争(1894〜95年;明治27〜28年)・日露戦争(1904〜05年;明治37〜38年)の勝利に意気上がる日本において,明治政府は欧米と肩を並べる文明国・近代国家と認められることが条約改正の成功のためにも至上目的であった。

当時の欧米では「らい」は「過去の病気」になっていた。先の目的を達成するため文明国へと国家体制を整えようとする明治政府にとって,欧米諸国に比べ神社や寺の門前で物乞いをするハンセン病患者の姿は「国辱」と映るようになった。「浮浪らい」の存在は,欧米諸国への体面上の大きな問題となったのである。

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解剖・標本

解剖願
御収容後難有御治療相受居候処 万一死亡の際は医術研究の一助とも相成申可くに付き解剖相成度生前此段奉願候也

ハンセン病患者が療養所に入所するに際して書かされた「解剖承諾書」である。

かつて全国にあるハンセン病療養所は「解剖天国」とまで言われてきた。光田健輔を慕って多くの若い医師が長島を訪れたのも「解剖」ができるからであったとも言われている。事実,神谷美恵子が光田健輔を長島に訪ね,滞在していた日々を書き記した文章にも,解剖の様子が多く書かれている。
研究熱心を賛美・尊敬して書かれている。しかし,それは医者の目線でしかない。患者はモルモットと同じである。ここにも,目的のために手段を正当化する独善性が隠蔽されていた。

「ろくな研究設備もないのに,何のために解剖が行われたのか分かりません」という入所者の証言は重い。

「解剖」は光田健輔の姿勢と考えを反映したものである。

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